程士恩の名は、徐昌防衛戦以前は全くの無名で、突如彗星の如く歴史の表舞台に登場したものだった。しかし今やその名は徐昌で知らぬ者が存在しないといわれるほど、広く天下に轟いていた。特に、徐昌の民衆にとっては絶望の淵から救い出してくれた当代随一の英雄であり、叩き上げの軍人ながら名門の出自であることが知れると、羨望する家柄と謎多き経歴に多くの民が己の望む英雄像を重ねて心酔した。
国威発揚のために英雄の登場を切望していた趙定国にとって、程士恩は打って付けの存在であった。趙定国は程士恩を絶対的な英雄として祭り上げようと、その名声を高める様々な噂を流布させて民衆を煽った。それに応えるように、講談師たちが我先にと程士恩の英雄譚を創作し、語ることで、程士恩の名声は日増しに高められていったのだった。
その栄光の陰に隠れるようにして、程士恩の実家たる程家は、凋落の道を辿っていた。徐昌防衛戦の折りに逃亡を図ったことが人々の口の端に上り、やがて趙定国の知るところとなり、その逆鱗に触れたのである。
「天子に忠誠を誓った身でありながら、国難に際して我が身かわいさに保身に走るとは、たとえ程士恩の実兄といえども許し難き所業である」
趙定国は直ちに程士奉ら三兄弟の職を解き、出仕を禁じた。
程三兄弟失脚の噂が世に広められると、いつの頃からか、程士恩が三人の実兄によって不遇の時を過ごしていたことも知れ渡るようになっていた。忠勇あふれる程士恩が不義不忠の兄らに虐げられる構図は、民衆の義侠心を煽って程士恩の名をさらに高め、程家の悪評に拍車をかけることへとつながっていくのであった。
程士奉らは屈辱に打ちのめされた。代々陶朝で数々の重職を歴任してきた程家の名は彼らの誇りであった。しかし、自らその家名に泥を塗ってしまったのだ。自尊心が肥大した彼らでは、その事実を受け入れることは容易ではなく、元凶の末弟を人知れず恨み罵ることでしか気を紛らわすことができなかった。
徐昌防衛戦が程士恩とその兄たちとの明暗をくっきりと分けたのである。
新和六年の正月を、士恩は陣中で迎えることとなった。賈討伐の兵を起こして、既に二年が経とうとしていた。
この出兵は、賈の郭継徳による帝位僭称に端を発し、中原の覇者としての面目を著しく傷付けられたことによって出陣にまで至ったのである。天子の名誉を回復するためには、壮大で堂々たる遠征を敢行して広く天下にその権威を示さなければならない。英雄程士恩率いる十五万の大軍は、それを体現するに相応しいものであった。民衆は、この大遠征に早期の賈軍討伐による華々しい戦果を望んでいた。
反面、経済封鎖を最大限に活かすには、十分な時が必要であった。士恩は鄭州を拠点に据えて陣を構え、全軍に守りを固めて静観するように命じた。しかし、将兵の多くは、民衆の期待を受けて高揚し、膠着した事態に焦れて不満を募らせていた。それを受け、周進と韓封の二将が代表して直訴した。
「将兵らの士気は盛んで、出撃の命令を今や遅しと待ちわびております。いたずらに時を過ごせば士気が衰え、好機を逃してしまいます。このままでは、兵らが都督殿に二心ありと疑念を抱いてしまいますぞ!」
「我らは賈軍を討ち滅ぼすために遠路はるばるやって参ったのだ。それが、討って出ることなく閉じ籠もっておるなど、臆病風に吹かれたとしか思えぬ!」
士恩は、二将の剣幕に圧されまいとしながら理を説いた。
「鄂州は西を天嶺、北を秦山(しんざん)に囲まれ、街道が狭く大軍で攻め入るに難い土地にござります。如何に我が軍の士気が高くとも、地の利を得ずに戦って勝てるほど、賈軍は甘い相手ではござりませぬ」
「なんと情けない、奴らは多くの仲間や家族を殺した仇でござるぞ! 兵らは仇討ちするその時を一日千秋の思いで待っておったのだ。程都督はその思いを踏みにじるつもりか!」
激昂して詰め寄った韓封の言葉に、士恩は表情を曇らせた。その様子に気付いた韓封は、はっと我に返ると己の軽率な発言を後悔した。
