目次
原罪について
マリアの無原罪の御宿りの特権を考えるためには、「原罪」とは何かと言うことを明らかにする必要があります。一般に、原罪という言葉は、カトリック者なら誰でも分かりきったこととして用いられているようです。しかし、詳細に眺めてみますと、必ずしもすべてが明確ではないようです。少なくとも私たちは、原罪に関する「啓示された真理」とそれを巡る「神学」とを区別する必要があると考えます。言うまでも無く、神学的結論を軽視するわけではありませんが、啓示の真理に比べて、相対的に受容しなければならないのは、当然でしょう。
さて、「原罪」を巡る、少なくとも西方教会の教義、若しくは、神学が、たとえ理論の次元ではないとしても、実践の面では、諸宗教の神学を考えるに当って、一つの難点となっていることは、否定できません。ここでは、この点に関する種々の問題を解決しようとするよりも、「原罪に関する教義」と言われるものの「本質」は、そもそも何なのかを、非才にできる限り厳密に規定することに努めましょう。そのために、「教義」とその「教説」(複数)、つまり、「教義」の神学的解釈とをできるだけ区別して考察を絞り、この「教義」を巡る今後のより柔軟な理解への足掛かりとしたいと思います。確かに、現実には、「教義」と「教説」とは、密接に関連し合っていますから、或る一つの教説を否定することは、結果的に教義そのものを否定することにつながりかねません。しかし、教説がそのまま即教義ではないことも事実です。それ故、私たちは、一方において慎重であると共に、他方で、教義を純化するために大胆でなければなりません。このことは、特に「原罪の教義」について言えることでしょう。
ただし、教義そのものは、存在的には、その実在を遥か宇宙の始原にまで遡れるとしても、認識的には、つまり、教義として形相的に定義される事実は、時間の尺度で測りますと極く最近のことに過ぎません。この様に考えますと、原罪の教義は、どこまで遡れるでしょうか。例えばアウグスティヌスの時代には、原罪の教義について論じられていたのか、或いは、原罪に関する教説が問題になっていたのか、簡単には言い切れないと思います。
それで、この問題について、少し大掴みに歴史を振り返って見ましょう。
一般に、或る問題を探求するには、その問題の「主体」が何なのか明確でなければなりません。何について語っているのかはっきりする必要があります。従って、原罪の問題を考えるためにも、先ず、原罪とは、何かという「定義」から始めなければなりませんが、これは、少なくとも概念の次元では、堂堂巡りに陥る危険があります。歴史的に見れば、「原罪」という「教義 dogma」も、他の多くの教義と同様、最初から明確に「命題」(AはBである、と言う言明を命題と言います)として表されていた訳ではないようです。この教義の起源が神からの啓示であるかどうかは別として、現象としては、様々な過程を経て、徐々に明確に命題として表されてきたのが実状です。従って、後代に命題となった概念を古代に遡らせて、例えば、「創世記」に原罪の「教義」が実証的に述べられているかどうかと言うような議論は、方法論的に厳密であるとは言えないでしょう。それで、原罪とは、人祖から人類全体に例外なしに遺伝すると言われる罪である、と言うかなり漠然とした語義から出発することにしましょう。
詳細点を略して大まかに言えば、原罪の問題とは、人祖の罪の中のどんな要因が、どの様にして、子孫に伝播して行くのか、と言うことだと言えましょう。
そこで、先ず、要因ですが、「原罪」に関する「啓示の事実」を実証的に確かめるためには、型通りには、「創世記」第三章の物語の書かれたままの意味とその著者の意図とを確定することから始めねばならないでしょう。しかしながら、これは、聖書解釈の問題ですから、私の適性を越えています。ただし、この箇所を始め、旧約聖書全体を通して、現在のカトリック教会の信者が一般的に言う意味での「原罪」という意識は、見られません。また、少なくとも、「正典」の固有の担い手であるイスラエル人の間には見られないと言うユダヤ教系の学者の意見は、傾聴に値するでしょう。むしろ、「創世記」第三章には、後世になって「原罪」という概念が明確になってから、遡って、原罪観が読み込まれた、或いは再発見された、と言うべきでしょう。しかしながら、「創世記」の物語とは独立に、あらゆる人間に影響する罪について各人にはその出生の時点から何かの連帯性があるという全般的な意識は、旧約聖書の中に古くからあったようです。従って、罪に関するその時々の体験から出発して、イスラエルの民は、啓示の恩寵に照らされて、罪悪の始まりという問題を考え、起源に犯されたアダムの罪の物語の中にその解決を見出したのです。このことは、特に、ラビ伝承や黙示文学などのいわゆる正典外文書に顕著であると言われます。すなわち、イスラエルの思想においては、アダムの罪と人間一般の罪との関連が、明示的に考えられるようになってくるのは、かなり後代、つまりイエスの時代に近い頃になってからのことであるようです。
とにかく、イエスの時代には、「原罪」について二つの大きな流れがユダヤ教内に見られたと言われます。一方で、エジプトのアレキサンドリア学派系の「遺伝する堕落」という考え方と、他方で、アダムの罪と、その子孫が罰を受ける責任との間には漠然とした関連があると主張す考え方です。しかし、この関連の厳密な結び目、つまり、どのような原因でアダムの罪と子孫の責任とが結びつけられるのか、と言うことは、殊更に特定されていません。前者のアレキサンドリア学派系の考え方は、後のアウグスティヌスの教説に近く、後者は、すべての人が罪の責任を負うとのパウロの教説に近いと言えましょう。しかし、一般論として言えば、「原罪の教義」は、旧約聖書にも、ユダヤ教にも見られないか、或いは、少なくとも意識されてはいなかった、と言うべきでしょう。
四福音書にも、人間の堕落についてのヒントがあるだけで、遺伝する罪、若しくは、堕落によって万人に生じた条件・状態という考えは見られないようです。「原罪」を問題とする時代・文化の雰囲気の中に登場してくるパウロにおいてさえも、アダムが犯したとされる罪と、その子孫の罪や死とを結びつけるものは一体何かと言う問題、つまり、両者を結ぶ「結び目」が何かと言うことは、未だ、必ずしも明示的には述べられてはいません。パウロの手紙では、ただ一ヶ所、「ローマの信徒への手紙」5章12〜21節にアダムの犯罪と人間の罪ある性質との関連が明示的に述べられていると言われますが、この関連をどの様に理解すべきかと言うことは、指示されてはいません。そのため様々に解釈される余地があり、また、解釈されてきました。とにかく、パウロにおいて(Iコリ15:21以下、ロマ5:12−21)、始めて、当時のユダヤ人が考えていた程度の「原罪」の考え方が出てくるのです。しかし、これらの箇所で、パウロが強調しているのは、キリストにおける恩寵による人類の普遍的連帯であって、アダムにおける罪による連帯は、その分かりやすい比喩としてだけ用いられているに過ぎないように思われます。それ故、原罪の「教義」の問題をパウロから明確に引き出すのは困難であろうと思われます。
恐らく、大方の人々にとって意外でしょうが、初期の教父達は、「原罪の教義」については、殆ど直接の関心を抱いていなかったようです。初期の教会では、「罪」という語は、一般には、いわゆる「自罪」にのみ限定されていたようです。そして、嬰児の「原罪」に当るものを指すには、むしろ「しみ」とか「よごれ」が用いられていました。ギリシア教父は、常に、罪という語を用いることを避け、「死」「傷」「病気」「堕落の可能性」「神の似姿の喪失」などの語を使っていると言われます。
この時期、特にその初期において原罪に関する教説は、パウロの教説から直接に出てくるのではなく、新たな独自の展開を見せています。例えば、ユスティノス、エイレナイオス、オリゲネス、テルトゥリアヌスの原罪観にそれがみられます。もちろん、パウロとの間に断絶があったという意味ではありませんが、必ずしも「ヘブル的」ではなかった当時の思潮の影響をも受けていると言うことです。言い換えますと、その本質はともかく、原罪の教義は、最初から後代の教義、例えば、トレント公会議のそれと全く「合同」であったと言うわけではありません。とにかく、一般的に言って、アウグスティヌスに至るまで、この時期は、原罪の伝播の問題についても余り注視されていなかったようです。
「原罪説」は、特に、西方教会において発展したと言われます。西方で、この問題を始めて直接に取り上げたのは、テルトゥリアヌス(c155/160-c220)だとされています。彼は、当時の医学的知識をもとに、人間の霊魂も身体と同じように両親から物質のように伝わると考え、「原罪」を犯したアダムの霊魂が、その子孫全員の内に、肉体と同様に、伝播すると考えていたようです。
「原罪 peccatum originale」という表現自体は、ラテンの伝統の中で、アウグスティヌス(354-430)から始めて一般的に用いられるようになったと言われています。彼は、この語を、或いは、アダムが最初に犯した罪を指すために、或いは、罪の状態で、あらゆる嬰児がこの状態の中に産まれてくることを指すために用いました。彼は、「原罪説」の神学的な基礎を構築しましたが、その絶大な「権威」の故に、この点に関する後代の思想、特に西方における思想に大きな影響を及ぼしました。
アウグスティヌスが、その原罪観を作り上げて行ったのは、書斎での静穏な神学的思索の中ではなく、ペラギウス派との論争の過程でした。一般に論争中は、特定の論点を強調しすぎる傾向があります。さらに、アウグスティイヌスの精神は、マニ教的背景から新プラトン的キリスト教へ移行したのですが、このことが彼の原罪観に或る種の影響を及ぼしていたことも、認めなければならないでしょう。この論争に関しては公正な資料が十分では無いと言われていますが、ごく模型的に言えば、ペラギウス派は、人間の自由意志の効力とそれに基づく修行の効果とを高く評価したとされています。しかしこの考え方を論理的に押し進めていきますと、人間の救いは、究極的には、人間の努力による(人間の努力によって左右される)ので、結果的に神の特別の恩寵も、従って、イエスの苦難・十字架・復活も厳密には、必要ではないと言うことになりかねません。極めて通俗的に言えば、神も人間の努力を認めないわけには行かないのです。罪との関連で言えば、人間の努力を強調すれば、罪の原因は、全く人間にあり、神には責任はないことになりますが、そうであれば、逆に言えば、神が完全にコントロールできないこと(人間の自由)があるという不条理に陥ります。もっともペラギウスが、このような主張をしたのかどうか、論議の余地は残るでしょう。
これに対して、私たちの実際の日常経験は、人間がどれほど弱い者であるかを否応無しに見せつけます。人間は、自力では、事実上何もできないばかりか、逆に望まない罪悪をさえ犯しています。アウグスティヌスは、その青少年時代の経験からこのことを痛切に感じたに相違ありません。従って、彼が神の恩寵に救いを求めたのは、むしろ当然でしょう。究極的には、すべては神の恩寵に懸かっています。しかしこの考え方も論理的に突き詰めていきますと、人間の罪の原因に関する難題に行き着くことになります。若しすべてが恩寵に懸かっているなら、神の恩寵に反逆する意志の働き、つまり罪は、あり得ないことになります。それは、最終的には、意志の自由を否定することに繋がるでしょう。この場合、神はすべてを完全に支配するとの考えは説明できますが、結果的には、罪も神を原因とし、神の責任であるとの不条理に陥る危険があります。
要するに、恩寵を強調すれば、自由意志が、自由意志を強調すれば、恩寵が損なわれかねないのです。この様な微妙な状況の中の論争を通して、アウグスティヌスの原罪観は、展開しました。もちろん、アウグスティヌスの関心は、この様な「哲学的」な問題ではなかったでしょうが、この問題が、現在に至るまで、アウグスティヌス思想の理解に影響していることは否めないでしょう。
アウグスティヌスにとって主要な関心事は、アダムの最初の罪と全人類が免れ得ない罪との関係であったでしょう。特に新生児の場合のように、個人的には、まだ意志の働きのない人間にどの様にして罪が現れ、しかもそれに対して責めを負わねばならないのでしょうか。アウグスティヌスは、この問題をアダムとすべての人間との連帯によって説明しようとしました。そしてこの連帯の根拠が何処にあるのかを明らかにしようと努めました。一方で、「アダムの原罪」は、その子孫全部に及ぶ、との「信仰」があり、他方では、罪は、個人の自由意志の行為における逸脱であり、その限りにおいて、個別的な責任しかあり得ません。これら二つの互いに対立する信仰の事実をどの様にして両立させることができるのでしょうか。つまり、どの様に、或る一つの意志行為における逸脱が、それ自体として別個である別の意志行為に伝達されるのでしょうか。いわゆる「アダムの罪」と人間の罪ある性質との間の関連の問題であります。当然、このことは、罪、特に原罪の本質をどの様に捉えるか、と言うことにも大いに関わっています。若し、罪が単なる「汚染」ではなく、意志の「反逆」であるなら、この反逆は、どの様にして「遺伝」することができるのでしょうか。すなわち、いわゆる原罪の「伝播」の問題でした。
アウグスティヌスの考えでは、アダムは、自分の固有の意志の行為によって、道徳的罪を自らの中に犯し、意志を罪の奴隷としてしまいました。その結果、罪を犯さねば阻止されるはずであった肉体の死をも引き起こしてしまいました。ところで、人祖アダムの体内には、全人類一人一人の「種子」が実在していました、従って、すべての人は、アダムの人間性だけではなく、人祖のペルソナ性をも共有する、とアウグスティヌスは考えたようです。アダムが罪を犯したとき、万人はアダムの中に居たのですから、万人も罪を犯したと理解しました。すなわち、人間は、全体として、最初の人間アダムの内に堆積していたので、そのために、この人間本性が、人祖の最初の犯罪行為で堕落したのです。この問題に関して、アウグスティヌスが拠り所としたのは、「ローマの信徒への手紙」5:12の解釈でした。彼は、12節の「eph'oo」のヴルガタ訳「in quo」の quo を「罪」若しくは「死」と理解しないで、アダム自身を指すと解釈しました。ちなみに、in
quoは、eph'oo のいわば直訳ですが、このギリシア語句は、理由などを表す「副詞句」でもあり得るのです。quoをアダム(一人の男)を指すと解釈するのも文法的には、できますが、多少無理があります。「新共同訳」のように「・・罪を犯したからです」とするのが最も妥当のようです。
では、最初の代表者の内に包含されていた「種子」は、どの様にして、時間の発展と共に各個人に具体的に現われるのでしょうか。アウグスティヌスは、この実現の手段を、性欲であると考えました。つまり、この性欲自体が、最初の罪の結果であると同時に、これが手段となって、罪ある人間本性が、父から子へと種子のように伝わるのです。要するに、アウグスティヌスは、原罪の本質を、人間を神から引き離すところの情欲にあると見ました。そして、これは、人間が産まれる媒介となる両親の性的欲情によって伝承されると見做しました。すなわち、当時は、人間の出産は、性交によってのみ行なわれると考えられていましたが、性交には、原理的には、性的快楽が伴います。この快楽が、悪に染まっているので、それを通して生まれてくる個人は、必然的に罪悪に染まっていることになります。ちなみに、もし、アダムが罪を犯さなかったら、人間の性的交わりは、快楽を伴わないものであったろうと、考えていたようです。この様な教説の前提には、救いの範囲は限定されており、大部分の人間は、神の正義の審判によって断罪された群衆 massa damnata の中に陥っているとされる見解がありました。また、私たちの本性がアダムにおいて罪を犯したとの考えの背後には、普遍概念は、個体とは別に実在する、との新プラトン主義的思想がありました。
人類の最初の罪は、アダム個人の行為としては、私たちの行為ではありませんが、人類と言う集団を考えれば、真に人類の共通の行為です。それ故、万人は、この行為の結果に責任があります。万人は、個人として実在し始めるとすぐ、アダムに生じたのと同じ本性の堕落を現わすのです。最初の人の罪において、私たちの本性は、悪化し、罪あるものとなっただけではなく、罪人を産み出すのです。こうして、罪は、誕生と共に万人に入るのであって(De Corrept. et Grat.10)、恩寵によって新しく誕生するのでなければ、取り除かれません。アダムにおいて万人は「全体として」罪を犯したのです。この罪によって私たちは、「滅びの群衆
massa perditionis 」となった、とこのようにアウグスティヌスは、主張しました。
すなわち、アウグスティヌスは、私たちの人間性をアダムに組み入れることで、アダムの罪の責任を分担できると誤信しました。しかし、本来の「罪」の遺伝とその責任を言うためには、人間性だけではなく、私たちの意志も、ペルソナ性も、個体性もアダムの意志、ペルソナ性、個体性を共有すると言わねばなりません。何故なら、本来、罪とは、ペルソナを主体とする自由意志に関わるものだからです。しかし、アダムが罪を犯したとき、その子孫の個的ペルソナ性、意志などは、まだ現実には存在していませんでした。この点をどう説明できるでしょうか。これは、いわゆる「結び目」の問題です。アウグスティヌスは、この結び目を、或いは、アダムの中に実在していたとされる人類一人ひとりの「種子」として、或いは、アダムの人間性へだけではなく、そのペルソナ性へ全人類が共に与る(共有)事実として、説明しました。すなわち、この「種子」、「共有の事実」が遺伝するのです。そして、この遺伝の手段が、性欲なのです。
しかし、アウグスティヌスの教えがすべて啓示に含まれているわけではありません。その教説は、むしろ、彼が、当時の文化的状況の中で、自己の個人的体験に基づいて真摯に聖書を瞑想して得た個人的な見解です。従って、科学の進歩や、文化の変遷によって、多少の修正が施されるのは、当然であります。事実、教会は、全体として、個人の権威にとらわれないで正しい道を歩んできたし、今後も歩み続けるでしょう。この意味で、原罪の「教義」が新たな仕方で再理解される可能性は、常に残されています。
次に、原罪の問題に関して、古来、極めて重大な課題は、既に述べましたように、罪の「遺伝」と言うことでした。これは、既に言及したことと重なりますが、もう一度取り上げておきましょう。極く大まかには、原初の人間にとって、罪とそれにまつわる心理的・物理的悪(汚染)とは、未分化のものとして意識されていました。そして、どちらかと言えば、悪とそれについての恐れとに注意が傾いていた、と言えましょう。その結果、罪は、悪魔、悪霊などのイメージで「物神化」されるか、人間がこれらの影響下に置かれるか、或いは、その両者として捉えられました。人間が罪悪の担い手と考えられる場合、その主体となる能力は、理性−意志だと見做されるより、むしろ感覚−欲望であるとされるのが自然でした。こうして、罪・悪は、ペルソナ的なものであるよりも、物量的なものとされ勝ちでした。ここから、罪の穢を浄化する、贖い戻す、と言ったような思想が極めて自然に生まれてくるのです。
以上のような思潮を背景に、原罪の教説の展開の過程で、二つの大きな流れが生じました。すなわち、一方で、原罪を人間本性に「刻み込まれた」積極的腐敗・堕落とする考えと、他方で、人間本性に付加されるはずであった超自然的賜物が剥奪されていることとする考えです。従って、原罪の伝播の問題も、これらの流れに沿って考えられることになります。前者は、汚染の面に、後者は、反逆の面に重点が置かれていると言えましょう。
積極的に原罪の「伝播」を説明しようとしますと、どうしても「汚染」の面を強調することになりがちです。こうして、現実には、汚染された情欲、特に性欲が伝播の担い手と考えられるようになりました。しかし、厳密には、汚染は、罪自体ではありません。若し汚染が罪自体であれば、そこからの結果は、罪ではありえません。汚染が汚染を産み出すのは、いわば必然であって、必然的なものは、本来の罪とは言えません。それ故、「遺伝する罪」という概念は、厳密には成立しないのです。ここに「原罪」説の問題点の一つがあります。
十一世紀前半に、アリストテレスの「論説法」が西方教会の神学界に登場するのですが、この頃からいわゆる中世スコラ神学期が始まるとして良いでしょう。通常この期間は、前期、盛期、衰退期に分けられますが、私たちにとって特に関心のあるのは、原罪に関するこの時期の教説です。
ごく大ざっぱに言って、この期間全体を通して、アウグスティヌスの影響が絶大でありました。しかし、新しい理解も芽生えて来ました。
ここでは、中世前期の代表的神学者としてアンセルムス(1033/1034-1109)、盛期(ほぼ13世紀)の代表として、トマス・アクィナス(1227-1274)の原罪観を一瞥するにとどめましょう。
アンセルムスは、人間における意志の役割を重視しました。罪の「主体」は、感覚ではなく、意志です。情欲自体は、倫理的に中性だが、情欲に同意してはいけないときに、意志が同意したとき、人間は、罪を犯すのです。従って、原罪を単純に性欲(情欲)と同一視することはできません。罪は、種子の中に
in semine あるのでなく、個人が実在し、理性的霊魂を所有し始めると同時に、必然的に罪が発生するのです。ここで、ペルソナと本性の区別が、導入されます。アダムの子孫は、ペルソナとしては、アダムの中にはいなかったが、アダムがペルソナとして行なったことは、罪も含めて、すべて本性によって行ないました。そして、この本性は、アダムのものであると共に私たち自身の本性でもあります。こうして、罪有る本性が世代から世代へと伝わるのです。ただし、本性によって罪を犯すという考えを理解するのは、必ずしも容易ではありません。
更に、アンセルムス以降、成聖の恩寵の解明が進み、原罪の本質は、成聖の恩寵(原始の義)が欠如していることにあり、アダムの自罪は、この欠如の原因であるとされるようになりました。すなわち、この時期には、原罪を超自然の賜物の剥奪と見る考えが強調されてきます。その背景には、アダムは、堕罪後、聖霊との交流を失った、と言うタティアヌスの根拠薄弱な説と、エイレナイオスが導入した、人間における神の(失い得ない)「像[eikoonツェレムimago]」と(罪によって失われる)「似姿[ homoioosisデムートsimilitudo]」の区別がありました。
