空想歴史文庫

楊延昭


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翻訳

 註:翻訳文は百度百科の「楊延昭」、維基百科の「楊延昭」、大紀元の「北宋の名将楊延昭 何故楊六郎と称されたか」(2015年9月10日の記事、大紀元記者周慧心総合報道)の記載に基づいて、1つにまとめて編集した。一部、未翻訳、誤訳、表記不能文字などあり。


楊延昭(北宋の将領)

 楊延昭(958年〜1014年)は、本名を楊延朗、後に楊延昭に改め、楊六郎とも呼ばれた。并州太原(今の山西省太原市)の人で、北宋の抗遼の名将である。
 楊延昭は幼少から父の楊業に従って遠征した。雍熙三年に北伐して、29歳の延昭は先鋒として楊業が率いる軍を朔州などの攻撃に導き、朔州城下で戦って、流れ矢が腕を貫いたが、ますます勇ましく戦って朔州を陥落させた。
 その父の死後、河北延辺で抗遼の重責を負った。雍熙の北伐後、延昭は景州(今の河北省景県)にあり、保州(今の河北省安新県)などの地で遼軍の侵入に抵抗して、死後は永安県(今の河南省鞏義市の宋英宗の永厚陵)に埋葬された。
 遼の兵との戦闘中、楊延昭の威信が辺境に響き渡り、人々は楊延昭が防衛した遂城を鉄遂城と呼んだ。宋の真宗は彼を「兵を治めて守ること、父(楊業)の風格あり」と賞賛した。
 官は莫州防御使、高陽関馬歩軍副都部署に至り、その父楊業と、子の楊文広の三代ともに名将で、「楊家将」と呼ばれる。

   人物紹介

 楊延昭の幼少期は口数が少なく、子供時代はいつも好んで行軍して陣を構える遊びをした。
 父・楊業はかつて「この息子は私に似ている」といって、出征する度に必ず彼を従軍させた。
 北漢時代の楊延昭は、楊武都巡検の職を任され、父親楊業の方々の出征に従い、雁門関の全線の至る所に楊六郎城や六郎寨があり、勇敢善戦して、若い頃から既に名声は全軍に及んでいた。
 宋の太平興国年間(976年〜983年)、楊延昭は父の供奉官として蔭ながら補佐した。
 宋太宗の雍熙三年(986年)、楊延昭は29歳、父・楊業の應、朔等の地の攻略に従い、この軍の先鋒を担った。宋軍は楊家父子の統率の下、雁門関外の遼軍に進攻し、次々に勝利して、多くの城を取り戻した。楊延昭の勇敢さは初めて遼軍の見識をもたらした。史籍の記載では、朔州攻略時、楊延昭は先鋒として遼軍の都市の攻略を任されて奮戦し、乱れ飛ぶ矢に不意に腕を突き通されたが、ただし依然として戦闘を堅持し、かえって戦うほどに勇ましく戦い、最後には遼軍を大いに破り、朔州奪取に成功した。
 父・楊業は雲州観察使判代州兼三交駐泊兵馬都部署であったが、同年八月の北伐中に力尽きて捕虜となり、絶食して国に殉じ、検校太尉と大同軍節度使が追贈された。
 父の殉国後、朝廷は楊延昭を崇儀副使として派遣して、景州知州に任じた。当時の長江は、淮河一帯が災害で凶作となり、朝廷は彼を長江の淮南都巡検使に任命して、盗賊に備えさせた。また改めて崇儀使、知定遠軍に任命され、保州縁辺都巡検使に転任し、首都の使者の如く重任を委ねられた。

