空想歴史文庫

楊延昭


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雑感

 楊延昭といえば『楊家将演義』などの主人公の1人として有名である。『楊家将演義』は、主に楊業や楊延昭ら「楊家将」と遼との戦いを描いた作品で、物語終盤には遼を滅ぼし、さらに南蛮や西夏を討伐するという史実から離れた展開となる。『楊家将演義』は中国でも人気作品で何度かドラマ化もされていて、日本でも放送された。ところが、殆ど観れない環境だったり、気が付いたら放送が終わっていたり、どうにも縁が薄い。それでも、たまたま数回観ただけでも三国志のように興味を惹かれるものがあったと記憶している。

 『楊家将演義』の前半の主人公といえるのが、楊延昭の父・楊業だ。楊業は「楊無敵」と称されるほどの名将で、主に遼との戦いで活躍し、「楊」の旗を見ると遼軍は恐れて引き上げるほどだった。楊業は最初、中原を征した宋と、燕雲十六州を支配する遼に挟まれた北漢という小国に仕えていたが、天下の趨勢が決していたので主君に降伏を促し、以降は宋の将となった。降将ながら宋の太宗に非常に厚遇されたのだが、それがある意味で悲劇の始まり、同僚である譜代の将軍たちから妬まれることとなる。そこで、遼と戦いで守戦を唱えたところ、内通を疑われて討って出ざるを得なかったが、楊業は遼軍を誘い込んで味方の伏兵で殲滅する必勝の策を献じた。ところが、遼軍を誘い込んでみれば、そこにいるはずの味方の姿はなく、敵中に孤立して捕虜となり、降伏をよしとせずに絶食して亡くなった。

 こういう具合に楊業というのは、非常に優秀で忠義にも厚かったが、それが報われずに最期を迎えた悲劇的な人物だった。『楊家将演義』は、こうした悲劇的な部分が強調されて、楊業だけに留まらず、その後も楊一族の忠義が報われない展開が繰り返されるという話らしい。
 ちなみに、史実の楊延昭の子・楊文広(三男)も『楊家将演義』に登場するが、楊延昭の孫という設定になっている。史実での楊文広は、成人した頃は既に遼との和議が成立して久しいため、父・楊延昭や祖父・楊業のように抗遼戦争での活躍はない。代わりに、西夏や南蛮(儂智高の乱)との戦いで活躍したという。楊文広について調べていて知ったのだが、西夏との戦いで范仲淹に軍才を見出されてその麾下に加わったという経緯があり、思いがけず范仲淹との繋がりが見付かって驚いた。范仲淹は、狄青、郭逵、楊文広と、次々に名将を世に送り出して、よほど人を見る目があったのだと改めて感じさせられた。それで楊文広は、范仲淹に見出された狄青に従って儂智高の乱でともに戦ってもいる。

 楊延昭の翻訳を読むとわかると思うが、楊延昭は慈悲深く辺境に安定をもたらしたために、民衆から非常に敬愛されていた。そのおかげであろうか、「楊家将」の存在は民衆の間で非常に人気があるようで、「楊家将」を直接的に題材とした物語に留まらず、物語中に「楊家将」の末裔とされる英傑が登場する作品がいくつか見られる。例えば、『水滸伝』に登場する青面獣・楊志が最も有名だろう。
 また、『水滸伝』の直後の時代に相当する『説岳全伝』で岳飛の麾下の楊再興も楊家将の末裔とされる。この楊再興という人物は実在する猛将で、抗金戦争で活躍。300騎で金軍12万に囲まれて奮闘し、2千余りもの敵を道連れにしたが、大量の矢を射られたために火葬した遺骨から2升もの鏃が出てきたという逸話が残っている。史実の楊再興は楊家将の末裔とは記されていないが、その勇猛さと抗金の将として宋に尽くした忠義から、同姓ということで民衆の願望が楊家将の末裔という設定に結びついたのだろう。

