註:翻訳文は百度百科の「張栄」及び「張敵万」の記載に基づく。一部、未翻訳、誤訳、表記不能文字などあり。類似した内容の重複記載があったため、その部分については独断で1つにまとめて整理した。読みやすくするために、独断で改行などを入れて整理した。
張栄(宋朝の抗金の英雄)張敵万張栄はもともと梁山泊(現:山東梁山南)の漁民であり、国籍は中国、宋朝の抗金の英雄の1人である。金が北宋を滅ぼした後、数百の人々を集めて抗金の義兵を起こし、勇猛な作戦によって「張敵万」と称された。 人物紹介 建炎三年(1129年)2月、金軍が揚州(現:江蘇に属する)を攻略して、宋の高宗の君臣が杭州へ逃れた。張栄は梁山泊で立脚しがたく、遂に軍船を率いて泗水川下の清河に沿って南下し、承州(現:江蘇高郵)の北の?潭湖(だたんこ?)水域に菱草を集めて泥を混ぜて積み上げて水寨を築き、遠近は呼応して、人々が集まって1万余に至り、宋の承州守将薛慶と連携して、勢いは日に日に盛んになった。承、楚(現:江蘇淮安)二州間で、錦亘300余里の樊梁、白馬、新開の3つの湖内で金軍を襲撃して、しばしば勝利した。
建炎四年(1130年)8月、金朝は陝西を攻略した兵を集め、江南から六合(現:江蘇に属する)に至る完顔宗弼軍を洛陽(現:河南に属する)の西へ引き上げ、元帥左監軍完顔昌は淮南の戦場を担当した。
紹興元年(1131年)、完顔昌は後顧の憂いを断って渡河して南下を始め、自ら泰州の軍勢1万余りを率いて船に乗って縮頭湖へ進入し、張栄義軍を一挙に攻め滅ぼそうと企てた。 張栄は?潭湖から退き、泰州、通州の2州から撤退して、不利な形勢下での戦いを回避した。彼の仲間は淮東で孤立したが、動揺せず、恐れず、堅く抵抗を続け、最後は巧妙に地の利の地勢を用いて、敵を誘って深入りさせ、「歩騎四集悉く泥沼に陥れ、解決策を持つ者なし」、遂に一戦して成功し、敵はこのために「胆落(肝を冷やした?)」した。 関連史料 <江湖長翁文集>(宋人・陳造)27巻<上周枢密札子>説:建炎の初め、虜将竜虎は興化で敗れて、金軍は全滅、亦張栄所?棘荊鋤梃之夫。 <読史方與紀要>(清初)23巻<興化県>説:「得勝河」県の東10里、本名は縮頭河。宋の建炎中、張栄、賈虎は山東の義兵を率いて、梁山泊から承、楚間で金人と転戦して、金将撻懶は泰州にあって、張栄は水軍の伏兵を配置して、縮頭湖で討ち、その大軍を大いに打ち負かしたため、「得勝湖」と改名された。 <咸豊興化県誌>1巻<史跡>説:「得勝湖」県の東、古名は率頭湖、またの名を縮頭湖。宋の張栄らが金人と転戦して、大勝に至り、今の名に改まる。 <建炎以来系年要録>43巻同年同年4月庚午の記載:金の左監軍昌(完顔撻懶)、張栄に敗れたため、楚州から淮の北へ渡った。 <宋史>379巻<胡松年伝>また張敵万を推薦して、淮南へ敵を深入りするように誘い込んで、歩騎四集悉く泥沼に陥れ、解決策を持つ者なく、金人は今に至るまで胆落する。 <三朝北盟会編>143巻:張栄は梁山泊の漁師である。軍中で張敵万と号す。金人は楚州を得て、張栄は当たることができず、糧秣を集めて焼き、まぐさ(真菰)の城を捨てて、船を率いて通泰州へ入る。 <三朝北盟会編>引<金虜祭要>:撻懶は淮東を攻め、張敵万の泰州縮頭湖の水寨を攻撃したが、張敵万のために敗れて、?撻懶之婿戸不剌、芦?。「戸不剌」,應?「万?不剌」,刊漏了「万」字,「不剌」乃「鶻拔魯」岐訳。 <金史≫3巻<太宗紀>:天会9年正月「辛亥、浦察・鶻拔魯、完顔[しきがまえ+心]里は、白馬湖で張万敵と戦って敗れる」。「張万敵」は張栄の綽号「張敵万」に訂正する。 <宋会要>19日、両浙西路安撫大使劉光世は言う「忠勇統制の張栄は金賊と大戦して、討伐して一万人余りを殺し、衣甲に至るまで奪ったので、ずば抜けた恩賞を与えることを請う」 歴史書に基づいて、南宋の建炎4年(1130年)7月、通泰鎮撫使に任じられた抗金の英雄岳飛は楚州(現:淮安)から興化へ急行して、駐屯軍は得勝湖南岸の蘆州の兵を動員して、湖中で水軍を訓練した。このために、清代の興化の著名な詩人王熹儒は賞賛する詩を作った「海濱曾駐鄂王営,至今湖水留其名(海辺はかつて鄂王(岳飛)軍が駐留し、今なお湖水にその名を残す)」。 抗金戦争が激しく行われていた当時、梁山の好漢・張栄率いる抗金の義兵あり。張栄は水泳術が優れているばかりでなく、知謀に長け、英雄的に善戦して、万夫不当の勇があり、張敵万と称された。
張栄は、孟威、賈虎、鄭握ら将校と連合して梁山義軍に首領宋江の殺害後にあり、漁民を引き入れ義兵の残存部隊を組織して義軍を起こした。彼らは自分の特に優れた技能を十分に発揮して、河の港と湖の分流する所を利用して泳げない金兵に打撃を与えた。
(2017/2/19)
(2017/3/17)
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