 北宋の咸平二年(999年)、遼軍が大挙して南下し、速攻により遂城(今の河北省徐水県東)に到った。この時、契丹の蕭太后自らが作戦指揮を執って督戦し、そのため遼軍の士気は虹の如くであった。
 楊延昭はまさに遂城の守備に就いていた。遂城は小さくて、守備軍は三千人に満たず、援軍は遅々として来ることがなく、備えがないため宋軍の人々は非常に恐れて危険極まりなかった。
 しかし楊延昭は従容不迫(のんびりとして落ち着いている)、城中の民を起こして、丁壮(働き盛りの男)に交代で城を守らせ、鎧を着けて、日夜固く守った。
 遼軍は歩兵を主力として動かし、人海戦術を用い、山を倒し海をめぐる気勢をもって小さい遂城へ向かった。同時に、遼軍の騎兵の後方に弓箭兵を援護で進行させて用いた。
 城下の人海に直面しても、楊延昭は鎮定自若(静かで落ち着いている)、守備軍を指揮して、事前に城壁に大型の木の盾を架けて相手の弓矢の射撃を躱し、まさに敵軍が接近した後、再び猛烈に進行するところへ強弩を用いて斉射を密集させ、最大限度に敵軍を殺傷した。遼軍はずっと成功できなかった。
 この時、遼軍はまた攻城塔を組み立てて城を攻めた。攻城塔の下面は一個の巨大な四輪の基盤であり、人力で前進させる。上部は1つの高くて大きい塔楼であり、塔楼の裏面は多層の盤が旋回して上がった雲梯であり、外面は厚い木板で護られ、頂端前部は1つの開閉する吊橋門であり、まさに城壁に接近した後に吊橋門を投げ下ろし、兵士は直接塔内から突進して出ることができ、城を登る作戦で、以前の雲梯の死傷の大きな欠点を避けた。
 危急の時、楊延昭は鎧を身につけ名刀を手にして自ら低い城壁に上って、城中の人々の中のすべての丁壮を召集して組織し、城を守るための武器、甲冑、器械を与えて作戦指揮を執って守備軍の防衛に協力させた。楊延昭の恐れない精神に感化され、遂城の軍民の士気は大いに振るった。彼らは縄でつないだ大きな石を用いて遼軍の攻城塔にぶつけ、密集した火箭を発射して遼軍の攻城塔を燃やした。遼軍は再び挫折した。
 堅城に直面し、久しく攻め落とせない遼軍は、当時最先端の重型の投石炮と重型の車弩炮を使った。九月の末、遼軍は数百門の重型の投石炮と重型の車弩炮で昼夜不休で遂城の城壁の砲撃を開始した。遼軍の猛烈な砲撃はずっと続いて十月の初めに到った。多くの襲撃を受けた遂城の城壁には多くの巨大な亀裂が現れ、いつでも崩壊の可能性があった。遼軍はまさに十月の末に総攻撃を開始する予定だった。遂城は最も危険な瞬間に到達した。
 当時はちょうど初冬で、天気はあまりにも寒く、思いがけず一日の気温が突然下がって、天の助けのようだ。楊延昭は城中の軍民に大量の水を汲んで城壁に激しくまき散らすように命じた。一夜の間に水がすべて凍り、城壁は既に堅固でよく滑る「鉄城」に変わった。遼軍はこのように1つの非常に簡単な方法で「修復」されてよじ登ることができない城に直面し、為す術がない。これぞ中国の歴史上で著名な「氷守遂城(氷に守られた遂城)」である。
 鋼鉄のように非常に堅固で破壊することができない遂城に直面し、遼軍は泰州へ進攻する回り道を強いられた。ただしこれは、遂城が立ちふさがるため、遼軍の糧道は断絶された。したがって、遼軍の攻勢は大幅に軽減された。
 遼軍の主力が撤退し、遂城が危機を脱した後、楊延昭は梁門の魏能と保州の楊嗣に連絡し、三人は機を捉えて、果断に兵を発して城から討って出て、背後と正面から同時に遼軍を挟撃した。遼軍は大敗し、数百里を敗走して、死傷者は莫大で、宋軍は遺棄された無数の武器や鎧、軍馬、旗や太鼓を奪った。
 これに至り、遼軍は北宋への今回の侵入は惨敗だった。遂城の戦いは宋軍の全面勝利で終わりを告げた。この戦いを経て、楊延昭は辺境の要衝に威信を轟かせ、人々は皆楊延昭が守った遂城を「鉄遂城」と呼んだ。
 楊延昭はこの軍功で莫州刺史に昇進した。その時、宋の真宗は大名に軍を駐屯させ、傅潜は重兵を握って停留させて山中にあり。楊延昭と楊嗣、石普は何度も兵力を増加して戦うことを要請したが、傅潜は全て承諾しなかった。傅潜が罪を得るのを待って、宋の真宗は楊延昭を皇帝の野戦司令部所に召喚し、彼は皇帝が尋ねた辺境の重要な任務に全て答えることができた。宋の真宗は非常に喜び、彼を指して諸王に「楊延昭の父・楊業は前王朝(先代)の名将であり、楊延昭は軍隊を統率して国境の要塞を保護し、彼の父の遺風があり、とても称賛する価値がある」と賞賛した。宋の真宗は彼に手厚く恩賞を与えて、依然として彼に任せた。