 ちなみに、近代の作品ではあるが、金庸の武侠小説『射G英雄伝』に登場する楊鉄心とその息子の楊康(主人公の義兄弟で宿敵)が、楊再興の末裔という設定となっている。そこで、楊鉄心が楊家槍法の達人で「回馬槍」という技を使うのだが、『楊家将演義』の楊延昭もこの技を使うらしい(翻訳参照)から、おそらくこの楊再興は『説岳全伝』の楊家将の末裔という設定を使ったと思われる。このように、様々な物語の中で「楊家将」は伝説的な英雄というように扱われるようだ。「楊家将」がいかに民衆に愛されているかがこれでよくわかる。

 さて、この『楊家将演義』は、最近『完訳 楊家将演義(上・下)』(岡崎由美、松浦智子・訳)が出版されて、日本語でも読むことができるようになった(文庫版が出てないのでまだ読んでいないが)。しかし、この完訳版が出るまでは、北方謙三氏の『楊家将(上・下)』とその続編『血涙(上・下)』が、日本語で読める唯一の楊家将小説だった。
 北方謙三氏は元々ハードボイルド作家で、近年ではハードボイルドな作風の歴史小説を書くようになった。特徴としては、例えば『三国志』で呂布や馬超のような豪傑が孤高の戦士として描かれて、ストイックな生き様とでも表すのか、その人物像(特に北方版呂布)が格好いいとして非常に人気がある。しかし個人的には、悟りの境地に達しているような人物に描かれながら、滅びの道に進んでいくような展開に違和感があって、受け入れ難いものがあった。こういう経緯もあって、北方氏の『楊家将』に手を出すのを躊躇っていたが、当時は唯一の楊家将小説だったこともあって、思い切って読んでみることにした。すると、北方氏のハードボイルドな作風と楊業の悲壮な境遇とが非常に相性がよく、期待した以上におもしろかった。

 北方版『楊家将』は、史実よりも『楊家将演義』の設定に基づいているが、原典の『楊家将演義』そのままの話にするというものでもなく、独自の世界観で描かれている。楊家軍は楊業を筆頭に、楊延昭を六男とした七人兄弟が登場。遼軍では、『楊家将演義』では殆ど活躍しないらしい耶律休哥が重要人物として登場し、楊家軍の宿敵として戦いを繰り広げる展開となる。特に、耶律休哥は孤高の戦士枠で、おそらく北方氏は楊業(楊家将)よりもこちらに重点を置いて描きたかったのだろうと感じられる。
 『楊家将(上・下)』は楊業が戦死して楊家軍が一旦崩壊するところまで描かれる。『血涙(上・下)』は、その後、楊延昭が楊家軍を立て直して、遼軍と死闘を繰り広げる話となる。ここで、原典との大きな違いは、記憶喪失で遼軍の将となる楊四郎(楊延朗)が、原典では後に記憶を取り戻して宋に復帰するのに対して、北方版では記憶を取り戻してもそのまま遼将として楊家軍と戦うところにある。

 楊四郎は耶律休哥の生き様に共感を覚えて、記憶回復後も密かに父として慕って、遼将として生きるをこと決意する。北方氏は、宋軍の中で戦う楊一族の境遇よりも、親兄弟と生き別れて異国(敵国)の地で、記憶を失いながら生きなければならなかった楊四郎の境遇の方に魅力を感じたのであろう。『血涙』は『楊家将』の続編とされながら、主人公は楊四郎や耶律休哥となっていた。ちなみに、耶律休哥という人物は、史実では「電帥」の異名をもつ名将らしい。
 そういうわけで、楊延昭は、耶律休哥や楊四郎から手強い相手と目されながら、この2人以外の敵は圧倒するが、この主人公の2人と対峙すると常に後手に回ってかませ犬的な扱いに終始した。結局最後も、完全な劣勢の中で捨て身で楊四郎に斬りかかったところ、伝家の宝刀の性能のおかげで楊四郎の剣を折って運よく勝てたにすぎなかった。史実でその後も生き続けるからご都合主義で決着させただけで、楊延昭の魅力が何も感じられずガッカリしたものだ。
 それでも、北方氏は楊家将自体に何らかの魅力を感じていたのだろう。『大水滸伝』シリーズと称される『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』の各作品が、北方版『楊家将』と直接的につながる時代設定で描かれているという。北方氏の作風からすると、水滸伝の登場人物との相性はよさそうに思えるが、北方版『三国志』や『楊家将(血涙)』の経験から、好みが合わないだろうということで手を出すのをやめた。聞くところによると、水滸伝の楊志の養子(ダジャレではない)の楊令(架空の人物)が水滸伝と岳飛伝との間の時代に大活躍するそうで、やはり好みが合わないなと感じた。