中世盛期(ほぼ十三世紀)の最高峯の一人、トマス・アクィナスによれば、アダムは、罪を犯す以前、神の法を実行する本性上の力を持っていましたが、最初の罪を犯した後は、この本性上の力までも失ってしまいました。しかし、トマスは、原罪によって意志が破壊されたとは考えず、情欲が罪の固有の本質に属するということを否定しました。要するに、原罪は、積極的には、秩序を失った状態、消極的には、原始の義、若しくは、付加された恩寵の喪失でありあます。すなわち、神からの意志の離叛である原始の義の欠如が、原罪の形相的要因であり、悪化した情欲、即ち、被造物への秩序を欠いた執着が、質料的要因です。離叛や執着の行為そのものではなく、行為を堕落させる状態・態勢が原罪なのです。つまり、原罪は、「特殊様態」で、これによって罪が他者の内に、起源から発生するのです。この状態は、諸々の能力に先行します。私たちのいわゆる自罪は、原罪の内に可能態として存在するだけです。つまり、原罪は、自罪、即ち、意志の行為の歪みに対して「傾斜」している先行の習性です。こうして、原罪は、先ず、意志を悪化します。原罪の最初の結果は、意志の歪である、と解したのです。
トマスは、原罪の伝播を、人類の単一性と、人祖から伝えられる共通本性を万人が所有している事実とによって説明しました。ちなみに、いわゆるトミストとは異なる見解のスコトゥス(ジョン・ダン・スコット1270頃-1308)は、いわゆる原始の義の喪失によっては、自然本性の力は、直接影響を受けず、恩寵に由来する抑制力が最初の罪によって、欠如したために、この力は、無秩序なものとなりました。情欲は、生得の願望としては罪性を持たない。堕罪後も或程度残存している意志の同意を通して初めて罪有るものとなる、などと主張しました。すなわち、原罪は、人間の本性には、全く影響せず、超自然の賜物だけを損なったとしました。堕落した人間の意志の自由を強調し、情欲は、人性そのものに属するものであるから、原罪と情欲を同一視することを拒否しました。
トマスの見解の背後には、当時の基礎的神学教科書とも言うべき Summa sententiarum の著者ペトルス・ロンバルドゥス(1100/110-1160)の原罪観があったことに注目する必要があります。彼によれば、罪は、悪例の模倣によってではなく、繁殖によって伝播するのです。従って、誕生に際して万人に発現します。最初の罪は、アダムだけではなく、人類全体を破滅させました。私たちは、アダムから同時に断罪宣告と罪とを引き継ぐからです。原罪は、私たちにおいては、情欲です。私たちの本性は、アダムにおいて悪化しました。万人は、アダムの中に、質料的に,
原因に関して, 種子として、存在していたからです。各人の霊魂は、個別的に創造されますが、アダムにおいて悪化している質料的部分と接触することで堕落します。霊魂の堕落は、それが肉体と結合することから来る避けられない結果です。
さて、トマスは、霊魂は伝播しませんが、人間本性は、両親から子供に遺伝し、それと共に、本性の悪結果も遺伝すると言います。そして、次のように説明します。丁度、意志は、身体の部分に命令し、部分を使って、罪を犯します。例えば、身体から区別されたものとしての腕は、殺人行為に責任はありませんが、人間の部分として人間に属する限りにおいて、また、意志から動かされている限りにおいて、責任があります。こうして、若し、腕が罪を犯す能力のある本性を持っているとしたら、罪に責任があると言うべきでしょう。この様に、アダムから生まれる万人は、一つの身体の多くの部分のようなもので、一人の人間と見做されるべきです。トマスも、アンセルムと同様、ペルソナと本性とを明確に区別し、固有の仕方で、ペルソナに属するものは、本性の産出によっては、遺伝しません。ペルソナには、生得の特徴と恩寵から授けられた性質が備わっているように、本性にもこれらの両者があります。原始の義は、最初から本性に無償で与えられた賜物でしたが、アダムにおいて、最初の罪で失われてしまいました。原始の義が本性と同時に子孫に伝播するはずであったように、その逆の無秩序も伝播するのです。しかし、最初の罪以外の人祖の自罪も、その他の先祖たちの自罪も、本性を汚しません。ペルソナの性質に関するものだけを汚します。原始の義は、主として、意志が神に従うという点にありました。従って、意志が神から離反することから、霊魂のその他のすべての能力に無秩序が発生しました。それ故、原始の義の欠如が、原罪の形相的要因であり、情欲、即ち、無秩序は、質料的要因です。
言い換えますと、三一神においては、神的ペルソナ間には、同一の神性に従って、親子関係があるように、人間も同一の本性の共同体に従って、ペルソナ間に親子関係があります。この関係に基づいて、人類家族には、「交わりの構造」が成立し、これによって各人をメンバーとする、「単一人間」が存在することになります。神は、この関係に基づいて、人間本性全体に恩寵を与えました。それ故、この関係によって原始の義が全人類に遺伝するはずであったように、原罪の結果、この関係を介して、恩寵による親子関係が、逸脱した親子関係となりました。また、この構造によって、原始の義(と原罪)及び、キリストの救いが全人類に行きわたるのです。
ちなみに、この理論をよりよく理解するために、「ペルソナ」を従来のように、「実体」として捉えるのではなく、トマス自身が、神的ペルソナについて述べているように、「関係」として捉える方向を深めていくのが有益であろうと思われます。
次に、原罪の問題に関するマギステリウム(教導職)の見解を概観しておきましょう。「マギステリウム」と言う概念そのものについても明確にしなければならない問題は多いのですが、ここではすべて割愛します。ただ、私見では、マギステリウムの本領は、何か新しい真理を積極的に打ち出すことにあるよりも、否定的な仕方で、逸脱を防止、矯正することにあるように思われます。こうして、例えば、神学探究の自由を擁護し、支持する役割を果すのです。マギステリウムは、様々な仕方で行使され得ますが、ここでは、単に公会議での行使だけに限ります。
「原罪」は、既にカルタゴ公会議(418)で取り上げられていますが、詳細に且つ教義的定義として扱われたのは、何と言ってもトレント公会議においてであります。つまり、一言で言えば、それ以前は、まだ、原罪は、信仰の事実としては、与えられていたとしても、「教義」としては、定義されていなかったと言うことです。従って、原罪に関する教義神学的考察は、この「定義」から出発するのが穏当でしょう。
トレント公会議は、その第5回会合(1546/6/17)で、「原罪 peccatum originale」に関する教令をを6箇条に纏めて採択しました。以下にそれを要約しましょう。
1. 最初の人間アダムは、楽園で、神の命令に違反したとき、直ちに聖性と義--本来この状態で創造された--とを失った。また、この様な罪による侮辱によって、神の怒りと嫌悪とを引き起こした。こうして、予め神から警告されていた死を受け、死と共に、死と悪魔との権力に囚われた者となった。そしてアダム全体が、肉体も霊魂も含めて、堕落した。
2.アダムの罪は、彼だけでなく、その子孫をも害した。神から受けた聖性と義とをアダムは、自分のためにだけではなく、私たちのためにも失った。汚れたアダムは、不従順の罪によって、死と肉体の罰だけではなく、霊魂の死である罪をも全人類に注入した。
3.起源において単一であるアダムのこの罪は、模倣によってではなく、生殖によって、移注され、各人に固有のものとして内在するが、この罪は、唯一の仲保者イエス・キリストの功徳によらねば、或いは、人間本性の力によっても、或いは、その他の救助策によっても、除去され得ない。このイエスの功徳は、教会の様式で正しく授けられた洗礼の秘跡によって、成人にも、小児にも適応される。
4.受洗した両親から産まれた場合でさえ、誕生直後の嬰児にも洗礼を授けねばならない。また、罪の赦しの為にこれらの嬰児に洗礼を授けるが、それは、彼らが、アダムから原罪を引き受けるからである。この原罪は、永遠の生命を得るために、再生の洗礼で、浄化される必要がある。従って、嬰児においても洗礼は、罪の赦しの為である。この様な理解は、ロマ5:12のカトリック的解釈に基づくものである。それ故、まだ自分で罪を犯すことができない嬰児でも罪の赦しの為の洗礼を受けねばならない。
5.洗礼によって授けられるイエスの恩寵によって、原罪の罪科 reatum は赦される。しかも罪の真実且つ固有の理拠に属するすべてのものが除去されるのであって、単に、表面的に削り取られるだけ、或いは、責任が追及されないだけ、と言うことではない。受洗者は、神から愛された真の神の子となるのである。受洗者の内にも、情欲は未だ残る。しかし、この情欲は、闘いの状態に置かれているが、これに同意しないで、イエス・キリストの恩寵によって勇敢に抵抗する人々を害することはできない。この情欲を、使徒パウロは、時に「罪」と呼んでいるが、公会議は宣言する、カトリック教会は決して罪−−再生した人々において真実に、かつ固有の意味での罪−−と呼ばれているとは理解していなかった、と。仮に罪と言われるとすれば、それは、罪に由来し、また、罪に傾いているからに過ぎない。
6.原罪に関する場合、聖母マリアを、この教令に含まれるものとするのは、公会議の意図ではない。
以上の教令を正しく理解するには、あらゆる文書同様、本来の文意と、その表現の仕方とを区別しなければならないでしょう。後者は、時代や文化の影響から完全に自由ではありえません。それ故、教令の一字、一句に過度に拘泥するのは、逆にこれを無視するのと同様の誤りです。しかし、現実にこの二者を区別することは、それほど容易なことではありません。今、卑見に従って、教令の要旨を纏めると以下のようになろうかと思われます。
1. 教令は、「アダム」の罪を述べますが、これは、必ずしも、万人が、最初の父アダムを出発点とする遺伝的・生物学的子孫であることを積極的に宣言していることを意味しません。公会議は、アダムとは誰かということは定義しませんでした。原罪に関する教令の教義的意図は、罪を犯した人間性の最初の父としてのアダムのペルソナの歴史性を教えることではありませんでした。ここで言われているのは、私たちは、誕生によって、連帯的に罪ある人類の一員となる、と言うことです。つまり、公会議は、私たち一人一人が、誕生に際してアダムの罪のために、蒙るところの原罪の存在を信仰の教義として定義したのです。
2. この罪の本質は、性的情欲の存在、若しくはその逸脱ではなく、聖性といわゆる原始の義とが欠如していることにあります。この聖性と原始の義とは、内的なもの、習性、つまり
HABITUS としての義化の恩寵によって構成されます。それ故、この欠如は、キリストの贖いによる義化によってのみ現実に解消するのです。
3. 原罪の教義を説明するためには、必ずしも、アダムの罪から出発する必要はありません。むしろ、逆の方向からアプローチすべきです。すなわち、先ず、私たちが現在知っているがままの私たちの罪の状態、また教会が定義したままの状態から出発して、しかる後、始めて、「私たちの原罪」の起源としてのアダムの始めの罪に関する、今日も部分的に論争されている諸問題を取り扱うべきであります。
4. 原罪の遺伝についてのトレント公会議の命題の解釈は、罪におけるペルソナ相互間の連帯という観点から下すべきで、生物学的出産によると言うアウグスティヌス的意味で解釈してはなりません。この様な解釈は、公的には教会は、決して採りませんでした。述べましたように、アウグスティヌスは、原罪の遺伝をあらゆる生殖行為に随伴する肉的情欲によって、発生論的な仕方で説明しました。どんなに聖なるものであろうと、あらゆる婚姻の中には恥ずかしい?リビドがある。これが原罪を伝えるものである。こうして原罪は、肉的生殖行為(この行為自体が罪に汚れている)によって伝えられる本物の遺伝的罪であると主張しました。しかし、この罪の本質的な「主体」は、情欲ではありません。情欲は、義化された人の中にも残るからです。
最後に、原罪の教義を巡る若干の神学的考察を付け加えておきましょう。
「原罪」という語には、二義があります。つまり、「起源において犯された罪」と、私たち各人が「存在の最初の瞬間から蒙る」とされる罪です。前者は、いわゆる「起源をなす原罪」と呼ばれるもので、聖書がアダムの罪と呼んでいるものです。後者は、いわゆる「蒙った原罪」で、人間各自が責任を負うペルソナの行為ではありません。それは、私たちの生得の条件であって、神の「友人としての愛の生命」に参与していないと言う事実そのものを指しています。私たちは、主としてこの第二の意味での「原罪」を考察します。
神学的な考察を加える前に、先ず、この「教義」の「本質」を明確にしておく必要が有るでしょう。これは、既に紹介したトレント公会議での「定義」を勘案して以下のように纏めることができるでしょう。
原罪は、罪と言われる限り、霊魂の死です。罪とは、神からの愛を人間意志が拒絶することであって、単なる悪化した情欲・性欲ではありません。もちろん、その行使に伴う快楽でもありません。本来の罪は、意志の現実化における逸脱です。
アダムの「原罪」の結果として、或いは、むしろその内容として本来人間にあるべき原始の聖性と義が欠如していること、そのため、意志は、もはや究極目的へ正しく秩序付けられていない状態にあること、及び、霊・肉ともに堕落したことが原罪の「本質」です。
この罪は、万人が共通の人間本性を共有しているとの事実から、万人に、自己に固有の罪として、内在するものです。原罪は、イエス・キリストの恩寵によってだけ完全に除去されます。
原罪は、「罪」である限りにおいて、あらゆる被造知性の理解を無限に超える秘義です。この秘義の現実の根拠は、成聖の恩寵の秘義、つまり、神の愛の秘義です。従って、原罪の秘義を「理解」するには、恩寵の秘義を理解しなければなりませんが、これは、本来、理解し尽くすことができないはずです。そこで、神学の役割は、二つの秘義を前提とした上で、両者の関係をできるだけ説明しようと努めることとなるでしょう。
さて、成聖の恩寵は、知性的被造物に対する神の自己贈与に他なりません。この自己贈与は、被造物の自由決断に先行するものです。それ故、この恩寵による人間の聖性は、人間の自由決断が倫理的に善であるとの事実(「聖性」)に先行するのです。そして、この決断と、その結果として起こる条件とを聖化します。ところで、人間の場合、この「聖性」が、欠如するのは、神の意志によるのではありません。従って、この欠如は、単なる聖性の「不在」ではなく、聖性を否定し、反対する状態を積極的に作り出すものです。しかし、この状態は、各個人の倫理的決断に先行しているのです。このことからして、この聖性について神から求められる責務は、各個人に負わされた直接に倫理的な要求とはならないのです。
しかし、神は、人間がこの恩寵をもつことを意志されます(望まれます)。この神の意志は、個人の自由に対して神が倫理的要求をされることにさえ先行するのです。それ故、誰かが、この恩寵を現実に持たないとすれば、それは、自由に犯した罪の理由のため以外には有り得ないのです。さもないと、神に矛盾を帰すことができない分けですから、神の意志に反して、何故人間は、この恩寵を持たないのか説明できないことになります。ところで、自由な個人の責任が問われない場合でさえ、この恩寵が欠けていることは、神の意志に反します。この意味で、本来、起こってはならないこの不在状況は、個人のペルソナ的決断に先行しますが、類比的意味で罪の性格を持っています。神には、恩寵を与える義務はありませんから、恩寵を与えるなら、無意味でない限りどの様な条件を付けることもできる筈です。こうして、神は、この恩寵を人間に与えるに際して、最初の人間の忠実を条件とし、もしこの条件が満たされないならば、人間は、この恩寵を、「アダムの子孫」として受けるのではなく、キリストを原因としてのみ、受け取る、と言うように条件づけられたのです。
人間は、現実に、アダムの子孫としては、神の恩寵をもっていません。述べましたようにこの欠如は、罪の性格を帯ています。人間は、出産によって、この「起源をなす原罪」を「遺伝する」のです。遺伝の方法が、通常の出産であるか、人口授精などによる出産であるかなどということは、この問題にとっては、本質的な意味はありません。
この欠如は、人間にとって、単なる表面上のことではなく、固有の内在的な人間のあり方に関わるものです。ですから、各人にとって固有の内的原罪であるとの主張は、正しいのです。最終的な救いのためには、恩寵をもつことが必要ですから、原罪を取り除くのは、救いに達するために必要なことです。
上に述べましたことを正しく理解するには、「原罪」と「自罪」と言う語に使われている「罪」の概念は、類比的であって、一義的でも、両義的でもないことを言わねばなりません。すなわち、全く同一でも、また、全く無関係なものでもないということを認めねばならないのです。既に述べましたように、類比と言う概念は、或る点に関しては、共通ですが、別の点に関しては、全く異質であります。では、原罪と自罪とに共通している要因は何でしょうか。それは、「罪」の形相的核理は、ペルソナとしての神と人間との意志的交流・愛が断絶していることです。この点で、原罪も自罪も等しく「罪」と呼ばれます。
では、「原罪」と「自罪」の異質である点は何でしょうか。それには幾つかの点があります。
1.罪が発生する原因に関して、原罪は、他者の決断により、自罪は、自分自身の決断であると言う違いがあります。
2.内的本性に関して、一方で、原罪は、自由意志が置かれた状況として個人の決断に先立ってすでに在るのです。原罪は、自罪と比べた場合、人間の「行為」であるよりも「状況」であると言えます。救いに関する決断の内容であり、手段である恩寵が、「アダムの所為で」人間に欠如している状態が、原罪といわれる「状況」の一部をなします。これが原罪の本質といわれるものです。ちなみに、人間は、この「状況」の中で、救い或いは滅びに関して自由な決断をするのです。すなわち、人間は、自罪によって自分の原罪の状況を自由に批准するか、或いは、信仰と愛徳とによって、自己の状況を贖われたものとして自由に批准するのです。しかも、救いに関するこの決断は、情欲の下で、死との関連でなされねばなりません。人間は、常にこの二つの力(情欲と死)から誘われ、自罪によって「アダムによる」恩寵の欠如を批准し、これを自己の現実の意味となしています。他方で、自罪は、自由決断として個人意志の発動であり、永続的です。
3.結果から見て、原罪の罰は、結果として表われる現象として単に類比的な意味で言われる罪の「罰」であります。しかし、自罪の罰は、目的に向かって方向付けられている個人的決断に反対する反動的決断としての罪の罰であります。つまり、本来の目的を積極的に拒否することから来る欠如・「苦痛」なのです。
4.神の意志に対する関係として、原罪は、創造主の「全般的」創造意志に対立します。自罪は、個人的責務を課する立法者としての神の「個別的」意志に対立しています。
5.救いに関わる状況との関係として、原罪は、二つの実存的「位相」間の弁証法的緊張を孕んだ関係です。つまり、恩寵・救いの位相と滅びの位相との間の緊張関係です。自罪は、「然り」または「否」に関する自由決断の関係であり、自罪に関しては、弁証法的な緊張関係は、原則的には見られません。
「原罪」を説くならば、同時に、それにも増して、「原贖い」・「原恩寵」とも言うべき事実をも強調しなければなりません。人間の歴史で、最初に犯された罪の直後、贖いの約束があった、という啓示の事実を無視して、原罪を語るのは、救いの歴史を誤らせることであります。すなわち、原罪の「教義」は、それ自体「独り歩き」すべきものではなく、キリストによる「救済史」の一つの「系」として理解しなければならないのです。ちょうど、物理の世界で、私たちは、「影」がなければ「光」を認めることができないように、「原罪」の教えによって、私たちは、キリストの「原恩寵」を一層切実に悟ることができるのです。
従って、原罪が、キリストの贖いの効果よりも普遍的且つ効果的であることは有り得ないことです。万人には、罪を赦し、神化をもたらす恩寵が与えられています。ただし、これはキリストを通してだけ与えられるのです。すべての人間は、アダム以来罪人ですから、キリストの唯一の贖いによらないでは救われる者は一人としていないと信じられています。ただ、この言明に関する解釈は、柔軟になされねばなりません。
神の救済意志において、原罪は、時間的に、贖いに先行するものではありません。つまり、原罪が犯されてしまったので、慌てて贖いが考え出されたと言うようなことではないのです。確かに「救済史」の内部では、アダムの罪の具体的行動は、キリストの贖いの具体的行動よりも時間的に先行しましたが、原罪の位相と贖われるという位相とは、救いに関する人間状況の二つの実存的因子です。罪は、神の無条件且つより強力な救済意志の範囲内においてだけ神から許容されたのです。
神の創造愛は、事実上、神の救済愛であります。この神は、自由な人間が、神化され、キリストの内に集約されることを目的として、この人間を創造しながら、罪の危険を許容し、それを予知されます。そして、この罪ある人間性の、この世での歴史の中で、この人間性がキリストの過ぎ越しの秘義に参与することで、この人間性を神化するという永遠の計画を実現されるのです。
