程士恩の葬儀が、盛大に行われていた。新和六年春、士恩が徐昌へ一時帰国をした三カ月後のことである。享年三十五。これからの陶朝を背負うであろう若き英雄の、あまりにも早い最期であった。
程士恩は、生前に残した多大なる功績により、鄭王に封ぜられた。士恩の亡骸は程王廟に納められ、その霊が祀られることとなった。
葬儀には、趙定国を始めとして、朝廷に仕える文武諸官らは言うに及ばず、徐昌に住まう多くの民までもが参列していた。まさに、国を挙げての葬儀であった。
趙定国の許へ程士恩急死の報がもたらされたのは、士恩が徐昌へ帰還したとされるその翌日のことである。謁見が予定されていた場に現れたのは、士恩の兄である程士奉だった。
「程士奉の参内は禁じておる。直ちに追い返すがよい」
「しかし、程都督が参内できぬようになったとのことで、その件でどうしても陛下のお耳に入れておきたいことがあると……」
「程士恩が参らぬだと? 何があったというのだ。彼奴の顔など見たくもないが、致し方あるまい」
謁見を許された程士奉は、趙定国の前へ姿を見せると、恭しく平伏した。
「礼などよい。要件を申せ」
趙定国が不機嫌そうに促すと、程士奉は平伏したまま答えた。
「昨日、我が弟程士恩が我が邸に挨拶をしに参ったのですが、顔色が悪く、どうにも気分が優れぬというので、そのまま奥で休ませておりました。今朝方、弟がなかなか起きて参らぬので、様子を伺いましたところ、その時には既に……」
「既にどうしたというのだ、はっきりと申してみよ!」
趙定国は立ち上がると、程士奉を睨み付けた。
「既に事切れておりました」
趙定国はあまりもの衝撃に言葉を失い、卒倒した。
趙定国は、若き英雄程士恩こそ国家の柱であると思い定め、全幅の信頼を寄せて兵権を預けていた。趙定国が思い描く中原の覇者としての構想に、程士恩はなくてはならない存在だった。それが失われたことで、趙定国は抜け殻と表現するのが相応しいほどに落胆し、その姿を皆の前で隠すことさえ忘れてしまっていた。
程士恩急死の噂に、徐昌の街も大きく揺れた。文字通り、大地を揺るがすが如く、徐昌の民が皆、騒然となったのだった。一時期は、政庁に数万の民が押し寄せるほどの事態にまで発展し、大規模な暴動が発生する直前にまで陥っていたのである。ほんの数年の間であったにもかかわらず、程士恩という名は、英雄として民衆の心の中に深く刻み込まれていたのだった。
また、この訃報を耳にした諸将、特に王真恢を初めとするかつての征西軍の将軍らの動揺は並大抵のものではなかった。
「あの士恩が、こうも簡単に死んでたまるものか。それも、病などと……馬鹿げているにもほどがあるわ! たとえ陛下直々のお言葉であろうとも、俺は断じて信じはせぬ!」
最前線まで赴いた勅使を王真恢が怒鳴りつけて追い返すほど取り乱し、その後、三度に渡って勅使が訪問するに至って、ようやく事態が収拾した。
最後の最後まで士恩の死を受け入れようとしなかった王真恢は、病死の経緯を知ると愕然とした。
「士恩が程家に戻るつもりであったと知っていれば、決して行かせるようなことはしなかった。たとえ徐昌へ帰還するとしても、俺が呂公の言いつけを守って付き従っておれば、斯様なことにはならなかったのだ!」
士恩とその兄たちの確執を目の当たりにしていた真恢には、士恩の変化に気付かなかったことが悔やんでも悔やみきれないことであった。
程士恩の死に伴って、趙定国は賈に対して停戦の申し入れを行うとともに、賈討伐軍の撤退を決定した。和議の道を模索していた賈にとって、これは渡りに船であった。協議は滞りなく行われ、賈は陶に対し臣下の礼をとるとともに陶の元号を奉じ、一方で陶は経済封鎖を解いて歳弊を与えるなどを定めた。その中で、対外的に臣下の礼をとることをもって、郭継徳が大賈皇帝を国内で自称することは黙認することとなった。