 さて、創作の世界から改めて史実に目を向けると、史実の楊延昭でまず最初に驚かされたのは、楊延昭が楊業の六男ではなかったことである。六郎だから六男だと直感的に思うし、なにより『楊家将演義』で六男とされていて、楊延昭に関する日本語の情報も調べた限りでは六男となっていたから、当然史実もそうだと思ていた。ところが、中文の情報を調べてみると「楊業的長子(楊業の長子)」と書かれている。何かの間違いではないかと思った。
 しかし、六郎の由来にある通り、遼の人々が楊延昭に畏敬の念を抱いて、将星の化身と見なしたことが始まりのようである。六郎=六男が創作というのは、『楊家将演義』以外の創作物で四郎や五郎とされていることからも裏付けられる。『楊家将演義』などの創作物は、六郎=六男という直感的な勘違いによって生じたものだろうか。

 楊延昭の戦歴の中で最も注目されるのは、遂城の戦いだ。碌な備えもない小城にわずか三千の守備兵で遼の大軍を迎え討ち、城壁に水を撒いて凍らせることで、一夜にして城壁を修復する妙計を用いて遼軍を退けた戦いである。この戦いでの勝利を受けて、楊延昭が守った遂城は「鉄遂城」の名で呼ばれるようになる。張栄(張敵万)が縮頭湖で勝利して後に得勝湖と改められたこともそうだが、単に勝利しただけでは地名などが改められたりすることは殆どないはずで、やはり快挙と呼ぶに相応しい大きな意味を持つ勝利を挙げてこそ、名が改められるのだろう。遂城の戦いは、まさに快挙に値する大勝利なのだ。
 翻訳では、その戦況について詳しく書いたが、これは『大紀元』の記事に基づいている。『宋史』の楊延昭伝の中の記述は簡潔で、「(遼軍が大挙して宋軍は恐れ)楊延昭は丁壮を召集して武具を与え、非常に寒冷だったため、城壁に水を撒くと悉く凍り付き、堅く滑るため上ることができず、遼軍は瓦解して退いた」という程度に留まる。『大紀元』の記述の出展が何かは不明であるが、もしかしたら『楊家将演義』などの創作物を参考に書かれたものかもしれない。

 それはともかく、城壁を一夜で凍らせるというのはマンガ的な話であるが、『宋史』に記述されているから実際に用いられたのであろう。この計略について、実は『三国志』で、曹操が馬超との戦いで土塁に水を撒いて凍らせて防壁を作るという似たような話が登場する。ちくま学芸文庫の『正史三国志1』によると、『曹瞞伝』という三国時代に書かれたと思われる書物の中に記述があるらしい。この『曹瞞伝』自体があまり信憑性のあるものではなく、この馬超との戦いで用いた策も事実ではない可能性があるそうだが、少なくとも三国時代前後には、既に水を撒いて凍らせて防壁を作るという発想は存在していたといえる。
 城壁を一夜で凍らせるという発想は楊延昭独自のものではなかったが、楊延昭が曹操の逸話を知っていたかどうかはともかく、実行に移して成功させたというのはやはり見事の一言に尽きる。「宋史」の短い記述の中でわざわざ書かれているくらいだから、当時としても驚くべき策略だったに違いない。

 ちなみに、『三国志演義』にもしっかりと曹操と馬超の戦いでこの話が描かれているが、どこかの本で曹操のこの策の元ネタが楊延昭の鉄遂城だというようなことが書かれていたのを読んだ記憶がある。ところが、肝心の書かれていた本が見付からない(というか、書いてあったと思った本に書かれていなかった)。かなり印象に残っていた話だから記憶違いということはないと思うのだが、真相は不明である。しかし、『曹瞞伝』に既に書かれているということからして、仮に記憶が正しかったとしても、その本で指摘されていたことが誤りなのは間違いなかろう。