最初から最後までキリストの過ぎ越し秘義に集約される救済史の弁証法的な展望から言えば、次のように言えるでしょう。すなち、神は、永遠から、キリストの内に神化され、統合されるために創造された全人類(コロ1:15−16、エペ1:3−6、そして、多くの教父の解釈では、既に創世記1:26)を欲し、かつ、眺められます。しかし、自由な人間性を欲する神は、この人間性が、その悲劇的現実において、普遍的に、かつ、連帯的に、罪ある共同体として、その罪による拒否によって、神の国への真実の神化に障害を構える者である(ロマ3:10、3:23、11:32、ガラ3:22、創世記3:5)ことをも、永遠から、知られるのです。また、神は、永遠から、全人類が、キリストによって、罪から解放され、義化されることをも欲し、かつ眺められます。このキリストは、全人類を御父と和解させ、かつ、人類をキリスト自身の教会的身体の充溢とされますが、それは、人類をもキリストの復活の栄光に参加させるためであります(コロ1:18−20、Iコリ15:20、IIコリ3:18、エペ1:7−14、2:1−6、ロマ5:11、5:21、6:8−11、8:28−30、及び、既に原福音:創世記3:15)。以上が、救いの唯一のみ摂理の単一性です。すなわち、贖いの受肉と過ぎ越し秘義のみ摂理なのです。
言うまでもなく、古来の原罪説は、古典的な人間観を前提として考えられてきました。すなわち、「創世記」2〜3章を始め、『旧約聖書』の記述が厳密な意味での歴史的事実である、との観点から考察されてきました。しかしながら、近代以降の科学の発達はめざましく、その成果は、科学を単なる「仮説」として黙殺することは、出来ません。それ故、私たちは、この科学の成果を少なくとも大筋で認めた上で、「原罪説」を再考しなければなりません。ただし、「信仰」と「科学」とは、本来矛盾するはずはありませんから、若し紛争が起こるとすれば、それは、信仰の理解の仕方に問題があるか、科学がその固有の領域を踏み越えて結論を強要しているからです。
とにかく、人類の起源についての生物学の仮説は、神学が、原罪説の核心を明確にすることを求めています。
原罪は、全人類に及ぶ罪であると言われますが、先ず問題は、この場合人類・人間とは何か、と言うことでしょう。ホモ・エレクトゥス、例えば、ホモ・エレクトゥス・ペキネンシス(約50万年前)、ピテカントロプスやシナントロプス(10万年〜20万年前)等のいわゆる「先行人類」も原罪との関係で「人間」に含めるべきでしょうか。ここで、強調すべきは、私たちの言う「人間」は、生物学的概念ではなく、神学的概念であると言うことです。すなわち、科学的手法によって知られる「人間」ではなく、天啓の光によって知られる人間です。ただし、「天啓の光によって」とは、必ずしも聖書の字義通りに、と言うことを意味しません。従って、もし、この神学的概念を或る個体に適用することができるならば、先行人類も含めるべきですが、適用できるかどうかは、科学では決定できません。同じ事は、いわゆる人類の起源についても言えます。科学は、いわゆる「ホモ・サピエンス」の起源について解明を深めていくことは出来ますが、神学的人間の起源については、何も断定できないはずです。ただし、それは、科学は、信仰とは全く無関係だという意味ではありません。科学の成果が神学の理解を一層深めるのに役立つのは、言うまでもありません。
「科学」の次元で、人類の起源について、伝統的に考えられてきたのは、いわゆる人祖一元説です。すなわち、一番(つがい)の男・女単体から、全人類が生殖してきたとする説です。上記「創世記」の物語や、トレント公会議の原罪の「定義」は、この説の枠内で述べられていることは確かです。しかし、人祖一元説は、いわば飽くまでも「科学的」仮説であって、神学的人間の起源を証明するものではありません。従って、これ以外の「仮説」も神学的人間概念に抵触しなければ、科学の問題として受入れは、可能であるはずです。
生物の進化という観点からは、現生人類といわゆる先行人類との間の区別、更に、先行人類の分類などは、必ずしも簡単明瞭ではありません。現生人類の起源についても、論理的には、多元説(多くの単体がホモ・サピエンスに進化したとする)、同一系統説(単一の動物門全体がホモ・サピエンスに進化したとする)、或いは、多系統説(幾つかの動物門がホモ・サピエンスに進化したとする)などが、起源の説明として科学的な蓋然性を示しているように見えます。ただし、最近の遺伝学・遺伝子等の研究の進歩から、再び、人祖一元説が多くの学者の支持を受けつつあるようですが、仮に、そうでないとしても、これらの仮説は、神学的人間概念を直接左右するものではありませんから、「原罪説」を覆すことにはならないでしょう。
結論として、人祖一元説は、原罪に関する連帯教説のための必須の前提でも、キリストにおける私たちの普遍的救いの教説のための必須の前提でもありません。この連帯教説は、必然的に、全人類の単一性を、唯一の連帯共同体を構成する要因として含むものです。しかし、この人類の単一性は、必ずしも、最初の夫婦からの、生物学的起源の単一性を意味するものではありません。人類の単一性は、次の事実に、本質的にその基礎を置くものです。すなわち、私たちは、すべて一つの同一の人間性を持っている。また、私たちは、すべて、同一の宇宙の中に、キリストにおいて互いに一致するために、同一の超自然的召命を受けて神から創造された、との事実です。このキリストは、救いの唯一の計画の力で私たちを神化されます。私たちの人間的単一性は、私たちがキリストに組み込まれることで実現するので、生物学的なアダムの子孫であることによってではないのです。救いに関する神の唯一の計画に基づき(エペ1:3-14)、全人類全体だけでなく、全宇宙全体の上に(コロ1:15-20)至上権を有するのは、アダムではなく、キリストです。人類という教会的身体は、最初のアダムの身体ではなく、新しいアダム(コロ1:18;Iコリ12:12)、キリストの身体です。
要するに、最初の罪の責任は、全面的に人間にあること、すべての人間は、キリストと連帯するため、同一の人間性を共有し、この共有を介して例外無く、罪にも連帯することを認めることと矛盾しない限り、起源の問題は、多様な仮説を許容することができるでしょう。原罪説は、人類の生物学的起源、若しくは、人類がすべて同本質であることを説くのが主旨ではありません。
原罪説との関係で、論じられてきたもう一つの問題は、原罪以前の人間の状態が、若しあったとして、それはどの様なものであったのか、と言うことです。これは、原罪によって何が失われたのかと言うこと、更には、原罪とは、具体的に何であるかを知る上で、可なり大切な考察です。近代以前には、「創世記」2〜3章の歴史性を前提に、いわゆるエデンの園での人間の条件について様々な説が立てられてきました。しかし近代科学の進歩に連れて、幾つかの説明が、本当らしくないことが、明きらかとなってきました。私たちは、これらの点について、どの様に判断すべきでしょうか。このことは、特に、いわゆる「自然法倫理」を考える上で無視できません。例えば、人間における「性」の意味、つまり、性や性交にまつわる悦び、それらと新しい生命の誕生との関係は、原罪以前と以後とでは本質的に変化したのでしょうか。確かに、私たちの本性には幾多の歪がみられますが、本性そのものが、神からその不可思議の愛に基づいて創造されている事実は変わらないはずです。このことを本質的に否定する説は、たとえ、伝統的で、敬虔なものであっても、受け入れる訳には行かないでしょう。
エデンの楽園での人間の状態・条件(例えば、身体の不死、情欲の不在、並外れた知識、外界の刺激から影響され得ない完全な性質、あらゆる苦痛の不在など)は、教会の教義上の教えの対象として正式に取り上げられたことは一度もありませんでした。しかし、要理の授業や、説教壇では好んで取り上げられ、一般民衆の空想を膨らませました。しかし、この様な条件は、先史学や古生物学の発見、心理学、特に深層心理学、精神分析学の発達以来、今日ではもはや考え難いものとなってきました。
創世記の最初の数章の物語は、固有の意味での歴史ではなく、知恵文学の類型に属するものだと言われます。これらの物語には、人間に関して、また、人間の創造、その神与の召命、罪を犯した人間の条件、等に関する宗教上の考察が含まれているとしても、人間が最初の罪を犯す前に置かれていたであろう歴史的状況としての、楽園の状況をこの物語から引き出すのは、今日ではもはや不可能です。ちなみに、エデンの園については、ヤヴィスト資料だけが語っているだけで、創造に関する物語には、司祭資料によれば、人間が、その堕罪の罰として放逐されることになる地上の楽園は、触れられていません。この司祭資料は、最初の罪についてすら語っていないのです。
教父たちの伝統は、画一的でないばかりか、異なる二つの方向に別れています。
第一の方向は、特にエイレナイオスによって代表され、人間の完成は、その歴史の終わりに実現されるべきもので、起源の時点で既に現存するものではない、とするものです。ちなみに、エイレナイオスは、人類の最初の状態を、「人類の幼児期」にたとえています。この方向上にあるものとして、義化への準備という見解を挙げることができるでしょう。これによれば、アダムは、その誕生(創造)後、直ちに義化されず、成年に達したときに、最初の助力の恩寵の助けで、成聖の恩寵の賜物を受けるための準備をするはずでありました。この場合、人間は、誕生の時に受ける成聖の恩寵を、起源において、その罪によって失うのでは無いと言うことになりましょう。しかし、若し、人間が、成年に達したとき、この成聖の恩寵に反抗するなら、人間は、神に頼らず自己だけで十分だとするその最初の罪−−これが傲慢と言われるものです−−によって自らを閉ざすことになります。その後は、人間は、成聖の恩寵を、若し再び与えられるなら、それは、キリストの将来の功徳の力によって、「贖いによる恩寵」として受けることになります。少なくとも次のことは、保持しなければならないでしょう。すなわち、人間は、その創造以来、神の御子の「子としての恩寵」によって神化されるために、超自然的召命を受けました。この超自然的目的は、絶対的に無償であり、人間本性の本性次元での要請や能力を超えるものですが、その実在の最初の瞬間以来、神から人間に与えられたものです。しかし、人間は、この最初の瞬間から、義化に属する成聖の恩寵を効果的に受けたのかどうかと言うことは、確定されていません。
第二の方向は、アウグスティヌスのものですが、原初の状態は、人間の超自然的、自然的完成の状態であった、と考えます。すなわち、アダムは、罪を犯す以前には、すべての可能な人間的完全さを持っていました。人間の理想は、実行上、この最初の条件に戻ること、その起源の状態を回復することであります。
今日の神学者たちは、起源の義に関する楽園的表象を、もはや、多くの奇跡的賜物を伴う表象としては、認めないようです。ただし、人類は、起源以来、超自然的目的を持って創造されたこと。起源以来、恩寵の秩序に属する「超自然的歴史」の中へ入れられたこと。そして、人類は、自由選択の能力を持ったとき、その最初のメンバー達において、すべての罪人の場合と同様、この超自然的目的から逸脱したこと。これらの事項は、一般に承認されています。
教会は、一度も、教義上の問題として、スコラ神学の命題自体を教えたことはありません。原始の義に関する命題は、それ自体、アウグスティヌス的楽園表象の遺産です。これら表象によれば、人間は、最初の罪以前は、いわゆる外自然の賜物を受けたとされます。この賜物の中主要なものは、身体の不死性です。しかしながら、このことは、若し、原罪がなければ人間は死ななかったであろう、という意味ではなく、生物学的な死は、罪の罰ではなく、自然の成り行きとなります。ただ、この場合、死は、苦痛としてではなく、復活者の状態への自然の移行であったでしょう。このようなことは、他のすべてのいわゆる外自然の賜物についても言えると思われます。
むすび
私たちは、かなり気軽に(?)原罪という語を用いています。また、この「原罪」に基づいて、例えば、いわゆるリンボや異教徒の永遠の滅びなど様々な理論を立てたり、或いは、例えば、嬰児・胎児洗礼などの行動を実行しています。しかし、上に見てきたことからも伺えるように、「啓示された真理」としての原罪は、必ずしも誰でもが容易に納得できるほど明瞭ではありません。従って、そこからの「帰結」を無批判に受け入れて良いかどうか些か疑問なしとはしません。確かに、「不可謬の権限」を発動して人々に聖なる従順を実践する機会を提供するのは、それなりに無意味ではありませんが、しかし、関連学問の成果を総動員して、出来得る限り、原罪の理解を明確に深めていくことは、長期的に見れば、個人にとってばかりでなく、信仰共同体、つまり教会全体にとっても益するところは僅少ではないと思われます。
「完」(石脇慶總)
宗教における正常と異常−−思索神学の観点より−−
序
小論で取り上げようとするのは、個々の新・新宗教に関する問題ではない。具体的な事実を確定するのは、思索神学の守備範囲外の問題だからである。思索神学の任務は、確定された神学的事実に対して、「信仰に導かれた理性」の検討を加え、これら事実の根拠をできるだけ明らかにすることである。このことは、宗教一般に関する事実についても当てはまるだろう。
以下では、イエスの「種まきの譬え話」(マルコ4:1-20;マタイ13:1-9;ルカ8:4-8)を手掛かりに、宗教・信仰における正常と異常の問題を考える。しかし、この譬え話しを取り上げるのは、飽くまでも手掛かりとしてであって、この聖句について聖書学の立場から聖書釈義を行うのが小論の主旨ではない。
1 信仰とは
先ず、一般に信仰と呼ばれるものについて一言するが、よく知られているように信仰という言葉は、色々な意味で使われている。それ故、小論ではどんな意味で、信仰という言葉を使っているのかを先ず限定する必要があるが、あまり厳格に規定するとかえってわかり難くなるので、神から授けられる特別な生命というやや漠然とした意味で使うことにする。恵みとしての信仰である。また、小論は、キリスト教だけではなく、宗教一般について考えたいので、「神から授けられる」という表現は、極めて柔軟に理解する。つまり、絶対超越神を立てない場合にも適切な修正を施した上で、恵みとしての信仰を対象とする。
さて、イエスの譬え話に戻ると、この譬え話によれば、信仰とは、天父が私たち一人一人に与えてくださる新しい生命の種子であると考えることができよう。次に、この種子は、予め決められた特定の場所に播かれるのではなく、いわば、至る所に無造作に播かれているようである。ここから直ちに真の信仰は、カトリック教会の外にもある、と結論するのは早すぎるとしても、その可能性を否定するものではないといってもよいだろう。たまたま教会の垣根の外に落ちる種もあるかも知れない。現代の宗教・信仰を考えるとき、これは大切な点であろう。
譬え話のもっと重要な点は、天父の手を離れたとき、同じ種子(正しい信仰)であっても、受け取る側の条件に決定的に左右されると言う事実である。つまり荒れ地に落ちた場合と、豊かな土地に落ちた場合に違いのあることが述べられている。ここに神の恩寵の秘義がある。即ち、恩寵は、人間の側からの条件を一切前提としないで、一方的に無償で与えられると同時に、人間の側からの努力、成長をも効果的に許容する。この二つの互いに相反する事実がどの様に調和されるのか、大きな問題である。しかし、今はこの問題は、省略に従わざるをえない。とにかく、ここでは、恩寵の絶対的無償性は、一応括弧に入れておくことにする。
さて、私たちは、この信仰をただ単に知識として頭で受け取るだけでなく、人間全体で受け取る。そして、人間全体とは、今ここにいるこの私という孤立した個体を指すだけでなく、誕生の始めから、歴史、文化、社会など様々な要因を経て、今ここにいわば集積している複雑な複合体全体を指すのである。つまり少々大げさに言えば、私という個体は、今までの宇宙の歩みの一つの結晶として今、ここにいるのである。信仰は、この様な複合体のなかに播かれ、徐々に成長していくのであるが、その過程で、正・負様々の影響を蒙らないではいられない。この事実を考えると、私たちの信仰それだけを私から切り離して、抽象的に正統だとか異端だとか、観念的に論じるのは、どれほど不毛であるかが分かるだ
ろう。不毛であるばかりか、しばしば、誤った信仰理解を持つことになりかねない。
言い換えれば、私たちの信仰は、人間の本能の中に深く根を下ろしているものであるから、歪んだ本能からは、正しい信仰の成長は、奇跡でもないかぎり(奇跡は希ではない)、期待できない。何らかの仕方で、例えば性的な次元で、或いは愛情の面で、本能が傷ついている場合には、正しい信仰は、成長し難い。この様なとき、人は益々信仰に頼りがちである。家庭が旨く行かない、精神的、心理的難問を抱え込んでいるとき、宗教や信仰に頼る。そのことは、基本的には正しい。しかし、宗教や信仰は、これらの問題を直ちに自動的に解決する代替的万能薬ではない。人間は、信仰に頼ると同時に、応分の努力を自分でしなければならない。この様な自助の努力をしっかりと支えてくれるのが信仰であるはずである。だから、信仰だけに頼って自分の努力を放棄するのでなく、先ず、本能を癒す努
力をしなければならない。信仰に頼るという口実で、結果的に、人間としてなすべき努力を怠る場合が余りにも多く見られる。
ここで、正常と異常と言う言葉について一言触れておく必要があろう。種子が受け容れられるには、二つの場合がある。一つは、種子が播かれてもいないのに、播かれていると錯覚するか、或いは、正しい種子でもないものを本物の種子と見誤る場合である。実際には何もない場合を「幻想」、見誤る場合を「錯覚」と呼ぶことにする。もう一つの場合は、正しい種子が播かれたときである。これを「真実」と呼んでおく。「幻想」、「錯覚」、「真実」の区別は、理論的にははっきりしているが、実際には、幻想なのか、錯覚なのか、或いは、真実なのか、最初からだれでもが納得できる仕方で、決めることは非常に難しい。
この解決のために、ここで信仰を持ち出して信仰は「真実」、そうでない場合は、幻想か錯覚だと決めつけるのは、堂々巡りとなるだけで問題の解決とはならない。従って、それぞれの場合を丹念に検証して、結果的に決める他はない。
さて、理屈の上では、真実の場合は、「正常」、幻想や錯覚の場合は、「異常」と決めればいいわけだが、宗教・信仰に関しては、実際上その様に簡単には行かない。宗教・信仰が目指しているのは、客観的・科学的真理の探究だけではなく、むしろ、主体的な救い、幸せの実現が主旨である限り、偶発的ではあるが、真実が救いの妨げとなったり、逆に幻想によって人が幸せになると言うことが全くありえないことではない。それ故、もう少し別の観点から正常、異常を考えなければならない。その場合も、理論的に正常、異常を断定するのは簡単であるとしても、実際に具体的なケースで、正常・異常の線引きをすることは、それほど容易ではない。小論で言う正常、異常は、白・黒のように判然と分けられ
るのではなく、或る目安を起点に相対的な位置で決まるものである。従って、限りなく正常に近いか、限りなく異常に近い、つまりだれでも百パーセント正常、百パーセント異常と言うことはないと言った方が正確であろう。例えば、「人間および社会の全体的な完成」と言う、幾分抽象的な目標を目安とすると、この完成に近ければ近いほど、正常であり、逆は異常である、と言うことになろう。この際、完成は、全体的でなければならない。つまり、体と霊魂、社会環境、過去現在未来、全体の完成が考えられねばならない。
以上の意味では、天父の播かれる種子は、そのものとしては、すべて真実であり、正常である。しかし、受け取る吾々の側から異常な結果が発生する。しかも、幻想若しくは錯覚だけが異常なのではなく、真実の場合にも異常があり得る。また、逆に、幻想・錯覚であっても、もし、上の目安に近づけるなら、正常ということができよう。事実この様な場合が多いことも現実である。人間は、幻想によっても完成され得るからである。このことは、逆に真実が人間を目安から遠ざける可能性のあることをも示唆するものである。
2 信仰と理性(神学)
一般に、信仰と理性は、矛盾するものではないが、信仰は、理性を越える。或いは、もっと広くいえば、信仰は、理性の次元とは違った次元、たとえば感性・意志をも含む非理性の次元に属する。このことは、内容を抜きにして構造だけをとり上げれば、あらゆる宗教にほぼ妥当する。それ故、信仰は、最終的には、分かった、知った、と言えないものであって、分からないまま、知らないままに、受け容れるか、拒むかのどちらかでしかあり得ない。信仰を論証することは、原理的に不可能である。論証され、理解されたものは、信仰(の対象)ではなく知識である。だから、一般に、現実の現象として、或る信仰が、
正常であるか、異常であるか、正しいか、誤っているかなどと論議することは不可能であり、不毛である。論議が可能なのは、理性の領域においてだけである。「鰯の頭が神である」と信じるのが正か偽か、それ自体では意味の無い論議である。それ故、既成宗教が無条件に正しく、新興宗教が無条件に間違っている、と言うような議論も、「信仰告白」ではあり得ても、学問的には無意味である。
これに対して、理性は、少なくとも原理的には、万人に共通の能力である。理性の場では、論証が可能であるばかりではなく、論証されたものだけを受け容れなければならない。
感性、人情、権威などは、理性の根拠であってはならない。但し、これらは、論証の補助手段として用いることは許される。ところで、神学(教学・宗学)は、学である限りにおいて、理性の領域に属するものである。従って、神学は、正しく論証されたものだけを受け容れ、論証されないものは、拒絶するか、他の次元に譲らなければならない。
それでは、宗教や信仰については、一切、客観的な論議はできないのであろうか。ここで信仰への導入という考えを持ち出す必要がある。
3 信仰と信仰への導入
上述のように、信仰と理性は、次元が異なるが、同一の人間の内にあるものだから勿論互いに無関係に孤立しているのではなく、密接に関わり合っているし、また、それ故、互いに深い影響を及ぼしあっている。従って、どのような宗教についても、その信仰そのものの正常・異常を論じるのは、事実として無意味であるが、信仰と理性のいわば境界領域については、ある程度の議論は、可能である。境界領域という言い方は、少し漠然としているが、信仰も理性も同一の人間主体に関わるものであるから、或ることを信じるのは蓋然性がある、少なくとも理性に矛盾するものではないことを論理的に納得することができる、若しくはできない。この様な信仰に間接的に関わる、いわば信仰の裾野とでも言うべ
