市営団地へ、いざ

こんなこともないと もう二度と
逢って話すこともないだろうと思ったから
ぼくとぼくの幼馴染みたちが住んでいた
市営団地へ、いざ

ケンちゃんのお母さん
「まー、立派になっちゃってぇー」
ハタケーのお母さん
「あの頃が懐かしいねぇ」
ブーちゃんのお母さん
「あー、その写真。持ってる、持ってる」
こちらからお願いしといてあれなんですけど
まあみんな話が長い!
でもしょうがないよね 
二十数年振りだもんね
みんな ほんとよく生きていてくれた

「ここにねぇ、住所と名前をー」
「えぇ!?なんて?耳が遠くなってねぇ」
「こ・こ・にねぇ、こ・こ・見えるー?」
「目ぇも悪くなっちゃってねぇ」
「ここに住所と名前を書いてほしいんだけどぉ」
「手ぇが奮っちゃって書けるかなぁ・・・」
「ぼくが代筆しといてもいい?」
「えぇ!?なんて?」

Yさん あなたが不運にも難病になり
iPS細胞の研究に対しての助成金を
嘆願する署名活動を始めてくれたおかげで
ぼくはふるさとの家に帰ることができました
お母さんたちに逢うことができました

市営団地には一戸建てにはない醍醐味が
みっつぐらいある
ひとつは友だちがすぐ近くにいるということ
すなわち目の前が公園ですぐ遊べるということ
そしてお母さんがたくさんになるということ



   本物と偽物

物には
本物と偽物がある
偽物の中には
良い偽物と
悪い偽物がある
本物は
本物だからといって
その地位に
あぐらをかいていると
良い偽物に負ける



  捨てられた宝物

宝物が宝物でなくなる瞬間(とき)がある
いつしか捨てられたあと
それは また宝物になったりする
私の場合 それは
ガチャガチャの消しゴムであったり
超合金のライディーンであったり
あの人からもらった手紙であったりする
その時はどうして捨ててしまったのだろうと
悔やむ
時が経つとともに移り変わる
思い出に頼らない心の残酷な強さか
新しい思い出をつくってゆく
誠実な残虐性なのか
それとも ただ飽きたのか
それでも私は悔やんでいる
そして思うのだ
宝物じゃなくなった物を
やはり宝物だったのだと
思い出す気持ち
それこそが本当の宝物なのかもしれないと
だから
これからも たくさんの宝物が
私の前に現れ
私の手で捨てられ
私の心の中で甦っていくだろう
胸を張って後悔していこう



   スイング

他人がどう言おうと
自分がこれだ!
と思ったものには
一生を棒に振れ
それが空振りに終わるか
ホームランになるか
そんなものはわかんねぇけど
とにかく振らなきゃ当たんねぇわけだし
そもそも勝つとか負けるとか
あんまり意味なんかないんじゃないか
それが社会に
受け入られるか否かは二の次であって
それをしなければ自分は呼吸もできない
そんなものに巡りあい
一生を棒に振れたら
それはそれで
そこそこの人生じゃないか
少なくとも見送り三振するよりかは
ずっといいんじゃないか




作品集