 咸平三年(1000年)冬、遼軍が再び大挙南下して北宋の国境に侵入した。楊延昭と楊嗣はともに保州を守り、精兵を遂城の西北の羊山(現在の河北省徐水区の西50里、今の名称は「楊山」)の西辺に埋伏させ、遼軍が城を攻めるのを待ち、自らは少数の騎兵を率いて北へ誘い込み、戦ったり退いたりして羊山の下へ至った。宋の伏兵が四方から現れて、楊延昭と楊嗣が遼軍を挟撃し、遼軍は大敗。遼軍の将領を捕虜とし、敵将の首を箱を用いて献上して功を報告した。
 この一戦は宋軍が大いに全勝し、遼軍を殺し尽くした。これぞ歴史上著名な「羊山の伏」であり、現地の人々はこの一大勝利を記念して、「羊山」を「楊山」と改めた。
 楊延昭はこの功績により莫州団練使に昇進し、保州の楊嗣とともに受命した。宋の真宗は宰相に「楊嗣と楊延昭、一緒に遙か遠い地方で職務に就き、忠誠心と勇猛をもって、国家に命を捧げた。朝廷の中には彼らに嫉妬する者が多く、私は彼らを守ることに尽力して、ようやくそれに至った」と説いた。
 楊延昭と、当時のもう1人の辺境を守る驍将楊嗣をあわせて「二楊」と呼んだ。

 咸平五年(1002年)、遼軍が保州に進攻し、楊延昭と楊嗣率いる宋軍は救援に向かったが、宋軍はまだ陣列が整わず、遼軍に襲撃された。宋軍の損失は多く、朝廷は李継宣、王汀に代わるよう命じ、彼らの罪を治めなければならなかった。
 宋の真宗は「楊嗣らはこれまで勇猛で知られ、将来功績を獲得することができる」と説き、すぐさま彼らを寛大に許した。
 咸平六年(1003年)夏、遼軍はまた都を望んで進攻し、李継宣は逗留して敢えて前に出ず、罪を得て官職を削られた。六月、朝廷はまた楊延昭を罷免された官に復職させ、改めて保州、威虜静戎軍沿辺都巡検使に起用した。当時まさに敵を防ぐ策略を計画しており、宋の真宗は楊嗣と楊延昭に利害を箇条に分けて列挙して上奏するよう詔を下し、十月に改めて楊延昭を寧辺軍部署に任命した。

 宋真宗の景徳元年(1004年)、宋の真宗は楊延昭の軍隊が一万人に達するように増加する詔を発し、もし遼国の騎兵が侵入すれば、静安軍の東に軍を駐屯させることとした。
 遼国皇帝の蕭太后が再び三十万の大軍を率いて兵を両路に分けて南下した。
 莫州部署の石普軍に馬村の西方を守ってして屯田するように命じた。黒盧口を切断し、万年橋は敵の騎兵が進撃する道で、依然として集まる各路の軍隊が呼応して敵軍を追撃し、魏能、張凝、田敏に奇兵を用いて敵軍を牽制させた。その時都部署を任された王超は、これに従わなかった。
 遼軍は、楊延昭率いる兵に保州城下において大敗し、この後、幽州に入り、幽州の遼軍は敢えて討って出ようとしなかった。遼軍は楊延昭の勇がその父にさらに勝ると見て、敢えてそれと戦おうとせず、遼軍の主力は河北の地に制限された。
 蕭太后はただ繞境を得て徳州進入を準備し、十一月、別の一つの遼軍が[シ亶]州すぐ近くの都(京師)に進入し、宋の欽差大臣王欽若は金陵への遷都をもって戦禍を避けるよう主張したが、真宗は決めることができなかた。宰相寇準は真宗の御駕親征を建議し、真宗は寇準の意見を採用して前線に臨み、宋軍の士気は大いに振るった。
 両軍は久しく戦わずに勝つ方法がなく、講話する策略をとり、楊延昭はまさに「契丹は[シ亶]淵に駐軍し、距離は北の国境千里、人馬は全て疲れ果て、しかし兵は討ち敗れやすく、略奪された物品を全て奪い、すぐにそれを置く。諸路軍が勉めて戒めることを希望し、それぞれの険要の道路を守り、敵兵を殲滅することができ、幽、易数州をすぐに襲撃して奪取することができる」と上書を建議した。
 楊延昭の見解は極めて精密で筋道が通っており、もし実行すれば遼軍を燕雲から追い出すことができた。ただし宋真宗は遼軍の自信を失敗させず、そのため楊延昭の建議は採用せず、反対に遼国との「[シ亶]淵の盟」を調印した。
 遼兵が兵を退く時、通過する城は根こそぎ略奪した。楊延昭は国辱と考え、そこで朝廷を拒絶して「北朝の人騎を傷つけることなかれ」と命じ、張凝、石普らと遼軍の騎兵を追撃し、遼軍敗退の後、また自ら1万余りの兵を率い、遼軍を境界に至るまで猛追し、古城(今の山西省広霊県西南)を大破して、多くの敵を捕虜とした。