き領域を境界領域と呼ぶ。そしてこの領域は、かなり広範である。例えば、アブラハムが、イサクを生贄としてヤハウェに献げるのがヤハウェの御旨だと信じたとき、その信仰の正否を客観的に論じても意味はないが、実際にイサクを殺そうとしたことが客観的に妥当であったかどうかは、議論の対象となり得る。人を解脱させてやるためには、一刻も早くこの世から解放することだと信じるのは、問題ないとして、その信仰を具体的な現実の世界で実現させるのは、全く別の問題である。例えば、人を救うためにサリンを散布するのは、その正否を大いに論じなければならない。そして、その結論から、信仰が異常であると間接的に判断するのは、当然のことであろう。仮にこのような境界領域を「信仰への導入」
と言い換えれば、この導入に関しては、客観的な正・否の判断が可能であるし、それ故、そのように判断しなければならない。この観点から或る宗教・信仰を識別するのは、絶対的ではないにしても、非常に妥当である。それ故、宗教、信仰における正常と異常について論じることに意味があるのは、この信仰への導入の領域においてである。例えば、カトリックの信仰と或る新・新宗教の信仰と、どちらが正しいか、と言う問は、無意味、不毛であり、結局は水掛け論に終わる。しかし、カトリックの信仰に基づく具体的生活(信仰への導入)とこの新・新宗教の信仰に基づく具体的生活を比べることには意味がある。だれが見ても明らかな基準に従って、判断することが可能だからである。勿論、この判断を受け容れるかどうかは、別の問題である。だから、この導入の領域に関しては大いに議論し、対話を行わねばならない。
現実の問題として吾々に密接な関わりのあるのは、実は、この信仰への導入の領域である。自らの体験を振り返ってみても、具体的な信仰生活は、三位一体とか、聖マリアの処女性とか、教皇の首位権などを巡って営まれているというよりも、コンタツとか、メダイとか、お水とか、南無阿弥陀仏とかの感覚に触れる物を通して安心立命を求めている。臨終の時には、神学大全やお経の講義よりも愛する人に手を握られて帰天したいというのが大方の願望であろう。実は、現代の宗教の問題は、この信仰への導入の領域の問題であって、既に述べたように、この領域では、理性の介入が可能であり、また、介入すべきである。
4 信仰と宗教
一般に宗教と信仰とは、あまり区別しないで互換的に用いられているが、厳密には、分離はできないが、区別することはでき、また区別しなければならない。これは、偽りの宗教だけでなく、正しいと信じている宗教についても言える。正しい誠実な宗教は、正しい信仰を生きているはずであるから、敢えて信仰と宗教を区別するのは、妥当ではないようだが、少なくとも両者は、同一ではなく、区別は、可能である。ここで、宗教とは、信仰若しくは、信仰体験を中核に、いわばその周りに心理的、社会的、文化的システム、組織などを包含するものである。従って、宗教には、信仰と同質の要因と異質の要因とが含まれていることになる。これらの要因は互いに深く絡み合っているから、単純に、前者を宗教の本質、後者を偶有と割り切るわけには行かない。異質な要因に注目するならば、宗教は、時に、信仰と対立するだけでなく、信仰を阻害することもある。確かに、システムや制度や組織は、本質的に悪ではない。むしろ、信仰を支え、育てる役割がある。荘大な大聖堂、整然としたヒエラルキア、荘厳な典礼、などが吾々の信仰を強め、深めるのは言うまでもない。しかし、同時に、制度や組織は、それ自身の論理を持っている。つまり、それ自身極めて必要である組織の自己保存のために、信仰を犠牲にすることもあり得る。イエスは、律法は人間のためで、人間は律法のためではない、との趣旨のことを言われたが、まさにこの現実を指して居られるのではないだろうか。一般に、宗教が制度として肥大化すればするほど、この問題が深刻になることを直視しなければならない。
5 宗教と憑依現象
最後に、宗教と憑依現象に関して、触れておく。宗教学では、憑依現象について様々な観点から、「定義」が試みられている。ここでは、厳密な定義を離れて、非常に広い柔軟な意味で受け取りたい。そして、思索神学の立場から、この問題について或る程度の解明を試みよう。私見では、最も広い意味での憑依現象の、少なくともその素地は、人間本性そのものの内にある。即ち、人間は、孤立独行の存在ではなく、様々な次元で、様々な仕方で、多くの他者から影響されながら生きている。つまり、内外からの刺激に絶えず反応しながら生きている。通常これらの他者・刺激は、即物的に直接に影響を及ぼすのではなく、人間の知覚能力(知性・感性・意志)を介して働きかける。或る場合には、意志の自由を多少とも拘束するまでに、或る場合には、意志の自由を活性化、高揚する仕方で、影響を及ぼす。前者の例は、強迫観念、後者の例は、聖霊の賜物である。いずれにしても両者は、他からの影響という点で通底している。宗教学で言う憑依現象は、前者に近い。しかし、後者の場合も、現象だけを見れば、憑依と言っても大きな間違いではないだろう。
流行のマインドコントロールも、この意味で憑依現象の一種といってよいだろう。極論すれば、人間の本性は、上述のような広い意味での憑依なしには、生きていけないのであるから、努めて聖霊による憑依を求めるべきである。聖霊による憑依だけが、人間の自由を低減しないばかりか、かえって、人間の自由を高め、完成する。ちなみに、キリスト者とは、本来、聖霊に憑かれた者であると言えよう。
とにかく、上述の意味での憑依現象は、いわば通常の現象であるが、それが、誰か(個人、集団、教団、教会など)によって意図的に操作される場合、問題は一層深刻となる。
但し、操作は必ずしも悪いことではない。その善悪は、別の基準から判断しなければならない。例えば、イグナチオの「霊操」は、非常に強度に操作された憑依現象を目指しているとも言えそうだが、原則として正しい修行である。しかし、大抵の場合、操作は、容易に逸脱する危険がある。しかも、善意による、神のために、宗団のためにとの大義の下に、結果的に逸脱する危険がある。ここから、所謂、導師、指導者が必要であることが分かる。
指導者とは、管理したり、引率したり、支配する人ではなく、正しい目的、方向を指し示し、必要ならば軌道修正を助言する人である。現在のカトリック教会の信仰生活に欠けていると思われるものである。蛇足を加えるなら、指導者は、若し、いずれかを選ばねばならないのなら、聖人よりも、賢明慎重な判断力を持つ人の方が望ましい。
6 むすび;宗教への対応に関する若干の考察
1)バチカン第二公会議以降、カトリック教会は、他宗教に対して寛大な態度を採り、積極的に対話を進めているが、原則として諸宗教との対話は、相互信頼の上に立って行われるべきである。場合によっては、互いに自己改革を行わねばならないが、そのような場合も、相互の尊敬、愛、信頼関係は、継続しなければならない。即ち、この様な自己改革のために、互いの宗教間の関係・信徒間の人間関係が崩壊しないような状況の下に対話がなされねばならない。目には目を、歯には歯をと言ったような好戦的な態度は、厳に慎まねばならないであろう。
2)以上のことが成り立つには、現実の問題として、すべての宗教には、いわゆる「阿片」としての要因が含まれていることを認めた上で、それにもかかわらず、全体として、正しく、誠実な宗教と、そうでない偽の宗教があることを認めねばならない。偽の宗教とは、そのメンバーが不徳であるだけでなく(全ての宗教には不徳な人がいる)或る宗教そのものが人間の全体的幸せではなく、何らかの個別的な善(金銭、権力、名声等)を目的とし、若しくは一部の人々の利益のために活動している宗教、人々の誠意を悪用、もしくは、曲用しているのではないかと疑われる宗教、宗教の自由、良心の自由、人間の自由などを十分に尊重しないで、個人の意志に反して強制的に入信させる宗教、絶えず自己を反省し、自己批判・自己改革に努めない宗教、などである。ちなみに、多くの新宗教、新・新宗教の教えには、例えば経典解釈に関しても、学問的な弱点が多々見られる。対話を行うには、この様な問題点を先ず念頭に置かねばならない。本当の意味での宗教対話は、この様な偽の宗教との間では原則的に成立しない。それは、宗教の本質そのものを破壊するからである。それゆえ、このような偽の宗教とは、最初から、対話に入るべきではないのは言うまでもない。
3)一般の信徒にとって、具体的に、或る宗教が、対話に値する宗教であるかどうかを見定めるのは、その宗教についての可なりの専門的な知識が必要であるから、事実上至難である。従って、対話は、誰にも無条件に勧めるべきではない。特に個人的な恣意からなすべきではない。カトリック教会では、この様な対話の実践に最終的な責任を負うのは、教区においては、その教区の司教(教区長)である。しかし通常の場合、司教が、現場の責任ある人々に具体的な処置を委託し、また、人びとの勧告にしたがって、一般的な指針を示すのは、正常な方法である。但し、このことは、責任者や指針に盲従しなければならないというのではなく、最終的にはそれらに信頼しながら、積極的、能動的に対話に関わっていくべきである。
4)他宗教に対する積極的な対策としては、ただ次の一点に尽きるであろう。即ち、イエスの福音を誠心誠意生きることである。何故なら、人間は、信仰なしに生きていけないからである。福音を生きるとは、単に教会の規則を守ると言うことだけではなく、むしろ、福音の精神に生かされた人間共同体を作り上げることである。特に二点に注意。先ず、この共同体に何かを求めるのでなく、逆に何かを捧げるために積極的に参加すること。次に、捧げる場合、受け取る人(々)が本当に願望しているものだけを捧げること、である。押し付けられた善は、悪となる。
5)最後に吾々は、あらゆる所に働いて居られる聖霊の全能の力に深い信仰と信頼を常に抱くべきである。聖霊は、すべての人の人間としての自由を尊重しながら、最終的には、ご自分の愛の計画を成就される。この愛に祈りをもって協力する事こそすべてのキリスト者に課せられた名誉ある召命であろう。(石脇慶總)
(完)
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ペルソナ論
以下に述べるペルソナの概念を理解するには、先ず「十範疇」と言う概念を明らかにしなければならない。但し、この問題は、大きいので、別の補論「十範疇について」に委ねる。
関係の範疇の特殊性
十範疇には一つの実体範疇と九の偶有範疇があるが、そのうち、第三の偶有「関係」には、特殊の性格がある。即ち、およそ、偶有には、二つの要因がある。実体に「内在する」要因(1)と、実体を「規定する」要因(2)である。(1)の要因によって、或る偶有は、実在し、(2)の要因によってその偶有が何であるかが示される。つまり、偶有とは、本来、実体の規定要因である。それ故、両要因とも、実体との関わりを有することが、不可欠である。ところが、偶有「関係」の場合は、確かに二要因があるが、(1)は、他の偶有と共通であるとしても、(2)は、実体との直接の関わりはない。正に、「他者に対する」と言うことがいわば「本領」である偶有であって、実体を規定する偶有ではないからである。このことは、「関係」だけは、実体と関わりなしに、その「本領」を考えることが、少なくとも矛盾ではないことを示すものである。つまり、偶有「関係」が内在するための「土台」は、元々、関係が、この土台(実体)を規定するものではないから、この土台が、全くなくとも(神的ペルソナの場合のように)、或いは、仮に直接の「土台」が実体ではなく、他の偶有であっても、論理矛盾ではないのである。こうして、吾々は、「偶有の偶有」という考えを導入することができる。即ち、一般に偶有「関係」は、実体の偶有ではあるが、或る場合には、他の偶有(活動)の偶有であることも可能である。そして、「ペルソナ」が正にこのような「偶有の偶有」の一つの例である。
自存性
自存性とは、存在論的原理で、これによって或る個体的な知性本性が、実在活動を行使する状態におかれるものとなり、ペルソナと言われる。この状態は、存在論的には、所謂範疇を超える関係・対他開自(他者に対して自己を開く)であり、対他開自したペルソナが実在させられる、生かされる状態である。吾々は、この関係を「超越的関係」と呼ぶが、それは、この対他開自を失えば、ペルソナは、消滅するに至るからである。つまり、関係範疇が本質の次元に属するのに対して、対他開自は、実在活動の次元に属するのである。
固有のペルソナ性の成立
1)基体と個別的本性の区別
ペルソナとは、理性的本性の基体である。実在する具体的有であり、行為の主体であり、付帯する有を受容する主体、属性が付与される主体である。
ペルソナに付与できるすべてのものの中で、「本性」だけが、「その中へ」と言う在り方を帰属させることができる。即ち、本性は、「基体」を表示するのに対して、本性以外の他のものは、「所属するもの」を表示する。換言すれば、本性は、基体を構成することができるのである。
しかしながら、本性なら何でも基体を構成するとは限らない。基体は、実在的なものであるから、本性は、実在の能力を有する限りにおいてのみ、即ち、自存性への能力を有する限りにおいてのみ、基体を構成するのである。
普遍的なものは、そのままでは、自存する力がない。従って、本性は、先ず、本質の次元において、「種差」によって限定される必要がある。即ち、限定された本質、つまり種的本質でなければならない。
しかし、物質的本性の本質は、個体化によって限定されなければ、依然として普遍的である。個体化によってとは、偶有によってと言うことで、偶有は、本質を変えない(同一種に属するすべての個体の本質は同一)が、本質を限定する。つまり、本質をこの表示された質料の限界内に閉じこめる。それ故、本質にとって外在的ではない偶有は、自分で本質を完成し、規定する。その結果、この本質は、この個体の本質となる。それ故、若し、個体が定義され得るなら(しかし、定義され得ない。何故なら、個体化の原理は、質料に根ざしているからで、質料は、存在論的完成と可知性との原理ではなく、むしろ逆に、本質の完成を制限する原理である。従って、特定化された本質における以上に、可知性と−−従って、定義可能性−−が個体にあるわけではない。)、個体の定義に際して、個体化の原理が作動すると考えねばならない。
それ故、問題は、本質の次元でこの様に最終的に限定された本性は、ペルソナ、つまり、基体の十分な構成因であるか、自存するためには、更に完成される必要があるのか、と言うことである。
個体的本性が基体と同一視されるには、以上で十分であるように思われる(cf.S.Th.,
I, q.3,a.3)
理由:自存者は、実有と本質とから構成される。個体的本性は、本質として完成されている。それ故、実有を受け取り、「実有を持つもの」となるのを妨げるものがあるだろうか。
つまり、「基体」である事を妨げるものがあろうか。
しかしながら、本性が基体と全く同一であるのは、不可能であると思われる。その根拠は;
1)位格的結合の教義の故に。この教義によれば、キリストの人間本性は、実在である。しか
し、基体、即ち、ペルソナを構成しない。しかし、このキリストの人間本性は、先在する御言のペルソナから受揚される。しかるに、個体的本性が受揚され、ペルソナが受揚されないことができるには、両者が全く同一でないことが必要である。
2)受肉の神学の故に。基体は全体である。人間本性が、全体である御言に受揚されるから、必然的に、結果として、キリストの人間本性は、部分としての関係に立たねばならない。若し仮に、受揚されなかったとしたら、全体であり、基体であったはずである。位格的結合は、全面的に実在的であるから、部分としての本性と、全体としての本性との間に、如何なる存在論的相違もないと言うことはあり得ないように見える。この相違は、本性そのものの中にはない。−−キリストは、完全に吾々と同一実体的であるから、同一の人間本性に属する−−。それ故、相違は、個体的本性を自存せしめるところの何かの中にあり、この何かは、自存性の原理と呼ばれ得る。
3)形而上学の故に。(cf.S.Th., Quodl., II, a.4)基体は、多くのものを包含する全体である。その中には、個体的本性も含まれる。それ自体において考えられた個体的本性は、この全体の部分である。そのようなものとして、個体的本性は、全体の統一の原理ではあり得ない。しかし、この様な統一の原理は、全面的に区別された或主体ではない(例えば、白人と音楽家との間の統一の原理は、存在し、白人であり、そして音楽家であるこの人間であるのと同じである)。何故なら、本性は、上述のように、基体を構成するからである。しかし、そのためには、全体の統一原理があり、何らかの仕方で完成される必要があるように思われる。それ故、個体的本性と基体とは、全く同一ではない。
若し以上の如くであれば、この存在論的補完要因によってペルソナ性が成立する。即ち、個体的本性は、「ペルソナ化される」。しかし、この補完要因、つまり、「自存性の原理」の正体は何であろうか。
自存性の原理について
具体的有である実在的全体を構成する様々な要素の中、個体的本性こそ主要な要素である。
即ち、この本性が、全体の中に自存し、この全体を構成するのに対して、他のすべての要素は、この本性を媒介に、全体から受け容れられるのである。しかしながら、自存するものとして、この本性は、それ自らによって、形相に他ならない限りにおいて、或新しいもの、即ち、主体であるという在り方を持つのである。当面の問題である自存性の原理は、この本性を主体たらしめるところのものである。(ここで、主体とすると言うことは、丁度、白色性が壁を白くするように、形相原因として理解すべきで、動力原因として捉えるべきではない)。
自存性の原理ではないもの:
1.実有自体ではない。 或人々は、実有自体が自存性を本性に付与する、その結果、この本性は、実有を受け取るという事だけで、「存在するもの」つまり、主体となる、と考える。
確かに、自存性は、実有の働きの次元に属する。しかし、実有自体に自存性は形相的な仕方で成り立つと主張するのは、説明しなければならないことによって説明するという誤りである。何故なら、自存するという事実から、有は、実有の働きを持つのであった、その逆ではないからである。更に、この説明は、事実上、実有の働きと本質との実在的区別を破壊し、その結果、事物において、実有の働きが、有自体の構成に介入することになってしまうだろう。
2.新たな規定では、ない。 若し仮に、自存性が、普遍的本性に対する個別化のように、本質の新たな、そして最後の規定であったなら、それは、依然として、可知性の次元(本質の次元)に属することとなるだろう。こうして、被造有が定義されるなら、この有の定義の要素となってしまうだろう。「実行された」自存性は、「認識の領域の外」にあるから、本質の次元と、従って、定義との次元の外にあるとも言うべきである。最終段階にまで規定されても、本質は、依然として、自存することはできない。
3.単なる否定ではない。 スコトゥスによれば、自存性とは、他者の中に自存することの否定に他ならない。しかし、このことは、何の説明にもならない。第一に、自存するとは、積極的なことであるからであり、次いで、この他者が自存するための理由を説明しなければならないからであり、最後に、この説をキリストの秘義に当てはめれば、次のようなことになってしまうだろうからである。即ち、固有の自存性を持たないことは、キリストの人性にとって、単なる否定の否定を意味するに過ぎず、このことは、自存する理拠に関して、キリストの人間性と吾々の人間性との間に如何なる実在的相違をも立てないこととなる。
4.自存するものに外在的な何かではない。 自存するとは、内在的完全性だからである。
自存するものは、他者に対して様々な関係に立つ。独立である。しかし、自存するものは、これらすべての関係を自存するという事実から持つのであって、その逆ではない。何故なら、自存しないものは、如何なる関係も持たないからである。それ故、吾々は、自存性について法的理論をなんでも受け容れる訳には行かない。
自存性の原理の正体
以上のことから次のように言うべきである。即ち、自存性の原理は、積極的な何かであり、自存するものに内在的であり、実有の働きから区別されたものでなければならない。しかし、実体を実有に対して直接に秩序づけている限りにおいて、実在の働きの秩序に属さねばならない(何故なら、先ず、実有の働きの主体でなければ、主体とはならないからである)。このことから、自存性の原理は、実体的、偶有的を問わず、規定(つまり形相)ではない。即ち、個別的本性をその固有の次元内で完成するはずの規定ではない。自存するものは、個別的本性自体であり、吾々が認識するのと全く同一の本性である。
それ故、この様な原理は、本性の、つまり実体の最終の補足物以外ではあり得ない。この最終の補足物は、可知的規定と定義との分野におけるのではなく、実在の働きの分野においてである。この様に補完された個別的本性は、そのすべての構成要素を伴って、実在的となり、実在の働きの受容者となる。次いで、この本性に付加されたすべての偶有の受容者、最後に、この本性から惹起されるべき行動の受容者となる。
この補足物は、様態としてしか捉えることはできない。様態は、主体から実在的に区別される偶有的形相ではなく、主体がこの様な規定された状態において持つところの補足物である。主体から実在的に区別されている。しかし、事物が事物から、また、部分が部分から区別されているようにではない。この本性は、修飾された自分自身から区別されている。ここで言う様態は、本性の最終的到達点のようなもので、これによって、本性は、主体と事物との条件に移行し、その結果、この様に到達した本性は、主体となり、他の(実在の働きの)主体の中に存在することを禁じられるのである。
「丁度、実体が、本質にとって、「もの」であって、この「もの」には、吾々が婉曲に自らによる実有の働きesse
per seと呼んでいる様な実在の様態modus essendiが帰せられるべきであるが、これは、偶有が主体の中にあるように、他のものの中にあるのではない。正にその様に、実体は、第一実体にとって、「もの」であって、この「もの」には、吾々が婉曲にesse
per se separatimと呼んでいるような実在の様態が帰せられ、その結果、或ものの中におけるように、他のものの中に存在することを実体に禁じられるべきものである。」(Caj.
