空想歴史文庫

張栄


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雑感

 講談社学術文庫の『五代と宋の興亡』を読んでいた時に、ふと目に留まったのがこの人物。今のところ調べられる範囲でわかったのは、略伝に記載したのがほぼ全て。ネットで調べてもこれ以上のことはわからないし、そもそも殆ど張栄に関する情報が見付からない。

 略伝にある通り、張栄は北宋滅亡後に金軍に何度も勝利して名を挙げているから、抗金の将の1人として数えてもいいのかもしれない。宋代の軍隊は弱兵で知られているが、張栄のような義勇軍が金軍を退けるといった話がいくつも見られるから、弱いのは正規軍で義勇軍の類はそれなりに強かったように思われる。

 さて、抗金の名将といえば岳飛や韓世忠などが有名であるが、張栄の名は聞いたことがなかった。調べてもその名が殆ど見当たらないのだから、知名度は相当低いだろう。しかし、「張敵万」と称えられているところを見ると、猛将を称える時にたびたび登場する「万人の敵(一万人に匹敵する武勇。韓世忠や三国志の張飛が称せられた)」と同じような意味だろうから、相当強かったであろうことがうかがえる。

 それでも無名ともいえる状態なのは、岳飛らほどに強烈な功績がなかったからかもしれないし、気に留める必要がないほどの特徴のない人物と認識されていたからかもしれない。略伝の内容以上の部分は勝手な想像によるものだから、張栄の実像はわからない。しかし、張栄の実像がどうであれ、無名ながらも優れているであろうと感じさせる人物に一般書籍を読んでいて気付く(出会う)ことができたのは、何よりも衝撃的であった。今回、敢えてこの無名の人物を取り上げた理由が、それである。

(2016/11/17)

 張栄の評価について考察すると、まず張栄が功を立てた時期というのが北宋滅亡から間もない頃だったから、金の軍事力は充実していて強力だったはずだ。一方、抗金の名将で最も有名な岳飛らが活躍したのは、張栄とほぼ同時期から宋と金の和平が結ばれようとしていた頃だ。和平が進められていた時期の金では、めぼしい将軍らが既に殆ど亡くなっており、人材が枯渇していたようである。つまり、金の軍事力は、抗金の将らとの戦いで北宋滅亡後から徐々に衰えていったと考えられる。
 これらを踏まえると、地の利がある水上戦だったとはいえ、張栄は精強だった頃の金軍を相手取って大勝したのだから、その将才の優れるところは疑いようがない。そして単純な比較はできないが、活躍した時期から考えて岳飛ら名の知れた抗金の名将たちにも引けをとらない将才の持ち主だった、といえるのではなかろうか……などと想像をふくらませる余地は十分にあると思う。

(2016/11/19)

 宮崎市定氏の『水滸伝 虚構の中の史実』(中公文庫)の中で張栄が取り上げられているらしいことがわかって、早速本を取り寄せて確認したところ、期待通りに詳しく張栄について書かれていた。が、『五代と宋の興亡』の記述とはだいぶ印象が違うし、微妙に内容が食い一見すると違っているように思えるところがいくつかあった。そこで、双方を掛け合わせて辻褄が合うように「略伝」を修正した。

 修正した略伝を見てわかる通り、確かに金軍相手に徹底抗戦して大勝する活躍もしているが、名将と呼ぶには相応しくない行動が目立っている。特に食人は現代の感覚、それも日本人の感覚からしたら受け入れがたいものがあろう。ただ、この時期、このような行為に及んだのは張栄だけに限らなかったようで、同様の例が他にもあるそうだ。これらは、抗金の大義は置いといて、まず自分たちが生きていくことが最優先された結果でもあるから、問答無用で悪と断定するのもむずかしい。とはいえ、いくら侵略者たる金軍に対して抵抗を続けるためだったとしても、自ら人民を殺していては本末転倒だともいえる。

 もう一つ、知泰州(地方長官)になってからも民衆を虐げていたことは、擁護しようのない大失点である。地位を得ても水賊上がりの生き方は簡単に変えられないとでもいうのか、なるほど評価されないにはされないだけの理由があるのだ、ということが見て取れる。結局のところ、民衆などの他者を守るという意識は薄く、己が異民族に屈したくないという意志で抵抗し続けていたということなのだろう。

 将才については、まともに勝ったといえるのは最初の頃と最後くらいで、その中でも最初の頃は最終的に逐われているから微妙なところである。ただ、一万を超す部下を統率していたようだし、縮頭湖の戦いも見事なもので、突出して優れているとはいえないまでも、十分に有能な将ということはできると思われる。

 おそらく、『水滸伝 虚構の中の史実』の中の記述で、張栄の全貌は見えたと思われる。統制に任じられた以降は不明であるらしいが、改めて判明した人物像からいえば、漁師からの大出世を果たして得るものが得られたのだから、まともに手柄を立てるような行動に出るとは考えられない。かといってひっそりと余生を送るということもあり得ないと思うが、二度と歴史の表舞台に立つことも、そのつもりすらもなかったのではないだろうか。全貌を知るまでは、岳飛ら抗金の名将にも比肩する人物なのではとの期待もあったが、軍略面ではかろうじてその可能性を残すものの、人間性では彼らに遠く及ばない人物だったというのは残念である。