 遼国との和議の時まで待ち、宋の真宗は辺境各州を防衛する官員を選んで、自ら記録して宰相に見せ、楊延昭を保州知州兼縁辺都巡検使に任命した。
 「[シ亶]淵の盟」後の景徳二年(1005年)、楊延昭が敵から辺境を守った功労を讃えて、保州防禦使に昇任し、ほどなくして高陽関副都部署に転任して、高陽関、瓦喬関、益津関の三関に駐屯して守ること9年の長さに達する。
 その後、真宗は宰相寇準を罷免し、改めて和平派の王欽若を宰相に任命し、道教の寺院等の建築に国家の財力を大いに活用した。
 この一時期、遼国の国力は徐々に下降して、宋真宗の大中祥符二年(1009年)に蕭太后及び丞相韓昌が病死し、翌年はさらに高麗に出征し、国力はさらに衰弱した。
 楊延昭は北伐して失地回復したいと考え、ただし朝廷では採用されず、返って彼に盗賊の鎮圧を命じ、楊延昭はしかたなく、ただ辺境の守りを継続し、現地の人々を慰撫した。
 楊延昭は官吏の仕事に精通していなかったので、軍中の文書と訴状は、常に小軍官周正が処理した。周正は深く騙して、この機会に悪事を働いた。宋の真宗はこのことを知り、周正を厳しく責め、兵営に帰らせ、しかる後に楊延昭に警告した。
 大中祥符七年(1014年)正月初七、国土を取り戻すことができない憂忿の気持ちで満たされたまま辺境の要塞で楊延昭は死去した。享年57。

   人物評価

 楊延昭は智勇善戦、号令は厳格公正で、敵と出会えば自ら率先して先頭に立ち、突撃して陣を陥落させ、戦えば勝利の報せが届いた。楊延昭の辺関にあった期間の生活は簡素で、適切に兵を率い、兵士たちと苦楽をともにし、冬でも綿の帽子をかぶらず、夏でも傘蓋(馬車の傘)を張らず、しかし国境の防衛総司令官なので、ただし出入りのときは数人の随員を連れて、見栄えは気にしなかった。論功行賞時は、彼はすべて部下に功労を譲り、所得した俸禄や報酬はすべて慰労し、兵士に分け与えた。したがって、兵士たちは彼を非常に信任して敬愛し、手足のように親しく、だから誰もが彼のために尽力することを願った。
 彼は辺境の前後を守ること二十年以上、河北の国境に2千里以上の国境防衛要塞を建立し、宋朝の辺境の守りをこの上なく堅固にした。
 遼軍は彼を恐れて、楊六郎と呼んだ(彼は長男であるが)。
 楊延昭が河北の辺境を守った十五六年の期間は、遼兵の侵略は少なくなり、人々はより安定した生活をすごすことができた。 それゆえに、民衆は彼を非常に敬愛した。
 楊延昭が亡くなった時、宋の真宗は嘆息して哀悼し、宮中から宦官を派遣し、彼の棺を故郷へ帰す護送をさせて、河朔一帯の人々は彼の霊柩を見て涙を流さないことはなく、しかも敵の遼国人も同様に声を挙げて泣き悲しんで敬意を表した。
 朝廷は彼の3人の子(伝永、徳政、文広)を官に採用した。彼の従者や食客も同様に量材を選んで採用した。
 その後人々は雁門関の上に高さ57尺に達する楊延昭の立身玉像を建てた。楊延昭の五十七年の軍馬の歴史を訴えるように、威風凛々としている。
 清朝の詩人潘祖蔭の詩
「拒馬河邊古戦場,土花埋沒緑沈槍。至今村鼓盲詞裡,威鎮三関説六郎」
 楊氏一門の悲壮的な抗遼の故事は、代々伝わり、衰えることなく今に至る。