in IIIam Q.4, a.2, n.VIII).
この限界付けによって、第一実体、つまり位格が成立するが、この限界付けから実体は2点を持つことになる。
1.積極的に; 実在と活動との主体となること(これに対して、偶有は、決して主体とはならない。これが、自存性の固有要因である自らによる実有と偶有に適合される内在する働き[実有]との間の相違点である)。
2.否定的に; 実在することに関して、他の主体との共有化を排除すること。従って、他の主体との存在論的合一を排除すること。
この自存性の原理の産出
自存性のこの終点は、ものでもなく、形相ですらなく、単なるものの様態であるから、区別された仕方で起因されるのではない。ものが、作動的活動によって産出されると言う事実から、このものは、この様な仕方で、限定づけられる。即ち、変容されたものとしてだけ起因される。何故なら、起因されるとは、ものの中に措定されることだからである。
それ故、無条件の力で、神は、実体を自存させないようにすることができる、との考えには、全く同意することはできない。何故なら、或る有を造ることとこの有を自存させることとは全く同じ事だからである。受肉の秘義においてなされたことは、自存しない本性を産出させたことではなく、御言の自存性へ受揚することで、特別に、かつ、自己自身において自存することを抑止したことである。
自存性、ペルソナ性、ペルソナ
自存するという事実そのものからして、知的本性に属するすべての個体は、ペルソナである。
それ故、厳密に捉えられたペルソナ性は、知的本性にとって、自存性の原理である。共同の仕方で、この尊厳さは捉えられるが、この尊厳さを知的本性の中に自存している主体が、知性と意志を、従って、意識、自己支配、などを持つという事実からして、所有するのである。これらすべてをその本性から持つ。しかし、ペルソナ、即ち、主体は、これらをこの本性を持つのと同じように持つのである。
自存性は、本性の規定ではなく、本性が、自己のすべての完全性を伴いながら、実在するものたらしめるものであるとの事実から、固有のペルソナ性或いは他のペルソナ性を持つことから変容するものではないことは明らかである。但し、この本性が属する或ペルソナの中に自存する限りである。
1)経験されるのは、実在者existentsである。この実在者から本質essences、つまり「知られ得る構造」が抽象される。これら本質は、吾々の精神内では、普遍性の状態であるが、事物の中には実在的に存在する。この場合は、個別性の状態で、つまり個別的本性としてである。本質は、quo原理である。
2)本質は、実在活動に対して可能態である。本質は、特定化の次元では現実態であるが、実行の次元では可能態である。本質と実在活動との関係は、知性と知性活動、意志と意志活動の関係に類比する。
3)実在活動についての直観がある。この直観の力で、実有の働きが、実行された現実態として捉えられる。実在活動は、受け取られるだけでなく、実行される。受け取られた実在活動と実行された実在活動との区別が、自存性の理解にとって重要である。実在活動を実行するためには、単に本質だけでなく、基体、若しくは、ペルソナである必要がある。換言すれば、実在活動を実行するためには、本質は、自存性によって補完され、基体となる必要がある。
以上について詳しくは、MARITAIN, J., Oe.C.(『全集』)IV巻, 1040-1061ページ参照
(石脇慶總)
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神学に関する私的序説
はじめに:
「学知scientia」としての神学については、中世以来、論議され尽くされてきた。今更それに屋上屋を架すの愚を承知の上で、敢えて小論を物する所以は、恩師、スイス・フリブール大学神学部教授、ドミニコ会士Jean-Herve
Nicolas神父の神学思想を幾分でもわが国に紹介したいがために他ならない。
第一章、「学知」としての神学
§1.「学知」とは何か。
「神学」という言葉は、様々な意味で用いられている。このことは、「神学」の豊かさと共に、一面、曖昧さをも呈している。こゝでは、複数の接近法を認めた上で、スコラ学の存在論的観点から考えて行きたい。
先ず、神学が、古典的な意味での「学知」であることを明らかにする。従って、多少一方的に、「学知」とは、「根拠に基づく確実な知識である」との命題から出発する。これには、二点を含む。一つは、「学知」の一般的特徴で、それは、確実性である。確実でない知識は、学知ではない。他は、この確実性の根拠、つまりなぜ確実かと言う理由である。それは、何かが、そうであって、それ以外では有り得ない原因を知ることから生じる。即ち、単に「現象」を知るだけでなく、その現象をいわば支えている
「存在」のあり方を知ることによって、得られる確実さである。
それでは、一般に知るとは、どういう事か。「存在するものens」は、「本質essentia」と「実在esse」の二つの側面から考えることが出来る。現実の世界に実在しているものは、「実在」と呼ばれる動態によっていわば「活性化」された「本質」(群)である。ちなみに、この様に現実に存在している個々のものを「主体」という。
さて、本質、即ち、規定のされ方(受け方)には、二通りの要因が考えられる。一つは、その主体が本来実在するに当たっての在り方、もう一つは、その主体が自己以外のものとの関連で内在的に規定されるところの存在の在り方である。
上述のことから、主体とは、「動態化された規定」と言うこともできる。そこで、「規定する」、「規定される」ということについて、若干述べておく。規定すると言うことが成り立つには、規定するものと規定されるものとが考えられねばならない。規定される側から見ると、規定されるとは、或る在り方を受け取ると同時に、多くの可能な在り方の中から或る一定の在り方に制約されることである。他方、純然たる可能性なるものは、実在し得ないものであるから、規定されると言うことは、或る意味で不完全の印であると共に、現実性という観点からは、一歩前進であり、その意味で、完全性を含むものである。即ち、規
定されると言うことは、一面で、存在の豊かさにつながるものである。
他方、規定するものの側からみれば、自らを含む何かを規定している在り方を他に与えることである。「現に規定しつつあり」という事態の他に、この事態を謂わば支えているもの、が考えらる。そこに様々な複合性、少なくとも、順序上の複合性が介入する。従って、「規定するもの」と言うよりは、「規定する原理」と言った方がより厳密である。なぜなら「もの」という場合、「規定(性)」を支えているものまで含めて考えられがちだからである。例えば、印鑑の本来の姿は、印であることで、それが象牙に彫ってあるか、木材に彫ってあるかなどは、印鑑に直接関係しない。従って、理屈を言えば、一切の材料がなくと
も印鑑であり得るはずである。これは、テレビやコンピューターの文字を考えれば、よく解る。つまり「しるし」を支えているのは、物体ではなく、「力」・「エネルギー」なのである。物体は、この力、エネルギーを結集するための媒介の役を果たしているに過ぎない。
それ故、「もの」と言うより「原理」と言った方がより適切なわけである。ところで、我々の経験の範囲においては、規定するものと規定されるものとは、常に相対的である。つまり在るものは、他を規定すると同時に、他から規定を受けるのである。この場合、「他」とは、必ずしもこの「在るもの」以外のものを意味しない。自己自身を規定する場合、規定される自己は、規定する自己に対して「他」と見なされる。更に、規定を受ける場合も、全くの受動ではなく、受け入れる可能性を前提としている。少なくとも、一種の選択もしくは拒否の働きが認められる。
さて、本題に戻って、「知る」ということそのものについて考えよう。それを一言で言えば、自己同一性を保有しながら「他」に「なる」こと、「他である」ことである。では、それは、どう言うことか。
i.「知る」が成り立つための条件
第一に、「知る」は、二つの主体間の関係であり、交流である。次に、「知る」は、内在的行為である。即ち、主体の「外」に新しく何かを産み出したり、或いは「外」のものを完成することを目指す行為ではない。かえって、主体そのものがこの行為によって完成されるのである。従って、行為の「終着点」は行為主体の内部に留まる。そこで、このような内在的行為がいかにして行為主体の外にある他の主体に到達し、それと現実的な交流を持つことが出来るかを説明しなければならない。
先ず、対他主体が規定され得る可能性とその度合いを認める必要がある。即ち、或る主体は、このことに関して非常に制約されている。特に空間的次元において制約されている。
その結果、この制約を越えて敢えて規定を強いれば、主体そのものが分解する恐れがある。別の主体は、この様な制約から多かれ少なかれ自由である。そして自由である程度に応じてこの規定の(能動的・受動的)事実を意識することが出来る。
次に規定されているもの(規定主体)と規定しているもの(規定原理)との分離の可能性が認められねばならない。これは究極的には、本質
modus essendi(essentia)と実在 actus essendi(esse)との分離の何らかの可能性を指すのであって、必ずしも、本質がそれのみで分離して実在し得るということを意味するものではないが、別の実在によって「現実化」され得ることを意味している。
第三に、規定を受ける能力がなければならない。これは、既に述べたように、純粋の受動性ではなく、或る意味では能動的な力、即ち能力であり、知るということに関しては、一般的に知性と呼ばれるが、人間の場合、その働きが、身体と密接に関連しており、従って、直観ではなく経過を踏んでしか進行できないところから、特に「理性ratio」と呼ばれる。理性は、人間本性から分離した一つの部分ではないが、本性がそのまま即理性なのではない。本性の一つの働きの源泉として理性は、本性から区別されたものである。しかしながら、理性はそのまま直ちに規定原理によって規定されるわけではない。知ることに対して可能な状態にある理性は、現実に知る状態に移行するために幾つかの過程を経なければならない。その中でも特に重要なのは、理性の抽象作用である。抽象作用は、文字どおりには、何かを抽出する働きであるが、一般には、これによって概念が現実から恣意的に切り離され、不毛のものとされるとの印象が強いので、透視作用visualisationと呼ぶ方が適切である。普通、抽象作用と言う語は、広い意味で用いられているが、ここでは、もっと狭義の意味で使用する。それは対象に含まれている或要因を注視の対象から外し、別の要因に積極的な関心を注ぐことに成り立つものである。
ii.「知る」と言うことそれ自体
では、「知る」と言う「活動」そのものを記述的に解明しよう。それは、例えば「私」と言う(認識)主体としての対他主体がどの様にして規定されるかを述べることである。仮に机の上に一個のリンゴがあるとする。先ず、私の五官・目、鼻、触覚などが、リンゴ自ら放射、或いは反射する物理的な働きかけを受けて、色や臭いや大きさなど印象を受け入れる。五官は、それぞれ或る程度独立しているから、このようにして得られた「印象」は、ばらばらの筈である。従って、これらの要素を再統合して、一個のリンゴの像に結集する主体内的な機能が感覚にあるはずである。とにかくこの機能によって、机上のリンゴは、
私の精神の「内」に物理的ではないが、表現的に現存することになる。このように現存するリンゴの像を感覚の次元での感覚的形象species
impressaと呼ぶ。この感覚的形象は、机上のリンゴが現実に五官に働きかけなくなった後も記憶作用によって一定時間保持され得る。この感覚的形象に対して私の能動知性intellectus
agensが積極的に働きかけ、その透視作用を適用し、必要に応じて感覚的形象に含まれている質料的要因を抑止し、非質料的要因に積極的に精力を集中して、いわばそれを浮き立たせ、「見えるようにする」。こうして透視作用の度合に応じて、あらゆるリンゴに共通する性質とか、属性とか、実体とか言うような机上のリンゴを現実に規定している本質要素が知性の次元でのspecies
impressaとして知性としての精神内に現存するようになる。これを感覚的形象と区別する意味で、知性的心像と呼んでおく。勿論、この知性的心像とリンゴを現実に規定している本質要因とは同一である。但し、人間の場合、ただ一度の行為ですべてを汲み尽くすことが出来ないので、本質要因と知性的心像は、即合同であると言う訳には行かない。多くの努力の積み重ねによって一歩一歩近づいて行く外はない。
とにかく、知性的心像の受容は、未だ「知る」ことではない。それは、いわば予備段階に過ぎない。透視作用によって、知性的心像を受け取った知性は、今度は、自らの「内的エネルーギー」とも言うべきものを発揮して、この知性的心像を現実化する。こうして、現実化されたものは、さきに述べた存在の説明に即して言えば、その本質に当たるものは、知的心像であり、実在に当たるものは、知性そのものの「活動」である。この様にして現実の世界に実在する本質が、知性の活動によって、精神の世界に実在し、知性を現実に規定するのである。これを精神の方から言えば、知性は、この知性的心像を媒介として自己同一性を保持したまま他の主体となり、これと共存する。この知性の活動によって現実化
された限りにおける知的心像がspecies expressaと呼ばれるものであり、或る意味で精神が産み出したものである。その意味で、これを能動的な意味での「概念conceptus」とも呼ぶことが出来よう。
これを要するに、単純に図式化して言えば、「知る」という行為・活動には、二つの要因・側面がある。一つは、対象を受けると共にそれによってより高い次元で対象を「産み出す」面であり、他は、知性本来の活動であり、生みだした概念を媒介として他の主体を「直観」し、「把握」してそれに「成る」、それで「ある」という面である。前者は、いわば後者を支える働きであり、不可欠ではあるが、「知る」と言う活動そのものは、後者であって、「知る」ということの本質を構成する。
最後に、上に述べたことから明らかなように、人間の認識は、単に、形象、もしくは、心像を受け取るということにあるのではなく、知性が積極的に「活動を起こす」ことにその本質がある。これは、「この机の上のもの(S)は、リンゴ(P)である(または、ない)」と言う形で、行われる。この様な断定が、「判断」である。即ち、人間の「知る」行為は、判断によって一応完結する。実際にはこの様な判断が積み重ねられて、主体のより完全な認識に導かれて行く。この様な過程を広義に、推論ratiocinatioと言う。
確実な知識
知識(認識)一般は、上述のごとく類型的、かつ追跡的に説明されるが、実際の認識は、当然、必ずしも理論通りに遂行されるとは限らない。従って、知識には、不安定な知識と、確実な知識とが有り得る。確実な知識とは、判断根拠の原因にまで遡って、或る主体が、現にある様であり、それ以外ではあり得ないことを知り、断定する場合に成立する。
このことは、二つの側面から考察できる。先ず、認識主体の側から。即ち、確実さというのは、精神の状態であり、その確実さの原因は、何よりも先ず、疑いのないこの状態を成り立たせている原因だから、それが明らかになることで、確実な知識が得られる。
i.原理への帰納。人間の場合、前述のように、知性の主要かつ最終的な行為は、判断であり、判断が本来の意味での「知る」を構成する。判断という行為によって、知性は、自己同一性を保持しながら、この判断が関わっている事物(対象の彼方の主体)の実在に到達する。
その際、知性は、この事物がこの様な性質である(もしくはない)こと、及び、自分がこの事物を認識していると言う事実とを同時に肯定するのである。
人間の知性、つまり理性にとって、この判断行為は、上述のように、いわゆる第二次行為actus
secundusである。従って、精神の第一次作用を前提としている。この作用は、対象受容apprehensioと呼ばれるもので、これによって、理性は、事物の中から、人間性とか、動物性とか、白さとか言うような認識された本質的要素を透視・抽出する。次いで、第二次行為によって、理性は、これらの要素の一つを他の主体に帰属させて、この要素をこの主体に措定する。即ち、この要素を通して、主体が主体として、つまり「在るもの"quod
est"」として、精神に現存するように、理性が働きかけるのである。こうして、同時に二つのことが肯定される。即ち、「この事物(対象の彼方の主体)が在る」、と「この事物は、
この様である」が肯定される。要するに、あらゆる判断行為において、存在と認識が実在的なものであることとが肯定される。同時に、精神は、事物が(しかじかの本質によって)在ると言うことと、精神自身がこの実在に到達していることとを断言するのである。
では、この様に断言する根拠は何であろうか。あらゆる肯定作用の中に含まれている存在に関する肯定について言えば、この根拠は、感覚的経験と、存在の第一原理の自明性とである。感覚的経験によって、理性は、事実的存在ens
realeにまで導かれて行く。又、第一原理とは、存在についての第一の、かつ基本的な肯定に外ならない。それゆえ、一般に、我々のすべての判断は、質料的には、感覚の自明性に、形相的には、第一原理の自明性に、その正しさの根拠を置いていると言える。
しかしながら、判断作用に於いては、対象の彼方の主体について、単にそれが「在る」、と言うだけではなく、更にそれが、この様である、と言うことも断定される。従って、なぜ、理性は、この様な述語をこの様な主体に帰属させることが出来るのか、と言うことを解明しなければならない。結論を言えば、帰属させることの自明性が明確になるからである。所で、この様な帰属の自明性には、二通りの可能性がある。一つは、直接的な自明性であり、他は、間接的な自明性である。
直接的な自明性とは、主体の定義そのものの中に述語が含まれている場合か、主体と述語との結び付きが必然性を帯びている場合である。この様な場合には、主体を精査することに依って、この述語をこの主体に帰属させねばならない必然さが明らかとなる。そして、第一原理の力に依って、この主体について、同時に、それが在ることと、それがその様であることとが肯定されるのである。
間接的な自明性では、主体の概念そのものの中には、帰属させなばならないとの必然性は現われない。従って、自明な原理に帰納させることに依ってしかこの必然性を明らかにすることはできない。その理由は、知性そのものの本性に基づくのではなく、人間理性の不完全さに由来する。もし人間理性以上に優れた知性があるとすれば、主体を知ることに依ってそれに含まれている関連をすべて一度に把握する筈である。
この様な帰納・還元は、厳密な意味での推論に依って行われる。この意味での推論は、知性の(対象把握、判断に継ぐ)第三次の行為で、主体と述語との間に隠れている関連を明らかにするものである。この場合、第三項の介入が必要であって、これと、主体と述語とがそれぞれ合致することで、これら両者の関連が明らかとなる。或る場合には、この合致の事実を明らかにするには、更に別の推論が必要となる。こうして多くの推論が要求されることになる。この様な作業を積み重ねることで、最終的にそれ自体自明な命題に帰納されるのである。このように結論を自明かつ必然的な諸原理、従って、真であり、原初的である原理に帰着させるところの推論のことを「証明」と言うのである。「学知」とは、この
様な証明に成り立つものである。即ち、証明された限りにおける多くの結論を認識することが「学知」なのである。
先に我々は、「対象の此方の主体」を内在主体と対他主体とに分けたが、これは飽くまでも唯一主体の二側面であり、事実上同一である。即ち、存在と知性(認識)は究極的には同一である。従って、存在の原理と認識の原理も究極的には同一である。だからこそ、根拠に基づく認識は、確実であると言われるのである。我々の言う証明とは、結局この様な原理の同一性を求めることに他ならない。