韓封は士恩も最愛の妻子を殺されていたことを思い出した。妻を娶ったことでそれまで以上に厳しく己を律する姿や、生まれたばかりの幼子を囲む仲睦まじい姿など、士恩が妻子に注ぐ深い愛情を、韓封は目の当たりにしていた。士恩の立場も、他の兵士らと何ら変わるものではないはずだったのだ。
「申し訳ござらぬ、程都督も妻子を……」
韓封は深々と頭を垂れて言葉を詰まらせた。
しかし、士恩の胸中には、妻子を失った悲しみや復讐心が存在しなかった。士恩の心に生じたのは、当然抱くはずの感情を持ち合わせないことに対する後ろめたさである。
幸いなことに、韓封は士恩の心中に気付かず、誤解しているようであった。ならば、それを利用しない手はない。普段以上に頭の中が冷静になっていくことを自覚しながら、士恩はそう思い至った。
「韓将軍、察してくだされ――」
韓封が平伏した。周進は韓封の豹変ぶりに驚きながらも、事情を察してそれに倣った。
「怒りにまかせて斬り掛かるばかりが仇討ちではありませぬ。それで我らが無為に命を落としたとすれば、死んでいった者たちも喜びはしないでしょう。某は、仲間や妻子の死を無駄にせぬためにも、目先の復讐に囚われず、大いなる勝利を手にしなければならぬと考えております。中原との国交を断たれた賈はやがて干上がり、自滅の道を辿るか、あるいは、地の利を捨てて討って出ることとなりましょう。我らが攻勢に出るは、その時です。それまでは、たとえ辛くとも耐えねばなりませぬ」
「程都督が耐え苦しんでおられるというに、我らのみが軽々に復讐を口にしては道理が立たぬ。皆にはこの韓封がしかと申し聞かせ、決して程都督の手を煩わせることはいたさぬ」
以後、陣中で決戦を口にする者はただの一人も現れることはなかった。
陶軍に攻め掛かってくる気配が一向に見られないことは、賈にとって想定外の事態であった。
中原から鄂州への進攻が困難であるのと同様に、鄂州から中原へ討って出ることも容易ではなく、中原へ進攻することを考えるならば、陶軍を誘い出して障害を取り除いた後に行うことが賢明だった。先に郭継徳が帝位に就いた背景には、そのような事情も含まれていた。
陶軍が十五万の遠征軍を派遣したところまでは予定通りだった。そして、従軍する将兵が国家の威信を傷付けられた怒りと復讐心に駆られていることは目に見えていた。事実、遠征軍内部だけでなく、朝廷内にも交戦を強く主張する声が多くあり、この状況下では、たとえ経済封鎖により長期戦が陶軍にとって有利であっても、血気に逸る将兵を抑え込むことができない公算が大きかった。
「どれほど挑発しようと、まるで見向きもせぬ。討って出ようにも、陶の陣容は固く付け入る隙も見当たらぬ。これでは手も足も出ぬわ!」
幾度となく繰り返された挑発の任から戻った鄭侃が、怒りにまかせて兜を投げ捨てた。杜柔興はその兜を拾い上げ、軽く埃を払い落として同輩に手渡した。
「どうやら、程士恩なる者の器を見誤っていたようだ。彼の者は、先の徐昌防衛と陽原の戦いのいずれも即戦で勝利を得ておった。この手合いは得てして持久戦を不得手とするものだが、陶軍は未だに高い士気を保ちながらも、如何なる挑発にも動じる様子を見せることがない。緩急自在の用兵をよく心得ておる証だ。その上、周囲の言動も意に介さず、冷静に持久戦の利を説いて上奏し、趙定国の勅許を得て主戦論を封じ込めるほどの胆力と見識を持ち合わせておる。これぞまさに、英雄の為せる業といえよう」
語りながら、自然と杜柔興の口元に笑みがこぼれる。
「嬉しそうに敵将を褒める奴があるか!」
「済まぬ。敵ながら、これほどの英雄を目の当たりにする機会もそうそうあるものではないからな。相見えて直に言葉を交わしてみたいと思ったのだ」
悪びれる様子もなく、杜柔興は笑い飛ばした。
「下らぬことを申して笑っておる場合ではないわ。この状況を如何にして打開するか、その手だてを考えるのが貴様の役目であろう!」
