空想歴史文庫

趙立


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雑感

 張栄(張敵万)の翻訳の中で名前が登場して、存在を知った人物。直接的に張栄と関わりがあったわけではなさそうだが、張栄絡みで情報を得ようとして趙立について調べたところ、案の定日本語の情報が殆どなかった。そこで、張栄の翻訳で得た経験を活かして中文の解読に再び挑戦することとなった。

 張栄と同じで武人だからなのか、予想以上に順調に翻訳が進んで、ほぼ1日(6,7時間)の作業で一気に完成させることができた。元々は張栄のためだけに調べた人物だったので、翻訳は行っても公開まではするつもりがなかったが、なかなかの人物だったこともあって、せっかくだからと公開することを決めた。

 趙立の生涯については、翻訳で語り尽くされているから事細かに述べていくことはしないが、まず真っ先に目に留まるのはその勇猛さを表す描写であろう。例えば「6本の矢を受けたにもかかわらず戦うほどに勇ましく働いた」や「趙立の2つの頬には矢が命中しており……」というのは、その超人ぶりがよくわかる。特に、両頬に矢を刺したまま戦う姿というのは異様にも程があり、これの映像化を想像してみると、むしろ冗談とさえ思える有様だ。この他にも、勇猛に戦う直接的な描写が随所に見られる。そのためか、張敵万の異名を持つ張栄よりも、豪傑ぶりが際立っているように思える。

 このようの常人離れした武勇の持ち主のようだが、逃げ隠れする味方をすぐに自ら処刑してしまうところは、その勇猛さに違わない極端で激しい気性の現れだろう。その一方で、兵士と苦楽をともにして、所得物品を全て与える部下思いの一面を持ち合わせている。どうやら趙立は、部下の面倒見がいい根っからの軍人だったようだ。

 さて、趙立が勇猛な人物というだけであったなら、予定になかった翻訳の公開を敢えて行うようなことはしなかっただろう。それが公開に至った最大の要因は、やはり「天性の忠義」と評されたところにある。『宋史』の「趙立伝」(宋史 巻四百四十八 列伝第二百〇七 忠義三)では「忠義出天性(忠義は天性より出づる)」と記される。生まれながらにしての忠義とは、義将にとって最大の褒め言葉だろう。

 しかし趙立は、その忠義とは裏腹に、味方に見放されて(天が助けなかったわけではない)孤立無援となり、志を遂げることができなかった。おそらく、楚州は孤立する前まで散々に金軍を討ち破ってまったく寄せ付けなかったのだから、孤立さえしなければ、その後も楚州をはじめとする江淮一帯を維持していた可能性がある。少なくとも趙立の記録からすると、当時の江淮の宋領は趙立の活躍で保たれていたように思える。同時期に張栄がこの辺りを転戦していたはずだが、このことから推測すると、楚州陥落前までは遊軍的な働きをしていたのだろう。この時点での張栄の活動は、状況的に金軍への決定打にはなり得ない。

 張栄の英雄的な縮頭湖の勝利は、楚州陥落後に孤立したことによって起こったものだった。とすれば、楚州が孤立せずに陥落を免れていれば、縮頭湖の勝利は起こることがなく、むしろ趙立が張栄に代わって抗金戦争での歴史的な勝利の立役者となっていたかもしれない。しかし、実際には楚州が孤立した結果、趙立は不幸にも火砲によって命を落とし、張栄は巻き返して勝利を掴んだ。張栄と趙立、二人の抗金の英雄の運命は、ここが分岐点だったようだ。

(2017/9/19)


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