ii.「学知」の階層性 人間は、只一度で全てを余すところなく知り尽くすことは出来ない。結局、或る意味で、対象の彼方の主体を少しずつ分解して精神内に取り入れることになる。こうしてこの主体についての「対象」は、多元的となる。この様な複次元的な対象は、対象の彼方の主体の統合原理に基づいて、再構築され、体系化されて、徐々にこの主体の「現状」に近づいて行き、理論的には最後に、主体と対象は、合同するはずである。但し、その過程で、透視作用の段階に基づいて、自ずから対象群の集合つまり領域が成立する。この様にして「学知」の多様性が生じる。前述のように、確実な知識=学知を得るには、或る領域に於ける諸結論明性の原理へ還元することが必要である。ところで、問題は、或一つの「領域・学知」の内部でこの還元が完全に行えるか、と言うことである。即ち、あらゆる「学知」においてその度毎にそれ自体自明な第一原理への還元を行うのは、不可能ではないにしても、非常に非能率的である。従って、他の「学知」で還元済みの諸結論を出発点として、そこへ自らの諸結論を還元する方が、現実的であり、実際にその様に行われている。こうして、例えば、物理学においては、その度毎に数学の原理の証明は行わず、既に証明済みとして前提とされるのである。こうして、この二つの「学知」の間に、本質的な従属関係が生まれ、それを基に「学知」の階層性が生じるのである。大切なことは、この場合、他の「学知」の結論を「信じる」のではなく、他の「学知」内で還元されたことを受け入れることである。その受け入れを可能にするのが「信じる」と言うことである。つまり上位の学知において証明されたことを信じる。従って、「信仰」は、二つの「学知」の自明性を媒介をすることはあっても、一つの「学知」を基礎付けることはない。下位の学知は、信仰に従属しているのではなく、上位の学知に従属するのである。「信仰」に基礎付けられた「学知」は、もはや「学知」では有り得ない。ここで言う「信仰」は、勿論、宗教的なものだけではない。
確実な知識のもう一つの側面は、対象の側からのものである。知性の完成である「学知」は、「対象の此方の主体」だけに依存するのではなく、知られる対象にも依存する。少なくとも人間は、全ての対象について「学知」を持つことは出来ない。従って、可知的なものが学知の対象となり得るには、どの様な条件が必要か検討しなければならない。
先ず、学知の対象は必然的なものでなければならない。学知とは確実な知識であるから、学知の対象は、それについて確実な知識が成立できるものでなければならない。そのためには、別のあり方が可能であってはならない。別様ではあり得ないと言うことは、必然的であると言うことに他ならない。これは、プラントン的な観念の世界しか学知の対象となり得ないと言うのでなく、必然的な理拠がある限り、学知の対象となり得るのである。勿論、偶然的なものそれ自体については、偶然的である限り学知は成立しない。
次に、学知の対象は普遍的なものでなければならない。質料的世界においては、個物そのものは、偶有的である。それゆえ、学知の対象が成り立ち得るためには、偶有性の源泉である質料からの抽象が行われねばならない。ところが、質料からの抽象が行われれば、正にその事実に依って、その個別性からも抽出されることとなる。これは、実在するものについては、学知が成り立たないと言うのではない。事物において実在するものは、普遍的理拠を有するからである。ただ、個別性そのものについては、学知は成立し得ない。
第三に、知られ得る性質、つまり可知性が無ければならない。認識は存在に向かって秩序づけられているから、あらゆる学知は、事物の或る種の存在論的規定を知ることである。しかしこの存在論的規定(原理)が現実に学知を完成するためには、学知の対象としての条件を備えねばならない。即ち、知られ得るもの・可知的なものとならねばならない。しかし事物は、与えられたままでは即座に認識の対象とはなり得ない。例えとしてエックス線を考えてみよう。我々は、例えば、骨を直接に見ることはできないので、それを見るためには、エックス線を照射する必要がある。この照射によって肉眼では見えない内部の骨が透視され、現実に見えるようになる。つまり視覚の対象となるのである。それと同様、認識の対象にも、エックス線に相当する働きかけが必要である。これが、透視[抽象]作用と呼ばれるもので、これは、能動知性の働きかけである。ここで注意すべき事は、知性はこの様な働きを、勝手気ままにするのではなく、飽くまでも事物の中にある可知性に準じて行うのである。これが透視作用の段階・度合いであることは既に述べた。
所で、事物と同時に知性をも規定している或特定の(規定)原理(=本質)は、複数の事物の中に見出される。又逆に、これらの事物は、或特定の学知に於いては、この共通の本質が事物を規定しているという、その観点から知られるのである。この様な本質は、形相と呼ばれているので、この学知の形相的主体
subiectum formaleと言う。つまり学知を学知たらしめている主体という意味である。これに対して、この様な原理・本質が見出される(複数の)事物をこの学知の素材的(或いは質料的)主体
subiectum materiale という。つまり、実在の世界に於いて、これらの本質によって規定されている全体的な主体との意味である。要するに、学知によって知られるのは、諸々の結論であるから、或学知の対象とは、この学知の中で証明される諸々の結論から成り立っている。更に、これらすべての結論は、この学知に於いてその知識が探求される事物、即ち、この学知の主体についてであることは言うまでもない。
では、一つの「学知」の多くの結論は、どの様にして一つの対象の中に統合されるのであろうか。又、同一の主体に関する多くの結論は、どの様にして、対象に従って区別されるのであろうか。知られ得る対象のこの統合と区別は、トマスによれば、次の四つの仕方でなされる。
1.対象が質料から分離し得る度合によって、
2.証明の手段となるいわゆる媒概念mediumの統合もしくは区別によって、
3.定義の様態modusによって、
4.諸原理の統合もしくは区別によって。
ところで、「学知」の対象は、証明によって得られた真理であるから、「学知」の対象として「知性的認識の可能性intelligibilitas」は、証明の根拠である諸原理から由来する。それ故、これら諸原理の統合性から、「学知」の対象の統合性が生じるのである。然るに、諸原理の中でも、第一のものは、主体の定義である。つまり、主体がしかじかであるから、しかじかの述語を帰属させ得るからである。それ故、「学知」は、原理の多様性によって区別される、と言うのと、主体を定義する種々の様態によって区別される、と言うのは、同じ事である。
そして、この定義の種々の様態は、認識の種々の様態に依存し、これは更に、主体に含まれる透視・抽象の度合いの可能性に依存している。だから上の四つの仕方は、別々のことではなく、結局は、一つに帰着するのである。
§2.「学知」としての神学
以上見てきたような「学知」としての性格が、果たして神学にも当てはまるだろうか。それを簡単に見て置こう。こゝでは、神学とは、「神についての確実な知識」という一般的な意味で用いることにする。
i)「対象の彼方の主体」(以下単に「主体」という)の側からの問題点
後に述べるように、神学は、天啓に基礎を置いているから、神学の取り扱う真理は、信仰に依らねば受け入れる事が出来ない。然るに、同一の事物が同時に認識されかつ信仰されることは厳密に言えば有り得ない。だから、信仰の対象である限り、認識の対象とはならない。ところが、学知は、まさに確実な「認識」であるから、神学は、比喩的な意味で学知と言われているだけで、固有の意味では学知とは、言えないのではないか。
この問題に対しては、神学が固有の意味での学知としての性格を備えていることを明らかにしなければならない。上述のように、学知とは、確実な知識であり、その確実性は、知識が成立する固有の原因を明白に把握することによって得られる。即ち、すべての結論が、直接的に、或いは「証明」を通して間接的に、自明の原理の上に立っていることが明らかとなければならない。
ところが神学は、先ず、信仰と深く関わっているから、この様な性格を持たないように見える。信仰は、権威に基づくもので、事柄の自明性によって受け入れられるのではないから、理性の性格に相反する様である。しかしながら、信仰は、神の恵みとして無償で一方的に与えられ、その意味で理性を越えるものではあるが、信仰のいわば内容をなす真理に関しては、信仰は理性の「線上」にあると言える。なぜなら、真理は存在の超越的属性として根本的に知性の対象だからである。即ち、信仰と理性は、成立の様式は異なるが、全く異質な互いに矛盾し合うものではなく、むしろ、理性は、信仰によって高められ、拡大されれば、その本性に逆らうことなく、理性を越えるこれらの真理を知ることが出来る。しかも、理性にふさわしい仕方、つまり証明を行うことで、これらの真理を知ろうと努めるのであるが、この仕方こそ、学知的方法に外ならない。
更に上述の、学知の階層性という考え方から、神学が、上位の学知、即ち、神自身と至福直観者の「学知」に従属していることを明らかにすることが出来る。つまり、いわゆる信仰箇条から出発して、その他の神学的真理を証明するために厳密な推論に則って作業を進め得ることを示し、こうして、学知としての性格を備えていることを説明することが出来る。
勿論、こゝに学知の階層性の考えを適用する場合、二つの学知の原理と主体が同一であることに、困難がないわけではない。
しかし、従属関係にある二つの学知の原理や主体は、それぞれ異なるものでなければならないとの条件は、「学知」の階層性にとって本質的な要素ではない。ただ人間の次元で、二つの「学知」の間に従属関係がある場合にだけ必要な条件となるに過ぎない。なぜなら、学知の階層性の本質的な要素は、「真理を表現する際の依存性」ということにあるからである。そして、この依存性は、通常の場合、或「学知」が自らの諸結論を、上位の学知の媒介がなければ、自明なものとなし得ないと言う事実にかかっている。上位の学知が、神自身の知識scientia
divinaである場合、同一の主体(神)について、同一つの真理が、一つの学知(神秘自身の知識)に於いては自明であるが、他の学知(神学)に於いては自明ではない。即ち、これら二つの学知がそれぞれ宿っている二つの知性(神の知性と人間の知性)の認識の様態
modus cognoscendiは全く異質なのである。こうして、神学は、上位の学知である神自信の知識に依存しなければ自らの真理性を明らかにすることが出来ない。
以上の意味で、学知の階層性という考えを神学にも適用することが出来る。下位の学知としての神学では、信仰(箇条)が、他の諸学に於ける原理の役割を果たす。しかし、信仰はその本性上、自明性に根拠を置くことが出来ないから、神学に学知としての性格(自明性)を付与するのに十分ではない。ただ、信仰は、神学に於ける証明が神自身の知識に「中継ぎされ」ている事実を保証する。こうして、信仰は、神学に学知としての性格を保証するのである。
それゆえ、神学が「学知」であるためには、信仰が確実であることが絶対必要である。なぜなら、神学は、「自力では」間接的にも第一原理の自明性に到達できないから、確実な認識を得るには、信仰に頼らねばならないからである。ちなみに、信仰は、いかなる意味でも絶対に誤り得ない真理そのものである神の権威に基づくことがその本質である。
要するに、信仰を介して、神自身の知識は、神学の諸結論にその自明性を「分与」する。これによって諸結論が自明となるのではなく、神学者は、これらの結論が神にとっては自明であることを知るのである。ところで、信仰は、これらの結論に確実性を付与する。この確実性がなければ、学知的とは言えない。従って、信仰に立つ限り、神学は、真の学知であるが、不完全な状態にあることは否めない。
ii)対象の側からの問題点
神学では、多くの歴史的事項を取り扱う。歴史的事項は総て、個別的であり、又、別のあり方も可能であったのであるから、偶有的である。従って、学知に必要な、必然性と普遍性に欠けているようである。更に必然性そのものである神に就いて論じられる場合でも、果たして全く単一そのものである神が学知の対象となることが出来るだろうか。神は、それ自体の側からすれば、部分的かつ漸進的に知られることは有り得ない。神は、完全に、且つ直観的に(至福直観)知られるか、或るいは全く知られないかの何れかでなければならない。以上のようなことが当然問題となる。
しかしながら、先ず、普遍性が学知の条件であるのは、それが、必然性を意味する限りに於いてのみである。歴史的出来事は、それ自体としては、偶有的であるが、それが神の不変の意志の下に立ち、天啓の光に依って知られる限りに於いて必然性の条件を帯びるのである。次に、単一そのものである神が、複数の対象としてとらえられることについては、別に論じるが、こゝでは、それは、対象自体の問題ではなく、理性の不完全さによるものであることを指摘するに止める。
第二章 神学の主体と客体(対象)
上述の様に、神学は、神についての学知である。従って、神学の「(対象の彼方の)主体」は、「神」であると言うことになる。ところで、人間の認識能力を無限に超えるものと考えられる神を余す所なく包括し尽くす単一の「概念」は、あり得ない。従って神についての人間の認識は必然的に複合的にならざるを得ない。こうして我々の認識方法もしくは手段の多様性によって恰も神自身の内に複数の“次元”が存在しているかの様な印象が生じる。これは人間の認識能力の不完全さによるものであるが、結果的には、対象としての神は、単一ではなく、複数であることになる。少なくとも、認識論的には、大別して、啓示によってのみ我々に知られ得る神(の次元)と、宇宙万物を媒介として知られ得る神(の次元)とを分けて考えることが出来る。
人間は、天啓を通して神のいわば固有の情報を戴くが、戴き方は、様々であり得る。そこでこの点から、天啓に基づく我々の神についての認識・神学をもう少し詳しく規定して置く必要がある。
§1.神学の形相的主体
神学の主体は、神それ自身であるが、どの様な観点からそれを眺めるかによって結果は違ってくる。ここでは、現実には出来ないことだが、あたかも神そのものの内奥に入ってそこから、神そのものの眼で神を眺めていると想像する。即ち、神性自体という「内的根拠」から観られた神(Deus
sub ratione intima Deitatis)を考えるわけである。このように想像された神が、神学の形相的主体と言われる。それでは、このような観点でみられた神を、神学の形相的主体を構成するのとして把えるのが果たして妥当かどうか検討してみよう。
先ず、積極的な面から見ると、上述のように、神学は、その諸々の結論が、神の自己認識と至福直観者らの知識へと連続している限りに於いてのみ「学知」の名に値する。この連続がなければ、「学知」とは言えない。所で、どの学知においても、原理を「担っている」主体と結論を「担っている」主体とは、同じである(即ち、言語的な表現で言えば、諸原理の「主語」と諸結論の「主語」とは、同じ)。何故なら、学知と言うものは、自らに対している主体を完全に知ろうとする営み、即ち、この主体についての確実な認識に他ならないからである。然るに、神と至福直観者らの知識の主体--従って、信仰によって与えられる知識(神学)の主体も同様--は、その最も深い秘義に包まれた神自身である。それ故に、神自体が、我々の神学の主体でもある。
次に、消去的に考えれば、神自身の他の如何なるものも神学の主体では、有り得ない。人間の救いも救い主キリストも神学の主体ではない。何故か。
一般に;どの学知でも、その形相的主体は、その学知において、取り扱われるあらゆるものの中でそれらの根本として考察されるものである。然るに、「神自体」は、他の如何なる超自然の秘義・真理にも依存しなで、寧ろ逆に他のすべての秘義・真理が、この神自体から由来する。しかもこの場合、実在に関しても(何故なら他の秘義・真理は、神自体の分有だから)、認識に関しても(何故なら他の秘義・真理は、神自体を表現するためにこれに全面的に秩序付けられているから)神自体に絶対的に依存している。それ故、神学におては、或は、この神自体については、全く考察されないか、或は、この神自体について主として考察されるかの何れかでなければならない。この二つの可能性の中、前者については、これを承認することはできない。何故なら、(1)
幾世紀にも及ぶ全ての神学者の常識に反するばかりか、(2)不条理でもある(例えば、キリストが受肉した御言であることを無視して、キリスト論を立てることが出来るだろうか;神自身のいのちである永遠のいのちを無視して、人間の救いについて論じられるだろうか)。それ故、後者が、真でなければならない。即ち、神学において主として考察されるのは、神自身に外ならない。
特殊的に;イエス・キリストとは、自身の受肉に依って、又、その教えに依って、神自身を表現する方に他ならない。それ故、キリストを知ることと神そのもの内的生命を知ることとは、結局同じである。同様に、人間の救いは、最終的には、神自身を許される限り知ることによってこれと出来る限り合一することにある。然るに、途上にあるものを正しく知るためには、最終目的への秩序に従ってそれを知る必要がある。だから、秘跡や、その他の救いへ至る途上にあるもの、また永遠の生命に導くものとしての人間行為も、すべて神自身からの光に照らしてしかこれらを正しく知る事は出来ない。こうして、この神自身が、神学の主要な内容、形相的主体を為すのである。
この様な考えに対して、神学は、救いに向けられた啓示についての学知であるから、人間の救いこそ最も重要な課題である。それ故、神学の形相的主体(神学で主として考察されること)は、人間の救いとそれに関する全ての事であるべきで、神自身については、来世に行って考察すれば十分だ、と言う様な異論が出るかも知れない。しかし、(1)啓示即ち神の御言葉は、主として神自身について語られている。(2)人間の救いそのものは、少なくとも概念的に区別されたものとして見れば、主として神の光栄に向けられたものであり、この救いは、神の善良さと慈愛とを現すものである。神こそ全宇宙の目的であり、特別に人間のいのちの目的であるから、人間の救いを、神の栄光から分離して、前者を後者よりも重視して人間の救いをあたかも最終目的であるかの様に端的に追求するのは、本末転倒であろう。両者は、実は同一の事態の両面に他ならない。しかし概念としては、人間の救い、並びにそれに向けられている全てのものについての知識は、本来、神自体についての知識に従属している。そして、この神の中においてこそ、世界の救いは完成するのである。
勿論、この事は、キリストの秘義や教会の秘義などが神学において軽んじられても良いという意味ではない。キリストは、神と人間の仲保者である。これは、存在の次元においてだけでなく、認識の面においてもそうである。認識の面でも、キリストを経ずに誰も父の許へ行けない。それ故、神自身を知るには、キリストについいての知識が必要である。
この神自身は、キリストにおいて、キリストに依ってのみ表現される。然るに、キリストの秘義は、いのちである神そのものを表現するために全面的に秩序付けられていると言う正にこの事実からして、キリストの秘義は、神学の考察に際して、神自身に従属している。それゆえ、キリストの秘義は、神学における第二位的な主体である。しかし、あらゆる第二位的な主体の中では、最上位である。但し、このキリストの最上位性・絶対性については、更に一層の考察が必要であり、まさにこの考察が、諸宗教の神学の主要な論題の一つとなるはずである。