「策がないわけではない」
「ならば、出し惜しみなどせず、早急に手を打たぬか」
「和議を結ぶことになるが、それでもよいのか」
鄭侃は絶句し、杜柔興を睨み付けた。
「国交が断たれて我が国の疲弊著しく、これ以上戦を続けることもかなわぬとなれば、道はそれしかあるまい。幸い、疲弊は陶も同様故、両国の利害は一致しておる。落としどころとしては、悪い話でもなかろう」
「……道理ではある。が、我が国から和議を持ち出しては、陛下の面目が立つまい」
「聡明な陛下なれば、和議の利も理解しておられよう。斯様な仕儀と相成ったは、全て俺の不明の致すところ。ここは、これを差し出して収めるより他あるまい」
杜柔興は苦笑しながら、自らの頸を叩いて見せた。
「真恢に申したら、おそらく笑われるであろうな」
書状の文面に目をやりながら、士恩は思わず苦笑いを浮かべていた。
長兄士奉からの書状であった。ともに酒を酌み交わそうと、士恩を酒宴に誘っている内容である。士恩はこの文面を目にしたとき、不意に懐かしさで胸が締め付けられる想いに駆られたのだった。
これまでの士恩は、肉親にいついかなる時も否定され、認められることがなかった。そして、その士恩の心を唯一癒やしてくれるはずであった妻と娘は既に亡く、空虚な心だけが取り残されていた。それが今、兄弟四人水入らずで飲み明かそうと兄の方から申し出てきている。そこに綴られている言葉が心に染み入り、満たしていくようであった。
士恩は初めて、兄たちに認められたような気がした。既に兄らとは決別したものと思い定めていたにもかかわらず、士恩の心は大きく揺れ動いていた。
兄からの書状は、一年ほど前に彼らが失脚してしばらくした頃から、頻繁に何通も届くようになっていた。その全てを集めれば、十数通にも及ぶ。そこには、程家の家名を背負い続けてきたことの辛さや、それが重荷であったとことなど、兄が決して見せることはなかった弱音の数々や、日々士恩に辛く当たってしまったことを後悔していると謝罪する言葉も書き綴られていたのだ。そして今回の書状には、初めて再会を求める内容が書き記されていたのだった。
遠征軍では将兵の士気を維持するために一定数を数カ月ごとに徐昌へ帰還させて交代していたが、士恩と副将の真恢の二人だけは、徐昌を発ってからの約二年、一度たりとも前線から離れることがなかった。奇しくも、二年前の決別以来、兄らと顔を合わせる機会そのものが生じ得なかったが、近頃は長期従軍を案じた趙定国が士恩に対して一時帰国を促すようになっていた。現状では当初の足並みの乱れも収まり、李光戚や王真恢、韓封らの下で将兵の士気は保たれ、士恩が直接携わる場面は皆無に等しかった。短期であれば、大将の士恩が不在となっても支障はないように思われた。
それから半月余り後、徐昌帰還の準備を終えた士恩は、帰還予定の将兵らとともに諸将に見送られながら鄭州を後にした。真恢だけが、鄭州を発ってもしばらく帰還兵の一行に同行していた。
「真恢、其方も一度は都に戻ったらどうだ」
「冗談ではない。都など、俺の性に合わぬ。俺は、今のように戦場に我が身を置いておる方が落ち着くのだ」
「いかにも真恢らしい言葉だな」
二人は顔を見合わせて笑い声を上げた。
「俺は、この辺りで戻ることとしよう」
「遠方までの見送り、済まぬな」
「此度の戦は暇だからな、退屈凌ぎにはちょうどよい。それより、其方こそ徐昌では身体に気を付けるのだぞ」
「ああ、承知しておる。では真恢、俺が戻るまで、後のことは其方に任せたぞ」
「陛下にくれぐれもよろしく伝えておいてくれ」
互いに簡単な別れの挨拶を交わした後、真恢は颯爽と馬を駆って鄭州へと戻っていった。
徐昌へ帰還した士恩は、程家邸へとその足を向けた。既に日が西へ傾いており、天子に謁見するには時間が遅すぎたのである。