王真恢ら討伐軍は帰国の途についた。討伐軍の撤退は、国を挙げて葬儀を行うために、しばらく喪に服すのが道理であるというのが表向きの理由であった。しかし、その真意は、趙定国が、程士恩が死去したことへの喪失感を抱いたためであったことは明らかだった。
盛大に行われた葬儀の参列者の中には、程三兄弟の姿があった。それを見とがめた真恢は、天子の御前であることも忘れて彼らに掴みかかっていた。
「士恩を殺しておきながら、どの面下げて参列などしておるか!」
「何をわけのわからぬことを、無礼であろう! 言い掛かりも甚だしい!」
「控えられよ王将軍、陛下の御前であるぞ!」
異変に気付いた群臣が両者の間に割って入り、宮中が騒然となった。
「貴様らが士恩を逆恨みしていたことを俺が知らぬとでも思うてか!」
「止めよ、王真恢!」
群臣に引き剥がされながら怒声を浴びせる真恢に対し、一際通る制止の声が挙がった。趙定国である。眉を吊り上げ、趙定国はゆっくりと玉座から立ち上がった。
しかし、真恢はそれに耳を貸そうとせず、群臣をかき分けて程三兄弟へ近付こうともがいた。
「朕の命が聞けぬと申すか!」
趙定国は真恢の許へ歩み寄ると、肩に手をかけて有無をいわせぬ口調で命じた。さすがの真恢もこれには逆らうことができず、悔しそうに唇を噛み締めて俯いた。
程三兄弟が勝ち誇ったように胸を反らし、嘲笑する。
「陛下、どうかこの不届者を外へつまみ出してください。我らにはまったく身に覚えのないことにて、憤慨の極みにござります」
程三兄弟が仰々しく畏まって訴えかけると、趙定国はそれを一瞥して答えた。
「其の方らは、金輪際参内するには及ばぬ」
「――は?」
程士奉が呆けた声で問い返した。
「其方ら如きの浅知恵で、朕をたばかることができると思うでない」
趙定国が、眼光鋭く三人を睨み付けた。ようやくその真意を悟った程三兄弟の表情が、たちまち青ざめていった。三兄弟は、顔を隠して身を縮こまらせながら、脱兎の勢いで退出した。
「確固たる証がなければ、朕でもこれ以上裁くことはできぬ。許せ」
趙定国が臣下の面前で頭を垂れた。
その瞬間、王真恢は遂にその場に崩れ落ちた。
賈と和議が結ばれたことで陶朝に平穏が訪れるかに見えた。しかし、外に対しての敵を失ったことで、今度は内部に分裂の兆しが現れた。
枢密使の李光戚が再び職を辞して出家した。元々、還俗したのも程士恩に請われたためであり、その程士恩が世を去って賈との対立にも終止符が打たれたことで、自身の役目は終わったと考えたのである。
枢密使の座が空位となっただけでなく、程士恩死後の大都督も後任が定められないままであった。順当に行けば、副都督の王真恢か陸起のいずれかが選ばれるところであるが、比類なき功績を挙げている点で、朝廷内でも王真恢を推す声が多数を占めていた。
ところが、失意の念に駆られる王真恢はこれを固辞した。
「大都督など、俺の器ではない。俺に士恩の代わりが務まるものか」
そこで名前が挙がったのが陸起であったが、かつての征西軍の将軍を中心に、王真恢より功績の劣る人物をその上位につけるべきではないとの反対論が噴出した。
これには征北軍の将らが強く反発した。陽原の戦いで実際に采配を振るったのは陸起であるから、功績は王真恢に比肩するというのである。彼らは、十分な功績を挙げているならば、王真恢が固辞している以上、陸起を後任に据えるべきであるとし、併せて自身らの待遇改善も訴えた。征北軍の将らは、大都督や枢密使などの要職に征西軍の将軍ばかりが選任されていることや、征西軍の将らに比べて功績が正当に評価されていないことなど、不満を溜め込んでいたのだ。それが、程士恩の死を契機にあふれ出したのである。