次に、どんな学知においても第二位的主体は、主要主体の部分であるか、或はそれに類するものである。然るに、神自体は、単一そのものであるから、他の多くの超自然の秘義や真理が、神自体の部分であるとは、認めることはできない、と言う先に述べた反論が出るかも知れない。しかし、これに対しては、第二位的主体が、主要主体の部分もしくはそれに類するものであると言うのは、主体が、ことさらに「学知の主体」として考察された場合、つまり認識の次元において言えることで、必ずしも存在の次元において部分であるとは限らないことを指摘しなければならない。この意味でのみ、或るものが、他のものを完全に知るのに必要であれば、この或るものは、この他のもののいわば見かけ上の部分である、と言われるのである。例えば、神が、人間を創造し、これを超自然の秩序に上げ、自らの言葉を受肉して遣わされた、などの事実からして、これらの全ての事は、神を完全に知るために知らねばならないことである。こうしてそれらは、飽くまでも人間認識の次元で「神の部分」と言えるのである。
§2.神学の対象(客体)即ち、神学的結論
神学の形相的対象obiectum formaleは、潜勢的啓示revelatio virtualisである。神学の形相的主体は、上述のように、神自身の眼でもって内から見たと想像される神自身である。この主体は、啓示・天啓を通してしか知ることは出来ない。何故なら、神からの啓示によらないで、被造物を出発点にして神を知ろうとすれば、当然人間理性は、神が被造物と共通して持っていると想像される要素(つまり神が、創造の業に依って被造物に共有を許されたもの・存在、善、知性など)しか認識することが出来ず、神に固有であると考えられるもの、つまり万物から絶対的に区別されたものとしての神の本性、は(手段がないので)認識できないからである。
神からの啓示は、神学的信仰に依って受け入れられる。この信仰に依って、人間は、啓示を行われる神の権威を根拠として、あらゆる啓示された真理に、知性にふさわしい仕方でしっかりと参与するのである。従って、これらの真理は、決して推論によって得られた結論ではない。そうではなく、神の証言に基づいた肯定・断定である。命題の明証性を見たからではなく、命題が成り立つと、直接或るいは間接に言われたから信じるのである。
所で、これらの真理は、人間の知性に受け入れられるが、この知性は、理性である。知性である限り、知られた真理をその本性の傾きに従って理解しようと追求する。理性である限り、この理解をその本性の傾きに従って推論に依って得ようと努める。人間は、推論によらねば真理を理解することができないからである。
この様な区別は、無意味ではない。何故なら、啓示された真理は、人間の知性にとっても或る程度理解可能の筈である。さもなければ、知性から決して受け取られることはできないであろう(知性が受け取るということは、理解すると言うこと)。又、これらの真理は、理性に叶ったもの、即ち理性的でもある。即ち、これらの真理の間には多くの相互依存関係があり、その結果一つの真理は、他のものに依存するが、その逆ではないと言う状態である(神自身は、一つの真理から他の真理へと推論しないが、真理相互間のこれらの依存関係を見る[欲する]のである)。理性は、この依存関係に基づいて、真理から真理へと推論を行うのである。更に、全ての真理は、同一の主体(神)に関連するから、この主体に対して同等に関係付けらる事は有り得ない(AとBがCに対してあらゆる点で全く同等の関係に立つということは、AとBは同じということに他ならない)。従って、何等かの秩序(順序)に従って関連付けられねばならない。真理間には、価値に関する前後の順序がある。それ故、これらの真理は、理性に依って秩序付けられ得る。むしろ、厳密には、理性は、この秩序を見出すのである。ちなみに、この秩序を認めることは、神学の探究の相対的「自由」にとって重要である。つまり或る真理は、他の真理よりも重視される度合が低い場合が有り得るから、すべての真理を同等に受け入れることを必ずしも要求されるわ
けではない。
しかしながらこの様な秩序付けは、信仰がなければ出来ない。何故なら、信仰がなければ、啓示された真理に到達できないし、まして、我々の知性だけでは、「神の内実は、しかじかの仕方で実在している」と肯定することもできないからである。こうして信仰がなければ、秩序付けのための「素材」を欠くことになる。しかし、秩序付そのものは、理性に依ってなされる。何故なら、信仰は、真理に固執するだけで、推論しないからである。
ところで、理性のこの秩序付けは、事実の単純な肯定ではなく、厳密な意味での「結論」へと導くのである。即ち、理性が、一つの真理を肯定する場合、この真理よりも上位にあり、従って、この真理がそれに依存している他の真理から自明性を受け取り、この自明性に基づいてこの真理を肯定・断言するのである。これは正に推論であって、その結果が「結論」である。こうして、神学の結論は、他の学知的に認識された(勿論神学者自身に依ってではなく、他の者--神と至福直観者--によって)諸真理から出発して、理性に依って論証的に結論付けられているから厳密な意味で学知的である。確かに、この上位の真理も、信仰に依って受け入れられるが、既に述べたように、我々は、これらの真理が更に上位の学知・知識(神と至福直観者の知識・学知)においては、自明であること、つまり、他の者がこれらの真理について自明性を持っていることを信仰を通して確信している。
さて、神学の対象は、類比的に光と呼ばれる。言うまでもなく、この類比は、視覚作用から採られたものである。視覚の場合、そのいわば素材に当たるものは、物体の形・色などである。しかし、或る物体が、開いた眼(見る能力のある眼)の前に置かれてもそのままでは視覚の対象とはならない。この物体自体が光を放射し始めるか、或いは、別の物理的な光(例えば、太陽光線、電光など)がこの物体を照射し始めないと見ることは、出来ない。つまりこの光が当たっている間だけこの物体は、視覚の「対象」となっている。その意味で、現実に物体を視覚の対象としているのは、物体そのものと言うより、この光である(勿論物体がなければそもそも視覚は成り立たないが)。それゆえ、視覚の対象を構成する要因は、物体だけではなく、更に不可欠なのは、物理的光そのものである。この意味で物理的光は、視覚の「対象」と言われるのである。
既に述べたように、一般に、認識の対象とは、知性の力(志向存在 esse intentionaleを産み出す力)によって精神の内に実在させられている主体(客体)の本質に他ならない。しかし、この様にして精神の内に現存している「本質」はそのままでは、先の物体と同様、認識の対象とはならない。いわば、この本質は、認識のための素材であって、この素材を対象たらしめるのは、即ち、「知られ得るもの(本質)」から現実に「知られているもの(本質)」へ「移行させる」のは、能動知性と呼ばれる知性の力である。この力によって「本質」は、認識の現実の「対象」となる。だから、物理的光の場合と同様、この知性の力こそ認識の対象を構成する主要要素と言うべきで、その意味で端的に対象とも言える。この様な類比に基づいて、知性の力は、「光」と呼ばれ、一般に「学知」の対象は、その学知に固有な「光」であると言われるのである。神学の対象も、この意味で「光」と呼ばれる。つまりこの光の下で・この光に照らされて・この光を根拠に、諸結論の真理性が神学者に明かとなる。
但し、神学の場合、この光は、ただ知性だけの働きではない。知性以外にも「光源」がある分けである。何れにしてもこの光が、「潜勢的啓示」と呼ばれるものである。ところで、「潜勢的啓示」、即ち、神学の対象としての「光」は、理性の光と信仰の光との合成に依って成り立っている。それ故、次に、この合成についいて考えよう。
§3.理性の光と信仰の光との合成
先ず、神学は、啓示された真理を巡る単なる理性の作業・訓練ではない。つまり啓示された真理に関する、理性の光にのみ頼る「形而上学」ではない。形而上学の固有の光は、存在である限りの存在ens
in quantum ensが帯びている固有の透視可能性abstrahibilitas(これは、抽象作用の第三段階)である。この光に照らせば、存在の共通の諸原理とその特性とを知ることは出来るが、啓示の対象を構成する神自身の固有の原理と特性を知ることは出来ない。なぜなら神の固有のものは、決して存在の共通性の範囲内に含まれ得ないからである。寧ろ逆に、存在の共通要素は、神から流れ出るのである。神学の主体は、神自身であり、これは啓示と信仰なしに知り得ないから、いわゆる「信仰の光」が恵みとして、神自身から授けられる必要がある。そしてこの信仰の光は、単に神学の最初の段階だけではなく、神学の作業全体にわたってその照射を行い、影響を及ぼす必要がある。
しかし、神学の光と信仰の光とを同一のものと考えるのも誤りである。信仰は、推論せず、証明しない。唯一の動機、つまり啓示する神の権威の動機に基づいて、啓示された全ての真理に同等に固執するからである。それに対して、神学は、実際に推論を展開し、証明の力に基づいて結論に固執するのである。
それ故、神学においては、信仰と理性との二つの光の合成があり、この合成から単一の独自の光が生まれる、と主張しなければならない。では、この合成は、どの様に理解できるだろうか。
あらゆる学知において「その対象を知ることが出来るようにする光・可知的光lumen
intelligibile」は、諸結論の理拠を含む限りにおいての諸原理の持つ自明性である:この諸原理の(直接の)自明性は、学知的証明を媒介として諸結論に分与される。これに依って諸結論は、(間接的に)自明となる。この時、結論は、諸原理の自明性に「解決された」と言われる。
純粋に理性の範囲内の真理の次元では、全ての結論は、最終的には、質料的な面ではmaterialiter、感覚の持つ「自明性」へ、形相的な面ではformaliter、存在(と理性との)第一法則である第一原理(複数)の(本来の)自明性へそれぞれ解決される。 これに対して、神学の光は、神自身の内奥に属するどんな真理をも十分に知られ得るもの・可知的と為すことはできない。再三述べたように、神は、存在の概念に含まれていないからである。しかしながら、次の様な意味では、理性の光も信仰の光と共に働くことができる。即ち、神は、その真理を我々に啓示するかどうかは完全に自由であるが、啓示をする限り人間の持つ概念を、たとえ不完全なものであっても、これを用いねばならない。さもなければ、概念無しに、人間は、何も認識できないからである。ところで、神自身は、存在の概念の中に含まれてはいないが、この概念が表現する共通存在ens
communeには、幾らか神に似たところがある。だから、神を或る仕方で知らせるために使えないことではない。例えば、神が「父」であることは、理性では絶対に解らないが、しかし、神はこの秘義を人間に知らせるために「父」という概念を用いられた。こうして、啓示と信仰とによって、理性の範囲内の概念が超自然的に拡張されて、神の秘義を表現し、それを指し示すことが出来るようになる。
それ故、理性は、(信仰箇条として表現される)啓示された諸真理を受け入れるが、この場合の理性は、自力のみに依るのではなく、信仰に依って照射された理性である。こうしてこれらの真理は、神学的証明において、原理の役割を果たすことが出来る。何故なら、諸原理を通して自らに伝えられた主体の中へ益々深く貫入して行こうとする傾向は、正に理性の本性に属することだからである。ところで、あらゆる学知においては、諸原理の影響力は、証明の過程全体を通じて持続する。何故なら、結論としての結論、つまり学知的に認識された真理としての結論は、諸原理の光に照らされて始めて到達されるからである。これは、神学でも同様である。信仰に依って保持される諸原理の影響力は、最終的な結論に至るまで、推論のすべての過程を通じて存続する。こうして、神学の営みは、すべて信仰の中に浸され、その影響の下にある。
もし証明のための一つの前提が理性に属する真理であれば、それは、信仰に依って、超自然の主体(つまり神自体)に有効に対応できるよう高められる。例えば、マリアが神の母であることの論証の小前提(「全ての母性は、子のペルソナに対する」)は、理性に属する原理だが、超自然に高められて神の内的真理を「証明」する。要するに、我々の二つの光は次のように合成される。即ち、神学的証明を通して、神学的結論は、理性の第一原理へ解決されるのではなく、信仰箇条(そして、信仰を介して、神と至福直観者の知識)へ解決される。しかし、この解決作用そのものは、理性の働きであり、理性はこの働きをするために自己の固有の光、つまり第一諸原理の光を用いる。こうして、既に述べたように、理性の光は、信仰の光に照らされ、高められ、真理そのものである神に多少とも参与するのである。
§4.神学の結論
神学的結論とは、神学的証明を通して信仰箇条から導き出される諸々の真理である。勿論、これは、神学の光に照らされて知られるのである。
原理から原因が導き出される。単に或る真理(命題)が成立する原因だけではなく、この真理(命題)が表現している事物の原因も原理から得られる。ところで、神学的推論によって、或る信仰上の真理(通常命題の形で表される)の中に、他の真理、寧ろ他の多くの真理の、真理としての理拠ratio
veritatisが含まれていることが明らかにされる。それ故、神学は、単なる事実を確認・確立する"quia"の学知であるだけでなく、何故事実がその様であるかと言う理拠を明らかにする"propter
quid"の学知でもある。
神学的結論の確実性は、対象の側からみれば(obiective)、神としての存在 Ens
divinumの絶対的必然性と神としての意志の完全な不動性とに、そして、認識主体の側からみれば(subiective)、神学者の信仰と、理性の諸原理の自明性並びに理性の推論の的確性とにその基礎を置いている。
全ての神学的結論は、結論である限り、同一の光、即ち神学的推論の光に依って知られ、この推論に基づいて確実なものとなる。或る特定の命題は、信仰の真理である限り、万人から支持されねばならないが、この支持の根拠は、啓示をなさる神の権威の故に成り立つ信仰である。しかし神学的結論としては、この結論を信仰の原理へ解決している人々によってのみ支持されるのである。ちなみに、或る命題が、信仰の真理であるか、或るいは「教義」として定義される可能性のあるものかと言うことは、別の問題である。
神学の最終目的は、神学的結論を集積することではない。そうではなく、その形相的主体、つまり神自体・秘義を、許される限り知ることである。従って、全ての神学的結論が目指す唯一のことは、神についいての認識である。「信じる者の行為は、信条を終点としているのではなく、「事」を終点としているのである。」
第三章 学知としての神学の統一性
§1.神学的知識の多様性
すでに述べたように、神学とは、いわば神性自身の観点から知られる神をその主体とする学知である。この主体は、あらゆる点からして完全かつ無限な単一性そのものであるから、この様な主体については、唯一の神学のみが可能であると思われるかも知れない。しかし、逆に、前章で我々の神学が、神と至福者の知識とに従属することを認めたからには、少なくとも二つの異なった神学があるという主張をしたことを意味する。更に、神が自らについて持つ知識は、無限であるから、神についての至福者の本質的に有限な知識も、学知(知識)の理拠と言う点から見て、神自身の知識から区別されているように思われる。しかし、主体そのものの中に区別を持ち込まないで、どの様にしてこの様な知識の区別を理解することが出来るであろうか。
事物の秩序は、真理においても、存在においても同一である。従って、原則として、或る特定の一つの本質に対しては、他のものから区別された一つの知識が、原理上対応する。
それ故、神である神性という無限の「事物Res」に対しては、一つの、これも無限の、可知性が対応する筈である。無論、この様な可知性は、神自身の本性そのものであり、上の「事物」と同一のものである。それ故、この無限の可知性を包含する知識・学知は、只一つ以外には有り得ない。それは、神が自己についいて持つ知識に他ならないからである。
以上のことを別の観点から言えば、神の可知性は、無限であるから、我々の経験の範囲内で、どんなに完全であっても、ただ一つの有限な知識・学知に依って十全に汲み尽くされることは有り得ない。もし幾らかでも無限なものを表現しようとすれば、有限なものを数多く複合・組み合わせて、限りなく無限定に近づいて行く外はない。ところで、全ての神学は、有限である人間の営みとして、神自身の「神学」の不完全な分有もしくはそれへの参与participatioに過ぎない。従って、すべての分有・参与に付き物である、大小、或いは多少の「度合」が必ず伴う。その結果、それ自身有限・不完全な人間の営みを複合的に集約させることになる。こうして、神学は、人間の営みが、唯一の無限に知り得る主体に到達する際の完全性の度合に応じて、複合的なものとなり、従って、互いに区別されるのである。
この様な仕方で、神を直観する至福者の神学は、神自身の「自己認識」から、我々の神学は、至福者の神学から区別される。我々の神学も至福者の神学もともに同一の主体(神自体)を巡って同じ真理を知るのであるが、我々の神学の場合は、至福者の場合と違って、この真理を「直観」に依ってではなく、我々にとって自明ではない原理から演繹する事に依って、つまり推論に依って漸く知るのである。
§2.神学の統一性
要するに、主体そのものは単一であっても、これを捉える認識主体の不完全さのために、この主体は、多数の対象にいわば「分解され」て認識される。この様に分解された対象が、再統合されて複数の「学知」を成り立たせるのである。それでは、このような統合・統一をもたらす根拠・原因は何であろうか。即ち、或る学知の統一性は、どこから得られるのであろうか。一般に、或る学知の統一性は、その形相的対象の統一性から得られる。つまり、この学知を構成する諸結論を知り得るものとなしている知的光の統一性(同一の光であること)から来る。或る結論が真であることを断定するには、知的光に照らされて、その「真であること」を「見る」必要があるが、この様な場合、複数の結論が、同一の光に照らされて見られるなら、これらの結論は、この同一の光の下に統合・統一されているわけである。
この様な光は、すでに述べたように、神学では、「潜勢的啓示」であり、それは、信仰の光と理性の光とから合成されている。ところで、理性の光は、存在の様々な形相(本質)を知らせる、もしくは、可知的なものとするのであるが、これらの形相は、様々な仕方で知られ得る。そしてこのことが現実に可能となるには、三段階にわたって働く透視作用が必用である。従って、この透視作用の様々な度合に応じて理性の光は、多数となる。神学は、この理性の原理の光を使うのであるから、この多様性を完全に締め出すことは、出来ない。即ち、神学の場合でも、理性は、様々な透視作用の度合に対応する理性の原理を使用するのである。即ち、例えば、抽象の第一段階に属する場合は、天然の事物の本質、特
に人間について論じられる。第三段階なら、霊的・非質料的事物について論じられる。
又、理性は、素材の多様さに応じて、歴史学、聖書解釈学などの方法論をも使用する。こうして、神学は、様々な多くの学知が複合して成り立っているように見える。
しかし、神学の光にあっては、理性の光は、信仰の光に従属しているから、上述の多様性は、対象の間に形相的区別distinctio
formalisを立て、本質的に相違する複数の「神学」を構成するのではない。それは、単に質料的区別distinctio
materialis(単なる素材間の区別)を導入するに過ぎない。即ち、あらゆる神学的結論は、究極的理拠・根拠
ratio ultimaに基づいて、真となり、又真として現れるが、この最終的理拠は、「信条」から汲み取られる。その結果、あらゆる結論は、例外なく神からの啓示にその基礎を置くものとなるのである。こうして、我々の神学は、本来的・形相的には、唯一の学知であるが、その「素材」に関しては、豊かな多様性が認められるのである。
§3.神学の素材に関する多様性
実証神学
