犬の人生

朝靄のかかった歩道から
力無く歩いている老人と犬
犬の散歩をしているというより
犬が老人の散歩をしているといった風情
首輪からぶらさがっているヒモが
決して一直線にはならず
常にぶらぶらと揺れている
弛緩の距離

青信号が点滅していても
慌てる素振りなど微塵もなく
まだ横断歩道の途上
老人と犬は同じ瞳をして
同じ時刻に同じ道を
あの街角に同じ人を思い描いていたのだろう

   人生という言葉には
   人が生きるという意味
   人と生きるという意味
   人と関わりあって生きてきたものたちの命
   という意味がある
   犬だから犬生ではない
   犬の人生
   それでよいのだ

『即日貸付OK!』の電信柱に
老人は立小便をする
つられて犬も小便をする
つまり二人は連れションをする
役に立たなくなった生殖器は
まるで尻尾みたいだと
犬は その時ばかりは
巻添えをくわないように
少しだけ離れる
さあ もうすぐ 
きょうの仕事が終わる


   ゲンゲジジイ

泣くな 坊主
人んちの畑でウンコ垂れたぐらいで
こんなド田舎じゃあ
道すがら便所もねぇ しょうがねぇだろ
聞け 坊主
土はな でっけぇんだよ
小便しようがウンコ垂れようが
それも全部喰っちまうんだよ
おめぇのウンコも土はありがたく許すんだよ
見ろ 坊主
この花きれいだろ?
ゲンゲって言うんだぞ
こんなにきれいな花でも
もうすぐ肥料になんだぞ
このまま耕すんだ
水を張り 田植えが始まり
秋には稲ができ 米となる
おまえらが毎日喰っとる米の中には
花の命も入っとるからなぁ
おまえの人生もせいぜい咲かせてくれよぉ

それから数日後
祖父の田んぼには
『このまえはごめんなさいでした。
おりがとうございました。』 たかこ
幼い字の手紙が置いてあったという
化学肥料の質が向上したというのに
相変わらず祖父の田んぼには
ゲンゲが咲いていた
「小学校に入りたてのお嬢ちゃんが
帰りに便所に困ったらかわいそうだろがっ」

ゲンゲ
葉は羽状複葉
花は竜骨弁・翼弁・旗弁からなる蝶形花
色は紅紫
根に窒素固定の根粒菌を持つ
別名 蓮華草
花言葉は
あなたは私の苦痛を和らげる


   空飛ぶ魚(トット)

ジンベイザメから
名前を取ったからなのか
一才七ヶ月になるJINは
魚が大好きだった

空気を入れると
飛行機の形になる風船を
妻が百均で買ってきていた
それを見るとJINは
何を間違えたのか
「トットー、トットー」
と、いつまでも指を差すのだった

飛行機は狭い我家の
蛍光灯の紐で吊るされ
すきま風が入ってくるたびに
少しだけ飛び
傍に寄れば
ぐずつくJINを
あやすのがとても上手だった

JINとしりとりができるのを
発見したのはお兄ちゃんだった
「JIN、いくよー。トット」
「トット」
「トット」
「トット」
「ね。お母さん、すごいでしょ?」

JINを寝かしつけるのと同時に
居眠った妻
私は飛行機を引っ張り
豆電球にした
すると布団の上には
飛行機の影が浮かび上がり
それは思いのほか大きく
海の中をゆったりと泳ぐ
一匹の大きな魚に見えた


   登山者たち

ある登山者は言った
幸福は過去にある
不幸は現在である

下山し いま登りきった山を見上げる
登山前の準備
登り道での息切れ
山頂の雲・雪・風
下山する足の震え
そのひとつひとつを思い出す幸福
それを消すかの如く痛む
凍傷の手指

公園にあったふじ山
あの山を手を使わずに登りきるのが
俺たちの仲間になる条件だった
わざと滑りやすくするために
砂をまいたり
上から唾を吐いたり
手を伸ばしといて引っこめたり
ケンちゃん マーくん ミーくん ヤッくん はたけー

仕事に疲れ
人間関係に疲れ
疲れたとは決して言わないことにも疲れ
夢を追っているつもりが
逆に夢に追われている毎日
そんな日々の中 ふと思い出す
市営住宅の仲間たち
ケンちゃん マーくん ミーくん ヤッくん はたけー

あの頃は しあわせだったとしみじみ思う
そう思う いまは不幸なのかなぁ?
けれど きみたちを思い出すたびに
俺はやすやすと現実逃避に成功し
一息ついたり
鼻で笑ったり
密かに口角を上げたりして
いま一度 現実と向き合うことに
そんなに嫌気はさしていない
それは至福と言ってもいいのかもしれない
指をなくした登山者は その後
両足の指でキーボードを操り
冒険家たちを題材にした本を出版した


作品集