双方とも互いに譲らず、日増しに対立の溝は深まって、遂には、方々で征西軍の将らの悪評を吹聴していた孟士義とそれを咎めようとした韓封とが衝突し、あわや決闘という事態にまで発展した。
こうした陶朝の混乱により、賈の野心に再び火が灯された。
杜柔興と鄭侃の二将は密かに郭継徳の許を訪れると、異口同音に中原進攻の許可を求めた。
「我が国は先の戦で大いに疲弊した上に、和議を結んで半年と経っておらぬ。中原を諦めたわけではないが、性急すぎやしないか」
「彼の国の混乱は一時のこと。今なれば、陶朝全土が程士恩の死に深く悲しみ、戦意が著しく低下しております。しかも、我らと和議を結んだことで備えを怠っており、付け入る隙もあります。戦費は陶朝より送られた歳弊を用いれば賄うこともできましょう。これぞまさに、天が我らに与えてくださった千載一遇の好機。手をこまねいてこれを逃せば、二度と中原へ進攻することはかないますまい」
杜柔興の言葉に郭継徳は頭を振って返した。
「だが、和議は我が国も進んで締結したものだ。これを早々に違えては、朕は天下に悪名を残すことになるではないか」
「確かに、約を違えれば、それは陛下の悪評となりましょう。されど、中原を制し、天下に号令することとなれば、悪名は直ちに名声に取って代わられることでしょう」
その言葉を聞き、郭継徳はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「たとえ暴君と謗られようとも、中原を制することを躊躇いはせぬ。其方らの決意が如何ほどのものか計ったまでよ」
「では、陛下――」
「直ちに軍を整えよ。中原に我らの新しき国を築き上げるのだ。陶の民といえども、いずれは我が臣民となる者ども故、みだりに奪い、殺してはならぬ。だが、刃向かう者は、何人であろうとも容赦するには及ばぬ!」
杜柔興らは、すぐさま、そして密かに出陣の準備に取りかかった。長期遠征に必要な武具や兵糧、軍馬を揃え、各地に散らばる将軍らを招集し、総勢十万余の大軍に臨戦態勢をとらせた。しかし、その大軍を一所に集結させることはしていない。大軍を大軍として集めてしまえば、それだけでも目立って、陶朝に気取られてしまうからだ。そのため杜柔興は、陣を七段構えとして分散させ、一度に大軍が動くことを避けたのである。
杜柔興は七つの陣を、それぞれ時をずらして鄂州、そして鄭州へと向かわせた。先鋒は、天下無双の誉れ高い鄭侃率いる騎馬一万五千。次いで歩兵一万ずつを率いる蒋靖と虞景弼。この三陣を第一軍団として一挙に鄭州を陥れる算段であった。
賈の第一軍団が鄭州に姿を現したのは、新和六年初秋のことであった。賈の郭継徳らが陶朝討伐の密談を行った、およそ二カ月後のことである。
鄭州には、潘智臣を守将として三万の兵が駐屯していた。しかし、鄭侃率いる騎兵一万五千が夜陰に紛れて迫っていることを察知することができず、突如現れた敵兵の姿に城内の兵士たちは、たちまち混乱をきたした。
鄭州は、わずか二日で陥落した。後続の蒋靖、虞景弼両隊が到着するとともに、勝敗が決したのである。鄭州城内の兵士の士気は、著しく低いものであった。賈軍が城壁に取り付いて攻め立てても、撃ちかけてくる矢も少なく、抵抗らしい抵抗が殆どなかった。
そもそも、鄭侃隊が鄭州に取り付くまで、その存在にまったく気付かなかったという時点で、既に敗北が決していたといえる。程士恩の死を契機に、陶軍内部に大きな緩みが生じていた証であった。
賈軍は、後詰めの到着を待たずしてさらに進軍を続けると、行く先々で降伏を呼びかけ、従う者は寛大に全てを受け入れ、抵抗する者は老若男女を問わず皆殺しにした。その噂を聞き付けた街の役人たちは、賈軍の姿を見るや先を争って無条件降伏し、徐昌へ近付くほどにその数は増していった。