神学の質料・素材としての分野・領域は、多様であるが、通常、実証神学と思索神学とに大別される。その区別の根拠は、次の通りである。既に述べたように、神学においては、その原理は、啓示を通してのみ与えられ、知られる。更に、そこで取り扱われている多くの事物は、論理的必然性ではなく、事実上の必然性しか帯びていない。例えば、御子の人間としての降誕は、論理的必然性に基づく出来事ではなく、降誕という事実が現実に生じたことからそれ以外に事実上有り得ないという意味での必然である。
啓示を通してのみ原理が与えられるとの観点からは、先ず何が現実に啓示されたのかと言うことを確定しなければならない。これは、聖書を基本として、いわゆる聖伝や、教父、公会議、歴史などの公文書その他を丹念に精査することで徐々に達成される。この探求は、神学的な営みであり、信仰からは区別される。何故なら信仰は、啓示された教義をただ無条件に受け入れるだけだからである。
事実上の必然性と言う観点からは、経験科学と同様、先ず「神学的事実 factum
theologicum」を確定せねばならない。即ち、果して或る神学的事実、例えば、洗礼の秘跡には「しるしcharacter」と呼ばれるようなものが実在しているのかどうかを確定する必要がある。これは、「果たして実在するか」と言う意味のラテン語の
"an sit" を採って、"an sit" の問題と言われるが、神学では、人間の営む他の学知におけるよりも重要な役割を占めている。ところで、神学的事実が確定されると、今度は、この事実を出来る限り深く理解しようとの努力が生じる。それは、或ものの実在を知った上は、更にそれが何であるか、どのように相互に関連し合っているかなどを知ろうとするのは、人間知性の本性に基づく性向だからである。こうして、人間は、他の学問におけると同様、これら啓示された真理を理性の許す限り「理解すること」を求めるのである。これは、いわゆる思索神学の課題であるので後述する。
或る真理が、実際に啓示されたかどうかを探求するのが実証神学の任務である。その際、歴史、聖書解釈学、考古学などの関連科学を駆使する。しかし、実証神学と呼ばれる理由は、いわゆる「実証主義」に基づいて探求を進めるからではない。即ち、実証されたものだけ、もしくは実証可能なものだけが科学の対象の名に値する、との主張からではない。そうではなく、啓示された真理が、少なくとも我々にとって、学知の対象となるためには、実証科学的な手続きを経なければならないと言う方法論的な意味で言われるのである。従って、一般に実証科学と言われる科学とは、根本的に異なるわけである。その違いは、実証神学の営みが、その本質上、既に見た「潜勢的啓示」の光に照らされながら行われるところにある。即ち、神学的原理とその事実とを確定しようと努めるのであるが、これらの本来の意味は、これらを啓示された真理として信じない限り現れないのである。
ところで、実証神学の探究に際しては、若干の規制を容認しなければならない。これらの規制は、学知としての自主性を冒したり、その学知的本質を阻害するものではない。かえって、実証神学の学知としての本性を補完するものである。これらの規制には、先ず、信仰に由来する否定的規制がある。つまり、信仰は、実証神学の探求の過程において信仰そのものに明白に矛盾する様な或る立場をアプリオリに、つまり一切の検討に先立って、排除し、別の立場を強く要請する。しかし、この場合も、実際に矛盾しているかどうか、その信仰の理解の仕方に瑕疵はないかなどを含めて慎重に対処すべきであるのは言うまでもない。 このような否定的規制のほかに、そして、こちらの方がもっと重要で、主であるが、積極的規制もある。これらは規制と言うよりむしろ、信仰に由来する促進とも言うべきであろう。それは、例えば、本性とペルソナの区別のように、哲学などの分野では、殆ど問題とはならない様な事柄も、信仰をよりよく理解するために積極的に導入される場合などである。即ち、実証神学で、確定しようとする神学的真理とその事実とは、本来信仰に属し、若し信仰に促されなかったら、これを探求しようともしなかったであろうし、従って見出すこともなかったであろう。
思索神学(教義神学)
思索神学(教義神学)の目的は、信仰によって高められた理性を通して、「超自然の事物」の理解に分け入ることである。勿論この事物の認識は、神からの啓示に依って与えられるのであるが、この「分け入る」と言う作業そのものは、理性に則した仕方でなされる。即ち、理性は、信仰(箇条)から出発して、結論へと、既知から未知へ推論を続けて行くのである。なぜなら、信仰(箇条)は、神学的演繹を行うに際して、他の学問における原理の役割を果たし、又、特に言葉を通して為された啓示は、事物の秩序を現すことを目指しているように思われ、この秩序を辿ることで推論を進めることが出来るからである。要するに、思索神学は、実証神学によって神学的事実が確立された後、どの様にしてこの事実がそうなっているのか、との問いに出来る限り答えようと努めるのである。
以上述べたことからの「結語」として、神学を次のように定義することができるであろう。先ず、その主体の観点から、神学とは、「啓示をなさる神についての学知
scientia Dei revelati」;次にその対象の観点から、「信仰を知り、理解する努力 intellectus
fidei」;である、と定義することが出来る。
第四章 神学とキリスト者の生活との関係
キリスト者の生命の本質は、キリストを信じ、信仰の秘跡によって生命の本源である、復活者キリストに一致し、このキリストに活かされて、我々固有の行為によってキリストを再現し、更に、キリストへの信仰を告知し、最終的(時間的順序でなく、論理的順序で)には神と合一することにある。これらすべての必要事は、信仰の中に含まれている。従って、信仰さえあれば、永遠の生命のためには必要かつ十分であるように見える。敢えて、神学などと言う「分別知」に耽るのは、冗漫では無かろうか。
§1.聖なる教えに対する神学の関係。
人間の救いとは、人間の究極的な目的を実現することである。この目的は、万物の究極の目的としての神以外に考えられない。従って、人間の救いとは、この目的を認識し、それを愛することによって、これと合一することに他ならない。ところで、愛の前提は認識である。それ故、救われるためには、まず神について何らかの真理を知らなければならないが、これは、啓示によらないでは、不可能である。それ故、啓示された真理の総体としての「聖なる教え」は、人間の救いのために必要である。ところで、聖なる教えは、神自身の「自己認識」の分有であるかぎり完全な学知である。それに対して、神学は、上述のように、少なくとも人間理性が本質的に関与する限りにおいて不完全な学知である。然るに、或る同一の系列においては、不完全なものは、本性上完全なものに秩序づけられている。従って、神学は、本性上、聖なる教えに向けて秩序付けられている。
それゆえ、先ず、聖なる教えを理性によって探求するのは、正当である、と言わねばならないであろう。即ち、この探求は、それぞれの個人にとって、それが理性の本来の性向である限り、各人の能力に応じて、営まれる場合、完全に正当である。但し、信仰に完全に従属するとの条件が前提となるのは無論である。勿論、「信仰」をどの様に理解するか、と言う問題は、依然として残る。正当であると言うことは、必ずしも必然であることを意味しない。従って、個人は、事実上誰でも何らかの仕方で信仰の理性的探求を自ずから行うのであるが、仮に何らかの理由でそれを行わないとしても、咎められるべき問題ではない。
しかし、信仰共同体である教会にとっては、神学は、是非とも必要である。教会は、信仰の教えを人々に出来る限り理解出来る仕方で提示し、それを否定する者に対して、否定の根拠が成立しないことを論証し、その根拠自体が含んでいる誤謬を正す義務を負っているからである。従って、教会の成員である誰かが、神から(教会を通して)委ねられた使命に基づいて、この任務を果たさねばならない。このような人々にとって、神学は、義務であり、かつ必要である。特に、信仰を理解する必要を痛感している人々のために、教会の中で理性による信仰の探求がなされるのは、必要である。
§2.神学の尊厳性即ち英知としての神学
英知とは、知識の中で、自己の対象を知ると言う働きを目的とする以外、一切、他のことを目的としない知識、その意味で最高の知識のことである。ところで精神的な次元での「知る」と言う活動は、第一位の活動であるから、英知は、当然全ての学知の中のみでなく、他の人間活動の中でも、第一位を占めるものである。では、この様な英知としての性格は、神学にも当てはまるであろうか。即ち、神についての確実な認識(学知)としての神学は、認識自体が目的であって、少なくとも宇宙の次元の中では、他の如何なるものにも秩序づけられ、従属しない、と言えるであろうか。
これに対しては、トマス・アクィナスに従って、次のように考えよう。先ず、例えば人間のような精神的存在者にとって固有の、従って、「最上位の」二つの活動、つまり、知ると愛するのうち、第一の主要な活動は、知る、理解する
intelligereである。次に、両方の活動とも、何かをなすfacereこと、つまり自己以外のものの完成を目指すのではなく、何かで在るesseこと、他者になること、即ち、或意味で他者を破壊して自己に消化吸収するのでなく、他者であるがままの他者となることによって自己自身を一段と完成することを目的としている。特にこれは、知る活動について言えることで、しかも、知る場合、この他者には、原則として、存在である限りのすべてのものが含まれている
。以上のことから、知性の活動、知性の完成において究極の目的が求められ、達成される。
それ故、知ると言う行為は、本来、他の、より一層高いものを知ると言う行為に向けられる場合を除いて、如何なるものにも、愛すると言う活動にさえにも秩序付けられない行為である。ところで、優れた知識とは、優れた対象を有し、優れた仕方でこれに至ることである。それ故、人間の究極の目的は、知性の至上の完成である至福直観、「顔と顔を合わせて神を見る」状態である。この場合、精神のもう一つの根本的活動である愛は、排除されるのではない。知る(見る)活動に従属する。即ち、最高の可知的もの(真そのもの)、つまり神は、同時に最高善であるから、愛が認識を前提とする様に、至福直観から、この直観の源泉である神に向かう愛が迸り出るのである。
神学についても類比的にこの様なことが言える。既に述べたように、神学は、信仰を媒介として、至福直観、即ち、神自身について、至福直観者が享受する確実な認識(学知)である至福直観に本来的に依存しているから、この直観が帯びている目的としての尊厳さにも参与する。その限りにおいて、神学自体として価値がある。この場合も、神や隣人への愛は、排除されるのではなく、神学という知識から流れ出るのである。
しかしながら、至福直観の場合と神学の場合とでは大きな相違点がある。即ち、至福直観においては、真理そのものであると同時に最高の善でもある神が、造られた知性と意志(愛)とをいわば直接に「奪取」するとされるのに対して、この世では、たとえそれが、創造の業であれ、天啓であれ、或るいは恩寵であれ(これらは受動的にはすべて被造物である)、神は、造られたものを媒介として間接にしか世界に働きかけることはしない。従って、対象からではなく、主体の活動の様態としてみた場合、愛は認識に対して優位に立つ。実在との交わり・融合を現実のものとするのは、愛だからである。しかし、そのものとしては、知識は、愛に向かって秩序付けられてはいない、つまり、愛に従属するものではないのである。従って、知ることは、常に目的としての理拠を含んでいる。それ故、神学も、主として思弁的な知性の営みと言うべきである。
以上のことから幾つかの結論を導き出すことが出来るだろう。
先ず、神学は、客体的(客観的)な認識である。神学における基準は、結論の真理であって、結論が何かにとって善であるか、或るいは、教会当局、もしくは信徒の善導にとって有用であるか、と言うことではない。たまたま不都合であっても、真であれば、敢えて明言しなければならない。それゆえ、神学体系と霊生道、つまりSPIRITUALITASと呼ばれるものとは同じ関係にあるのではない。霊生道は、行為に関するものであるから多様であり得る(同一の行為に関して互いに対立する価値判断が同時に成立し得る)。それゆえ、霊生道においては、賢明徳、慎重さが特に重要視される。これに対して、神学体系は、神と神に関することについいての(肯定)命題の複合体、つまり認識に関するものであるから、同一事項について矛盾する二つの(肯定)命題が同時に成立することは有り得ない。それ故、任意の神学体系を選び、神学する主体(sujet-cis-objectif)の在り方に対比して論理的な整合性(無矛盾)を求めるだけでは不十分である。更に、取り扱われている事物・主体(sujet-trans-objectif)の在り方に対照して、事物と知性との一致(これが真理といわれる)を確保しなければならない。勿論、この個々のことからだけでは、ある体系が、全面的に正しいとも、全面的に誤りであるとも必ずしも言えない。或る体系がどの程度善いかと言うことは、それが全ての真理を統合するのにどれだけ適合しているか、また全ての誤謬を排除するのにどれだけ適合しているかによって判断しなければならない。
次に、神学は、純然たる意味での(科)学である。即ち、厳密な学知的方法によって進められるべきであって、権威筋の勧告や、説教師や「ロビスト」の絶叫などによって左右されてはならない。学知的方法とは、既に述べたように、理性の作業過程である。神学は、本来「敬虔」でなければならないと言われることがある。もしそれを正しく理解すれば実にその通りである。神学は、最高善であるもの(神)についいての学知的認識である。最高善は、人間の礼拝、献身、服属、そして特に愛の対象である。それ故、神学は、本来敬虔の源泉である。愛の対象を益々よく愛したいとの願望は、愛から自然に生まれるものであるから、敬虔は、神学の部分ではなく、むしろ神学する主体の内に神学から生まれ出る果実でもある。しかしながら、神学的認識そのものは、知性のみの行為であり、科学的な行為である。それゆえ、意志の完成である正義の徳の部分としての敬虔を直接に目指すものではない。偉大な神学者は、必ずしも敬虔な聖者ではない。
それ故、「敬虔」が無くとも神学は、成立し得る。従って、いわゆる完成された信仰(fides
formata)が無いかも知れない人でも神学は、可能であり、さらには、信仰を共有しない場合でも、少なくとも論理形態としての神学は、十分成立し得ると考えられる。
最後に、神学が目指しているのは、「観想contemplatio」である。この場合の観想は、いわゆる天賦の観想(c.infusa)ではなく、人間の努力によって獲得され得る観想(c.acquisita)である。あらゆる理性の過程は、知的考察に向かっている。特に、存在の最終原因と最終原理とを求め、その結果、最早それ以上求めるべきものは何も残されていないような理性の過程が、観想に他ならない。
この知的考察・観想は、活動としては人間の努力ではあるが、全面的に信仰に依存している。信仰が無ければ、現世では、神についての神的認識は決して与えられない。そして、この神こそがこの知的考察・観想の対象だからである。更に、それだけではなく、この観想は、愛徳にも依存している。何故なら、あらゆる知的考察においては、知性と、知性を媒介とする愛とは、知られる対象に対して受動的であり、考察される事物に依存しているからである。就中、同時に真理そのものであり、同時に最高の善である神と言う最高の「こと」に関しては、この様な依存は、愛なしには有り得ない。一方、事前には、意志が、対象から受ける規定に関してではなく、その対象に向かう実行に関して知性を動かし、他方、事後には、善の考察から愛が生まれる。それ故、愛なしに(信仰なしにではなく)神学的考察をなし、神学に関して多くのことを知り得るとしても、愛なしには、誰も神学の究極の到達点、つまり観想に至るまで理性の努力を保ち続けることはできない。
こうして、この観想は、人間の努力で獲得されるものであるが、信仰と愛との内に支えられ、推されて進む。この様な仕方によって、観想は、福音の告知を直接に規制する役割を担うのである。"Contemplata
aliis tradere"。神学のこの様な機能こそ、「英知」の名にふさわしいと言うべきであろう。
§3.神学とその他の諸学知との関係。
最後に、神学とそれ以外の諸学知との関係について簡単に触れ、この小論を終わることにする。先ず、神学の主体は、神自体であり、神は、万物の第一原理だから、神学は、その主体に関して言えば、あらゆる学知の筆頭である。又、恩寵は、自然を否定しないばかりか、それを前提とし、且つそれを高めるから、神学は、あらゆる学知の原理を使用することが出来る。しかし、それだからと言って、神学は、他の諸学に取って替わることも出来ないし、また他の諸学知を積極的に指導する立場にもない。それぞれの学知の自律は、完璧に守られねばならない。それにも拘らず、神学は、諸学知の筆頭として、否定的な仕方で他の学知を指導する任務を負っている。即ち、他の学(者)がその適性の限界を越えて、神学の主体を明白に意図して否定しようとする場合、その逸脱を率直に指摘しなければならない。こうして諸学知が、その本来の自律性を取り戻すよう導くのである。
諸学知の中でも、就中、神を除く領域において、最終的な原理、存在そのものに関わる哲学に対して、神学は、大変微妙な関係に立つ。哲学は、存在という共通の観点からみた神を含むすべて事物の普遍原理を取り扱うので、哲学と神学とは、密接な関係があり、神学は、諸学知の場合以上に哲学を活用することになる。中世には、哲学は、神学の端女(はしため)であると言われた。これは、現代では誤解を招く表現であるが、トマス・アクィナスによれば、その意味は、決して帝国主義的な仕方で、哲学を神学に従属させようとするのではなく、信仰に対して、哲学が果たす次の三種の機能を象徴的にあらわすものである。即ち、先ず、信仰の前提praeambula
fideiを論証すること。信仰の前提とは、信仰に取って必要な哲学的真理で、信仰は、これらの真理を前提とするものである(例えば、神秘の実在、人間における自由の存在など)。これらは、本来的にではなく、たまたまper
accidens神学に含まれるのであるが、哲学は、これらの前提を証明することによって、神学が、不条理を無批判に容認するものでないことを明らかにする。次に、信仰に属する事柄を或る種の類似を用いてよりよく理解し易いようにすること。これは、信仰の神は、それ自体本質的に知られ得るもの、即ち、知性の本来の対象であるはずであるが、しかし造られた知性の不完全さのために信仰の神を窮めることができないことを深く悟らせるために哲学を活用するのである。神自体は、我々の哲学的概念に含まれ得ないから、神学者は、普遍概念から神の理解へと演繹的に下って行く形で哲学を使うことは出来ない。
むしろ、像からその像の本源へ登って行くやり方で神へ昇って行くのである。最後に、信仰に反対する説を論破すること。信仰の真理を論証することは、直接には出来ないが、しかし信仰に反対する理拠を退けると共に、信仰に反対する事実は、何も証明し得ないこと、或いはその根拠は、誤謬であることを示すことによってこれをなすのである。
要するに、恩寵は、自然を排除したり、破壊するものではない。従って、神学と言う、より高い英知が実現しても、この英知は、哲学という自然の次元での英知を排除しない。
おわりに
神学が、少なくともスコラ学的な意味において、厳密な「学知」であることについて、ニコラ教授の思想を踏まえて、筆者なりの考察を展開してみた。未熟な点も多々あり、現代哲学・科学からの挑戦に、果たして的確に答え得るかどうか、些か心許ないが、「解放の神学」、「環境の神学」、「諸宗教の神学」など様々な分野において「神学」が求められている現在、中世的かつ「独断的」ではあるが、一つの神学思考を提示することで、現代にふさわしい、新たなる「神学」の構築に、一つの「たたき台」として多少とも裨益するところがあれば、幸いである。
(完)
(石脇慶總)
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