士恩が程家邸を訪れたのは、実に十年ぶりのことであった。程家邸の外観は、士恩の記憶より寂れた雰囲気が感じられた。財力が残っていても、朝廷を追われた影響を隠すことはできないのだろう。この家にはいい思い出などなかったが、悲しいものがあった。
士恩は、程家の門を叩こうか、このまま何もせずに立ち去ってしまおうか、迷いに迷って邸の周辺を何度も行き来していた。かつては己が住んでいた邸だったとはいえ、無断でこの家を飛び出して十年も帰らなかったこともあって、その敷居をまたぐのには言いしれぬ気後れのようなものを感じてしまうのだ。
門の前に立ち止まったのが何度目か既に分からなくなった頃、不意に門が内側から開かれた。
「――おお四弟、遅かったではないか!」
現れたのは、長兄士奉であった。
「何をしておったのだ。遠征軍が帰還してしずいぶん経ったが、あまりにも遅かった故、これから探しに参ろうかと思っていたところだったのだぞ」
心の準備もままならぬうちに兄との再会を果たした士恩は、戸惑いの色を隠すことができなかった。しかし、士奉は門前に士恩の姿があったことにはさほど驚いた様子も見せず、久方ぶりに弟の顔を見ることができたことを喜んで見せた。
「近くまで参っておるなら、何故すぐに報せぬのだ。すぐにでも人をやって迎えに行かせたものを。まあ、よい。斯様なところで立ち話しておっても始まらぬ。さっさと邸へ入らぬか」
士奉は士恩の手を取ると、躊躇う士恩に構うことなく強引に邸内へと連れ込んでいったのだった。
士恩は、予想外の兄の対応に困惑していた。士恩への接し方に、かつての棘が感じられないのだ。無論、士恩の許に届けられた無数の書状からも、それまで兄から感じることのなかった穏和な雰囲気が滲み出ていたのだが、実際に会ってみるまではそれを簡単に信じることはできなかった。直に再会した今でも、実のところ信じられないというのが本心だった。しかし、それは疑ってかかっているというよりも、夢でも見ているのではないかというような、どこか現実離れした感覚から来るものであった。
士恩は、長兄の勢いに半ば圧倒されながら、十年ぶりの生家に足を踏み入れた。
宴の支度が、既に整っていた。席は四つ用意されている。それぞれの卓には、腕によりをかけて作られたであろう美食や美酒が並べられていた。そして、たった今、それらが用意されたのだろうか、料理からは湯気が微かに立ち上り、香ばしい匂いが鼻をくすぐるのである。
「今宵は兄弟四人、余人を交えずに飲み明かすつもりでおったからな。酒や料理は召使いに先に運ばせて、下がらせておるのだ」
士奉が嬉しそうに士恩に語って聞かせた。
「大兄、四弟が参ったのでござりますか」
士奉の声を聞き付けた次兄の士明が奥から姿を見せた。そして、士明にやや遅れて、三兄の士淵も顔を見せた。二人の兄とは異なって、士淵は士恩の顔を一瞥すると、どこかばつの悪そうな表情を見せて、そっぽを向いてしまった。
「大兄、やはり俺は下がらせていただきます」
「今更何を申すか。よくよく話し合ったであろう。四弟が戻れば、兄弟四人で集まり、腹を割って語り明かすのだ、と。一度は我が程家を飛び出した四弟も、こうして顔を見せてくれたではないか。この期に及んで、一体何を躊躇うというのだ。よいか、わしは兄弟で酒を酌み交わすと決めたのだぞ。まさか其方は、この兄に逆らうつもりではあるまいな」
士淵は渋面になって唸ったが、家長の士奉にそうまで言われては、従わないわけにはいかなかった。渋々といった様子ではあったが、士淵はようやく着座した。
三人の兄は皆、職を解かれた身であった。代々一族からは朝廷の高官を数多く輩出し、自身らも若くしてその才覚を認められて出世街道をひた走り続けてきた。その彼らにとってみれば、この急転直下の失脚劇は、まさに先祖代々の名誉を貶める大事に違いなかった。おそらく、彼らのその誇りは、著しく傷付けられたことであろう。代々蓄え続けてきた財がある限り、彼らが食に不足するような事態だけは免れるであろうが、士淵の様子などを見ていれば、こうして目の前に並べられた美酒美食の数々も、どこか虚しいものに映ってしまうのである。だが、程家の人間にとって絶対の存在であった誇りを失った今の彼らからは、以前のような高圧的で不遜な雰囲気が感じられなくなっていた。