賈軍の包囲を脱して逃げ帰った潘智臣によって、この賈軍侵攻の報がようやく朝廷にもたらされたのは、鄭州が陥落した五日後のことである。それまで陶朝は、賈軍侵攻の一切を知らずにいた。そして、ようやく陶軍が賈軍に対する迎撃態勢を整えたのは、先鋒の鄭侃隊が徐昌の西およそ三百里(約百五十キロ)まで迫った頃であった。
勢いに乗る賈軍を迎え撃つのは、王真恢を大将とする禁軍六万。付き従う将軍は、韓封や潘智臣などのかつての征西軍の者たちだけであった。周進ら征北軍の将も出陣したが、対立する王真恢たちの手柄とされることを嫌って日和見を決め込んだのである。
指揮官らの不和は兵士たちにも伝染し、動揺させた。士気は嫌戦の雰囲気が漂うほどに低く、始まる前から既に足並みが乱れていた。これでは、まともな戦などできるはずもなく、さすがの勇将王真恢にも戦況を覆すことは不可能であった。
王真恢ら率いる禁軍六万は、鄭侃隊を初めとする三万余の賈軍の前に、いとも容易く撃破された。この戦いで韓封や潘智臣が討ち死にし、王真恢は、数十騎の手勢で五度鄭侃本隊に突撃を敢行するも、遂に鄭侃を討ち取ることがかなわず、そのまま行方を眩ませた。
王真恢らが敗れたことで、宮中では瞬く間に降伏論が飛び交うようになっていた。出撃していたはずの征北軍の将らは、王真恢らとの共闘を拒んだ罪を問われることを恐れて逃亡しており、もはや賈軍を退けることができる者は残っていないと皆が諦めていたのだ。
「どうかここは、陛下だけでも都を脱し、生き延びてくださいますよう、伏してお願いし奉ります」
賈軍迫るの報に官僚たちが右往左往する中、宰相劉嘉が趙定国を説き伏せようと必死の形相で懇願を続けていた。
「民あってこその国家、国家あってこその天子である。民を見捨てて、朕独りだけが生き延びることなどできようものか。朕は決してここを動かぬ。己の頸を差し出してでも民の命を救うが天子たる朕の役目であろう!」
しかし趙定国は、劉嘉の言葉に決して首を縦に振ろうとはせず、頑として譲らなかった。
賈軍が徐昌郊外に姿を現したのは、その二日後のことだった。続々と集結する軍勢は、既に十万を超していた。後続の部隊がようやく追いつき、合流したのである。王真恢を破ってなおも増え続ける大軍を前にして、徐昌の守備兵たちは完全に戦意を失った。度重なる敗戦に加え、程士恩や王真恢といった救国の英雄さえも、既に自軍から姿を消している。もはや、戦っても勝てるなどとは思えなくなっていた。
城内では、城門を開け放って降伏しようとの声が高まっていた。もはや勝ち目はない。ならば、敵に降って生き延びよう。敵と刃を交える以前に戦う気力を失ってしまった者たちは、そうすれば敵に許されるものだと本気で信じていた。
その中にあって、ただ独り宰相劉嘉だけは、最後まで徹底抗戦を主張した。まだ負けていない。徐昌の堅固な城壁も、禁軍もまだ十分な兵力を残している。そう強く訴え続けていたのだ。穏健派の筆頭として知られる劉嘉だが、祖国を守り抜く気概に関しては人後に落ちないのであった。だが、その意見が受け入れられる日が訪れることはなかった。
賈軍が徐昌を包囲して十日余りが経過した頃、城門が内側から開け放たれた。保身に走った一部の官僚が共謀し、賈軍に内通して城内に招き入れたのである。
優に十万を超す賈の大軍が、陶朝の都を蹂躙していった。
「おのれ蛮族どもめ! 教養のかけらも持たぬ野蛮人どもが、思い上がるでないわ!」
趙定国は激昂し、近衛のわずかな兵を引き連れて、宮廷より討って出ようとする気配を見せた。
「それはなりませぬぞ、陛下!」
趙定国の行く手を遮ったのは、またも劉嘉であった。
「賈軍の蛮行許すまじきことにござりますが、そう思えばこそ、今は堪え忍び、再起を図ることこそ肝要にござります!」
趙定国が、鋭く劉嘉を睨み付けた。腰の剣に手をかけ、全身から殺気をみなぎらせる。しかし劉嘉は、怯むことなく趙定国の前に立ちはだかっていた。