(2017/2/7)

 宮崎市定氏の『水滸伝 虚構の中の史実』で張栄に関する情報は出尽くしたと思っていたが、意外にもすぐに中文の張栄の情報が見付かった。中文の翻訳をしてみると、これまでと違った印象が得られたので改めて張栄の人物像を考察する。なお、『五代と宋の興亡』の記載は他の記載に比べると殆ど「張栄という人物がいた」という程度に留まる内容なので、『水滸伝 虚構の中の史実』と中文の情報から考えていく。

 中文情報では、翻訳を参照するとわかると思うが、主に武功のみを記載しており、『水滸伝 虚構の中の史実』に記載されていた食人や、縮頭湖の戦い後の姿には触れられていない。武功を中心にその足跡を辿ってみれば、まさに英雄的な人物との印象を強く受ける。特に縮頭湖の戦いは、「南宋立国後空前の大勝」「抗金戦争の重大な勝利」と記載されており、かの抗金の英雄岳飛による建康の戦い(縮頭湖の戦いの前年に当たる建炎4年(1130年)に、岳飛が建康を奪還した)に勝る評価を得ている。戦後、戦地となった縮頭湖が得勝湖と改名されているのはその勝利を記念してのことであるが、縮頭湖の勝利が地名が改められるほどの歴史的快挙だといわれれば納得できる。

 縮頭湖が得勝湖に改名されたことは『水滸伝 虚構の中の史実』にも書かれていたが、その記述内容からはそれが歴史的勝利だったという印象は受けなかった。そもそも宮崎評では、張栄は殆ど負け続けているような書かれ方で、縮頭湖の一戦で大功を立てたことは書かれていても、それが抗金戦でどの程度の快挙かは不明であり、全体の印象からすれば、せいぜい局地戦で一方的に勝利した程度の戦功としか感じられなかった。そのため、『水滸伝 虚構の中の史実』の張栄の記述を読んだ直後は、軍事面でかろうじて抗金の名将に比肩する可能性を残す、と評価するに留まった。宮崎評による張栄の武功は、中文情報と比較して大きな隔たりがあり、中文評を見た後では宮崎評が張栄の武功を特に過小評価していると感じる。

 地名が改まるほどの勝利であるならば、やはり当時の感覚で歴史的快挙だったとするのが妥当だと思われるが、それほどの勝利をもたらした張栄が、何故岳飛のような国民的英雄として評価されていないのか、という謎が出てくる。そこで改めて中文情報を見ると、先に述べたように張栄の食人や戦後の暴政などの素行の悪さはまったく書かれていない。これらを見ずに武功だけを見れば、英雄的な活躍があって岳飛と並び称されても不思議ではないと感じる。しかし、岳飛が国民的英雄であるのは、多くの武功を立てたことは当然として、民衆を虐げることがなかったのが大きい。既に述べたように、張栄は食人を犯し、暴政により民衆を虐げた経緯がある。この点で張栄は、岳飛に大きく劣っているといえる。

 宮崎氏の過小評価は、『水滸伝 虚構の中の史実』で張栄の素行の悪さが強調されていることから、その点を重視しての判断と思われる。ただ、全体の人物像として考えるならばそのような評価も理解できるが、しかし素行が悪かろうとも戦果そのものが変わるわけではない。だから、張栄の武功自体は、中文情報にあるように高く評価してもよいはずである。しかし、張栄の活躍は縮頭湖の戦いで終わり、それ以降は、南宋に歴史的勝利をもたらしたほどの名将だったにもかかわらず、歴史の表舞台に立つことはなかった。岳飛が金軍に対して長年に亘って連戦連勝していた点からいって、縮頭湖の戦い以後の活躍が見られないのは、より高い名声を得ることができない原因の1つといえる。

 そこでまとめると、張栄は、南宋に抗金戦史上空前の大勝利をもたらした英雄的武勲があるが、その一方で食人や暴政により民衆を虐げるなどの英雄にあるまじき素行の悪さが目立つ人物で、しかも縮頭湖の戦い以後は歴史に表舞台から姿を消してしまったため、国民的英雄にはなり得なかったのだろう。しかし、水上での英雄的勝利の立役者であるところから、民衆に好まれた「水滸伝」の水上の好漢(阮三兄弟や張順)モデルとなる水上(水賊)の英雄として、最大限の評価を得るに至ったといえる。

 今度こそ本当に、張栄の全貌が明らかになったと思われる。素行に関しては宮崎評の通り英雄とは程遠いものであるだろうが、軍略に関していえば、金軍に対して岳飛のように連戦連勝とはいかなかったが、勝てなかったところは「不利な形勢下での戦いを回避」したためであろうし、孤軍奮闘により「動揺せず、恐れず、堅く抵抗を続け、最後は巧妙に地の利の地勢を用いて」歴史的勝利を演出している。これならば、名将、勇将、豪傑などと評してもまったく差し支えはないだろう。

(2017/2/19)


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