 楊延昭は、遂城の戦いの翌年にも再び遼の大軍に大勝して、「羊山」の地名を「楊山」に改める快挙を成し遂げている。この時は、楊嗣という北方防衛の名将と共闘した。楊嗣は楊延昭と同姓だが、縁者ではない。縁者ではないが同姓ということで、「二楊」と並び称された。この「二楊」が、たまたま「羊山」という地で大功を挙げたものだから「楊山」と改名された、という巡り合わせはなかなかおもしろい。それにしても楊延昭は、二年連続二回目の地名改名ということで、これだけでただ者でないことがよくわかる。

 その後の楊延昭は、咸平五年(1002年)に楊嗣とともに一度大敗して降格させられているが、すぐに復職していることからも、抗遼戦争になくてはならない存在であったことが明らかだろう。結局、[シ亶]淵の盟が結ばれることとなる景徳元年(1004年)の戦いにおいても、遼の大軍を撃退して釘付けにする大功を挙げている。この時、楊延昭の兵力は一万で、三十万の遼軍が二手に分かれたうちの一方を撃退しているから、十数万の遼軍を相手に大勝したことになると思われる。もちろん、楊延昭単独で戦ったとも限らないが、遼軍が楊延昭を恐れて引き籠もったことをみると、楊延昭の活躍ぶりがいかに目覚ましいものであったか容易に想像がつくというものだ。
 そもそも、咸平五年(1002年)の敗戦といっても、救援に駆け付けている途中で陣列が整う前に襲撃されたというもので、何らかの不測の事態に見舞われたためであると考えられる。もちろん、それに対処してこその真の名将ということもできるかもしれないが、それ以外の戦歴では無類の強さを誇っているから、咸平五年(1002年)の敗戦は、よほどの例外的な出来事だったに違いない。

 結局、楊延昭は抗遼戦争に生涯を費やすことになったわけだが、一般的には、楊家将といえば楊業ありきで、楊業の評価の方が高いように思われる。しかし、楊延昭が存在せずに、楊家将の功績が楊業のみだったとすれば、抗遼戦争の半ばで命を落としてしまったから、北宋初期の名将の1人として楊業の名が残ることはあっても、おそらく楊家将の名が後世に広く知られるまでには到らなかっただろう。
 楊延昭は、[シ亶]淵の盟が締結されることで一応の終結を向かえるものの、総括すれば国境の防衛を全うして河北を安定させた。領民たちにとってみれば、楊延昭は安寧な生活をもたらした英傑ということになる。一方、遼軍にしてみれば、南進を悉く楊延昭に阻まれて、遂に最後まで中原への進攻を果たすことができずに苦しめられ続けたわけだ。それが将星の化身と見なして畏怖していることに現れている。遼軍は楊業にも煮え湯を飲まされてはいたが、最終的に楊業を討ち取ることができたことを考えれば、最後まで殆どやられっぱなしで討ち取るどころの話ではなかった楊延昭への畏怖は、楊業の比ではあるまい。

 この楊延昭が最期を迎えた時、統治していた領民たちだけでなく、敵対していた遼人からもその死が惜しまれた。楊業もその死に際して、宋太宗に非常に惜しまれ、最後の戦いぶりを聞いた人々が皆涙したといわれているが、楊延昭のように敵味方を問わず惜しまれたというような記述はない。この点からいっても、楊延昭の抗遼戦争での影響力や貢献度が楊業を凌いでいることは明らかだろう。
 楊業が抗遼戦争で名を馳せたのは間違いないが、それを受けてさらに名を挙げたのが楊延昭だった。二代続けて抗遼戦争に功績があるために、まとめて「楊家将」としての名声を得ているが、楊延昭の働きがあればこそ、それ以前に活躍した楊業の名声が引き上げられたといえる。その意味で、楊延昭の功績こそが、まさに楊家将の名を現在に到るまで残すことができた直接的な要因なのである。

(2018/4/22)


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