「劉嘉、そこを退け!」
「我が身に代えましても、ここをお通しするわけには参りませぬ!」
「貴様!」
趙定国が劉嘉に怒声を浴びせかけた。しかし劉嘉は、負けじと趙定国を圧倒するような凄まじい気迫が込められた眼差しを向けたのである。
数瞬、睨み合いが続く。が、次の瞬間、
「直ちに徐昌を脱する。退路を確保せよ!」
意を決した趙定国が、劉嘉の言に従った。
「既に万事手筈は整っております!」
趙定国のその決断に、劉嘉は即座に答えた。
この後、徐昌が賈軍の襲撃によって混乱する中、趙定国らの姿は忽然と消え失せたのであった。
徐昌は中原の覇者を象徴する都であった。辺境に住まう人々にとって、そこは雲の上の存在であり、足を踏み入れることさえかなわぬ別世界に等しかった。徐昌への攻撃に当たり略奪の類は固く禁じられていたが、手の届かぬ存在であった中原の都を制圧する快感の前に、理性は容易く破壊された。
徐昌は賈軍兵士たちの為すがままに、殺戮や略奪が繰り広げられる地獄と化していた。特に、富の集中する皇族や高級官僚たちの居住区は、略奪者たちにとっての恰好の狩り場であった。広い邸へ押し入れば、次から次と溢れんばかりの財の山がわき出てくるのだ。それは、いくら持ち去ろうとも尽きることがないと錯覚するほどのものであり、そうした噂がさらなる略奪者を呼び寄せることへと繋がっていた。
都の各所が荒し尽くされる中で、当の賈軍兵士たちに厳重に守られた一角が存在していた。そこへ近付く者は、たとえ味方の兵士であろうとも、容赦なく斬り殺されるほどの徹底ぶりであった。
それは、程王廟と呼ばれる質素な建物であった。程士恩が祀られているという、霊廟である。その建物の前に、杜柔興が無言で立ち尽くしていた。
「鄭将軍が手勢を率いて事態の収拾に当たられておりますが、一向に収まる気配がありませぬ。これほど略奪が横行しては、処罰することもかないませぬ」
「そうか――」
孫弘胤からの報告に杜柔興は上の空といった様子で返した。
「中原を制するならば、この都を食い荒らすなど以ての外です。これでは、中原制覇どころか、この地に留まることさえできなくなりましょう。早急に手を打たねば、取り返しのつかぬ事態に――殿、如何なされました」
孫弘胤が怪訝そうな眼差しを向けると、杜柔興はそれを一瞥し、再び視線を程王廟へと戻した。
杜柔興の願いは、皮肉な形で叶えられた。これで、誰憚ることなく、思う存分に彼の者へ語りかけることができる。しかし、肝心の程士恩の言葉が返ってくることは、永遠に訪れることがない。
程士恩の死がなければ、杜柔興がこの地に立つことはかなわないはずであった。おそらく、程士恩が存命であったならば、杜柔興の命はなく、賈は陶朝の前に膝を屈していたことだろう。陶朝の威信も高まってますます繁栄し、徐昌はいうに及ばず鄭州すら制圧できずに、中原への道は永遠に断たれていたに違いない。程士恩の死によって、陶賈両国の運命は大きく変えられたのだ。
果たして程士恩は、己の死が招いたこの惨状に何を思うのだろうか。
答えが得られるはずもない疑問を、杜柔興は胸中で投げかけた。
「狼藉を働く者は、誰であろうとこの廟へ近付けてはならぬ。近付けば問答無用で斬って捨てよ。改めて皆に申し伝えるのだ」
先程とは打って変わって、杜柔興の声が鋭く響いた。
「俺は鄭侃と合流して事態の収拾を図る。間もなく陛下も到着されるであろうが、この有様ではとてもお迎えすることはかなわぬ。それまでにやらねばならぬことが山積しておるわ」
杜柔興は一隊を召集して馬上の人となると、ふと思い出したように振り返った。
程王廟は、ただ静かに佇んでいた。
(了)
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