よう えんしょう
楊延昭
(958~1014)
北宋初期の人物。北宋の名将・楊業の子。本名は楊延朗といい、楊六郎とも呼ばれる。
若い頃から父・楊業に従って遠征し、朔州攻略では先鋒を務めた。その際、流れ矢に腕を貫かれたが、ますます勇敢に戦って朔州城を陥落させた。
楊業死後、父に代わって河北延辺で抗遼の任に就いた。
咸平二年(999年)冬、遼軍が辺境に侵攻したため、遂城の守りに就いた。遼の蕭太后が両軍を率いて遂城を包囲すると、城内すべての丁壮(働き盛りの男)を集めて防衛した。その頃、非常に寒冷だったため、城壁に水をまき散らしてすべてを凍らせ、遼軍の攻撃を防いで退けた。これにより、遂城は「鉄遂城」と呼ばれた。そこで、真宗は「父(楊業)の風格あり」と賞賛した。
翌年、再び遼軍が南下して国境を侵すと、伏兵を用いて遼軍を撃退し、大勝を収めた。
この頃、楊嗣とともに北方辺境を守って「二楊」と呼ばれた。
咸平五年(1002年)、遼軍が保州に侵攻すると、楊嗣とともに救援に向かうが、陣列が整う前に遼軍に襲撃されて敗れた。しかし、これまでの働きぶりから、真宗に後の功績で償うようにと許された。
景徳元年(1004年)、詔により兵力が一万人に増加された。遼の蕭太后が三十万の大軍を二手に分けて南下すると、保州城下で遼軍を退けた。遼軍は幽州に入り、楊延昭を恐れて討って出ることはなかった。戦況が膠着して和議が進められ、遼軍が略奪しながら撤退を始めたため、これを猛追して古城を破った。
その後、高陽関副都部署に転任したが、官吏の仕事に疎かったため、処理を一任された周正が不正を働いた。これを知った真宗が周正を厳しく罰し、しかる後に楊延昭に警告した。
享年五十七。
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