「これ、四弟。いつまでぼさっと突っ立っておるつもりなのだ。其方も席に着かぬか。今宵は、其方の帰郷を祝う宴なのだ。主賓の其方が着座せぬことには、宴を始めることができぬではないか」
士奉が急き立てるようにして、士恩に着席を促した。
これまで士恩が向けられていたような命令口調とはまるで異なっていた。有無を言わせぬ頭から抑え付けるような雰囲気はなく、柔和で温かみが感じられた。士恩は一瞬、息を詰まらせた。何かが、身体の奥底でうずいた。士恩は、俯き加減で自分の席に慌てて座った。兄たちには、今の自分の表情を見せたくないという衝動に駆られたのだ。
「何をそこまで慌てておるのだ」
「食い意地でも張っておるのでござろうよ」
士恩の様子に呆れた様子で言った士明に、士淵が憮然とした態度で答えた。
「なんと、そこまで腹が空いておったと申すのか。しかし、慌てずともこれほどの料理は、走って逃げたりせぬぞ」
士奉は大袈裟に料理を指し示し、大声で笑い出した。士明が、兄の笑い声につられるように、声を揃えて笑い始めた。そして、しかめっ面をしていた士淵も、初めは肩を震わせて堪えていたようだが、次第に我慢ができなくなって声を立てて笑い出したのであった。
「何がおかしいのでござりますか、兄上!」
思わず、士恩はむきになって士奉らに食ってかかった。すると三人は、一旦ぴたりと笑いを止め、顔を見合わせると再び三人で声を合わせて笑い出した。
「あ……兄上!」
「むきになるな、四弟。よけいに笑いがこみ上げてくるではないか」
「四弟もまだまだ子供よのう」
士奉と士明の二人が、からかうような口調で言った。言われて士恩ははっと気付き、恥ずかしそうに顔を俯かせた。
しかし、嫌な気分ではなかった。何かが、胸の奥の方からこみ上げてくるように、熱く、そして息が詰まりそうになるのだ。
不意に、目頭までもが熱くなっていた。視界が、霞んで見える。大粒の涙がこぼれていた。止めようと思っても、止めることができない。次々と涙が溢れ、胸が締め付けられるようで、息苦しかった。
「四弟の奴、まだ宴も始まっておらぬというに、もう酔っているようだ」
「大兄、某はまだ、酔ってなどおりませぬ!」
士恩は、涙を拭いながら、またもむきになって反論した。
「いや、酔っぱらいという奴は皆、酔っておらぬと申すものなのだ。のう、三弟」
「二兄! それは、某のことを申しておるのでござるか!」
兄弟四人、皆が笑っていた。笑いすぎて苦しくなるほど、四人は笑い続けていた。
「いつまでもこうしておっては、宴が始まらぬ。さあ、まずは乾杯しようではないか!」
士奉が、腹を抱えながら宣言するように言った。
兄弟が、お互いに酒を注ぎ合った。士奉は士恩に、士明は士奉に、士淵は士明に、そして士恩は士淵に。それぞれに酒が行き渡ると、四人は杯を掲げながら立ち上がった。
「兄弟四人の、再会を祝して――」
再び、涙がこみ上げてくるのを士恩は感じた。四人の兄弟が一堂に会し、笑顔で杯を傾けるのは、初めてのことだった。
つい数年前までは、このような瞬間が訪れようとは、まさに夢にも思わなかったことであった。程家とは、兄弟とは、もはや二度と絆が結ばれることはないであろうと確信していたのだ。だが、同じ血によって結ばれた縁は、それほど容易く断ち切ることのできるものではなかった。士恩は、そのことを強く実感したのであった。
「乾杯!」
士奉が杯を掲げた。士明が、士淵が、そして士恩がそれに杯を重ねていく。
「乾杯!」
四人の声が一つに重ねられた。
こみ上げる涙を堪えながら、士恩は再会の杯を飲み干した。
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