   六郎の由来

 楊延昭は北宋抗遼の名将楊業の長子。もともと、古人はシリウス(天狼星)を六郎星と呼び、あわせて将星を認定した。<宋史・楊業子延昭等伝>には「延昭は智勇善戦、……国境を防衛して二十余年、契丹はこれを恐れ、楊六郎とみなす」とあり、遼国に威信が轟いて、そのため遼の国民は、北斗七星の中の6つの星が幽燕北方の敵であると考え、天上の六郎の宿星(将星)が下界に下ったと見なし、楊延昭は六郎星の人間の化身であるとして「楊六郎」と呼んだ。
 ある説によれば、唐宋の時期に流行していた称呼で、あるいは同一の祖父に基づき、あるいは同一の曾祖父の内に基づき、同世代の中に年齢の長幼の順序に基づく。例えば范純粋は范仲淹の第四子だが、長幼の順序では第5で、人呼んで「范五丈(丈は唐宋士大夫の尊称)」。だから、楊延昭は楊業の長男だが、兄弟の長幼の順序の中では第6に下がる。
 楊延昭は元代の羅Y「酔翁談録」の中で五郎と称し、「保徳府誌」と「楊家府演義」の中で四郎であり、ただし清代の康基「晋乗捜略」の中で即ち六郎であり、そして民間の戯曲中では「六郎」が多い。

   抗遼の伝説

 聞くところによると、南皮県鳳翔郷万牛張村は楊六郎が[牛毛]牛(ヤク)を並べた陣所である。
 北宋時代、遼兵は何度も国境を犯し、楊六郎は詔を奉じて防衛した。侵略する敵を巧みに滅ぼすため、楊六郎は密かに人を遣わしてヤクを一万頭余り買い集め、わら人形の腹に飼料を設置し、遼兵の衣装を着て、牛を誘って角に縛った刃物でわら人形の腹部を開いて飼料を食べさせた。このようにして百余日訓練し、多くの牛は北兵の服装の者を見ると、いつものように激しく角を用いて挑んだ。
 楊六郎は訓練が成熟したことを見て、牛を三日三晩空腹にするよう将に命じた。遼営に人を遣わして戦を挑み、遼兵が追ってくるのを待って、将は一万の牛を放出し、ヤクは敵陣に突入し、人を見て挑みかかり、遼兵の死傷は無数だった。宋軍は大いに全勝した。そのため、この地は[牛毛]牛陣の名を得た。
 その後、村中に多くの張姓がいて、1951年に「万牛張」と改まった。1958年水利工事を行う時、村の前にあった牛の石の器、かまど、牛の大きなかめなどの物を掘り出してエサをやった。

   文学、楊家将の小説

 楊景、字は延昭、楊家将の小説や、戯曲と民間の伝説の中にあり、原籍は麟州(今の陝西省神木県)の人(※并州太原(今の山西省太原市)の人ともある)、金刀老令公楊業の第六子、故に楊六郎と呼ばれる。
 七子の中には父兄の知勇がそろって備えられ、六郎は素纓[くさかんむり+酉+焦]金槍を自在に操り、回馬槍は絶技である。楊家将の中で槍軍の統帥を任され、あわせて父親の楊令公と長兄たちの軍隊と協力して防衛する。
 銅台関の救援があり、官封は保霊侯、殿前司左右金槍班都指揮使、柴氏熙春を妻に娶る。
 金沙灘の役の中で、その他の兄弟と金沙灘に到って談判した。談判中、天慶王は大郎延平が変装した宋の太宗を見破った後、開戦を命じた。
 楊業は冷静に三路に分けて応対し、左路は大郎延平、二郎延定、三郎延安が率い、中路はその父楊業と六郎延昭、七郎延嗣が率い、右路は即ち四郎延輝、五郎延徳が率いた。各路の楊家軍は奮戦して敵を殺し、遼兵が急激に増加して、各三路の楊家軍は追い散らされて、終始互いに顧みることができない。ただ独り六郎、幾重もの包囲を突破して、独りで帰国する。出陣前には七子で行ったが、六子帰る諺。
 朝廷に帰った後に潘仁美を告訴し、ただし皇帝の愛妃が潘仁美の娘であるため、告訴は成功しなかった。最後に寇準が助けに来て、寇準は鬼神の説を利用して、潘仁美が真相をいうことを引き出した。最後に皇后が潘仁美のために哀願し、斬首されず、潘仁美に兵役の刑に服させて流刑に処した。楊六郎は結果に不服で、寇準の助けの下、最後に黒松林でまさに潘仁美を斬殺し、父や兄弟の復讐を遂げた。その後三関の大帥は、関外で病死した。

(2018/4/6)


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