夜明けが近付いていた。
「何をしている、早く積み込まぬか!」
程士淵が、召使いたちを急き立てていた。血相を変え、今にも鞭で打ち据えんばかりの剣幕で怒鳴り散らしている。
程家邸の家財を荷台に積み込む作業は、昨日の夕刻頃から徹夜で続けられていた。邸内の召使いたち全てを動員していたが、あまりにも膨大な量のために作業は遅々として進まなかった。大型の荷駄数十台にも及ぶであろう程家の家財は、ようやくその半分の積み込みを終えようとしていたところであった。
勅命によって派遣された禁軍十五万の大軍勢が一日ともたずに敗れ去ったのが、つい五日前のことである。その報せは、やがて徐昌市街にも知れ渡り、半信半疑といった様子で城内が騒然となった。そして、数日後に契闖連合軍が徐昌に大挙するに至って、徐昌に住まう人々は皆、ようやくその現実を真に理解して色を失った。
城内はたちまち恐慌に陥った。早い者は着の身着のままで徐昌から逃げ出していたが、大半は家財を集めることに時間を取られたり右往左往したりするばかりで、逃げ出そうとする頃には、連合軍が徐昌の包囲に取り掛かって城外へ出ることはかなわなかった。
程兄弟は、官僚でありながら職務を顧みず、逃亡を図ろうとしていた。しかし、先祖代々より蓄えられた富が蛮族に奪われることを惜しむあまり、積み込み作業に手間取って脱出の機会を逸した。それでも、一縷の望みをかけて作業を継続させていたのだった。
「二弟の奴は、まだ戻らぬのか!」
程士奉が、苛立ちを顕わにわめいていた。夜半に城外がにわかに騒がしくなり、蛮族の総攻撃が開始されたのではないかと恐れを抱いて、程士明に様子見を命じていたのだ。
「まだ、戻られておりませぬ。今しばらく、お待ちくださりますように……」
「今しばらく、今しばらくと、一体何度申せば気が済むのだ!」
程士奉が、癇癪を起こして弟を怒鳴りつけた。
「何をぐずぐずしておるか!」
そして、程士奉は鞭を手に取り、一向に家財の積み込みを終えることができない召使いたちを、何度も激しく打ち据えたのだった。
その時、遙か遠くの西門が再び騒然となった。程士淵が何事かと耳を澄ましてみれば、それが城内から沸き起こる歓声であることを聞き取ることができた。
「大兄、これはもしや……」
「なんだと申すのだ!」
程士奉は怒りに我を忘れて、その歓声に気付いていないようだ。
「歓声が聞こえてくるのです!」
「大兄、大兄!」
程士淵が興奮して叫ぶと、そこへ程士明が喜々とした様子で駆け戻ってきた。
「お喜びください、大兄。敵が皆、逃げて行きましたぞ!」
「それは真であろうな!」
「真にござります。お聞きください、この大歓声を! 徐昌の民が皆、歓喜の声をあげておるのでござります。これが、敵が逃げ去った、何よりの証にござりますぞ!」
「そうか……そうか!」
程士奉が今にも飛び跳ねんばかりの勢いでその喜びを表した。
「助かったのでござりますな、大兄!」
「左様、我らは助かったのだ!」
程兄弟は互いに肩を抱き合うようにして喜びを分かち合った。
「祝杯だ。祝杯を挙げるぞ!」
程士奉が、目を輝かせながら提案した。まるで、自分が敵を追い払ったかのように、誇らしげな表情であった。
「それは名案にござります。のう、三弟。其方もそう思うであろう」
「御意にござります!」
「そうか、名案であるか!」
程士奉が、大声を上げて笑っていた。つい先程まで、我を忘れて怒鳴り散らしていたことが嘘のようである。
「誰ぞ、宴の支度をいたせ!」
そして程士奉は、家財を荷駄に運び込もうとしていた召使いたちに、喜びに満ち溢れた声で新たな命令を与えていた。
救援に駆け付けた五千騎余りの征西軍は、歓喜の声とともに徐昌へ迎え入れられた。入城を果たした征西軍の面々は人々の声に応えながらも、素直にそれを喜ぶことができるような心境ではなかった。
呂文忠が乱戦の中で深手を負い、意識不明の重体となっていた。左の脇腹を槍で貫かれ、落馬した際に激しく頭を打ち付けたのである。韓封らが直ちに医師を呼び付け、手当を施すようにと手配していたが、それですぐに安心することはできないのであった。
契闖連合軍撃退の報は、急使によって趙定国の許へも伝えられていた。勝利の報せを耳にした趙定国は、顔を紅潮させ手を叩いて大喜びした。
「さすがは呂文忠、噂に違わぬ名将ぶりよ! その者たちを、すぐにここへ連れて参るのだ。褒美を取らせねばならぬ!」
「陛下、それはなりませぬ」
勝利の興奮に水を差すように、劉嘉が口を挟んだ。
「其方は、また朕の意に反するつもりなのだな」
趙定国が、半眼になって劉嘉を睨み付ける。つい先頃も、趙定国自ら出陣しようとした際にそれを阻止したもの劉嘉であった。劉嘉だけでなく、朱允群なども趙定国の行いに反発して何かと口出しをしてくるので、日頃から趙定国は内心で煙たがっていた。しかし、普段は彼らの言にも理あるのを認めて我慢していたが、先頃の一件があったことで、趙定国はうんざりしていた。
「いいえ、陛下。それは思い違いにござります。某は、決して陛下の意に背くつもりはござりませぬ。功績ある者に褒美をとらせるは、理にかなったことにござります。功績を正しく評価し、それに見合うだけの恩賞が為されるのであれば、むしろそれを奨励すべきでありましょう。しかしながら、此度は、直ちに褒美を与えることはよきお考えとは申せませぬ。先の戦で蛮族を追い返したとはいえ、その全てを討ち滅ぼしたわけでもなく、領土を奪われたままでござります。これでは勝利したとは言い難く、しかも敵は十万にも及ぶ大軍勢を擁しておりました故、いずれ近いうちに再起を図って再び攻め寄せて参ることも考えられましょう。未だ戦の終結のめどが立っておらぬ現状において、いたずらに褒美を与えるは、将兵らに戦が終わったものと勘違いさせ、気の緩みを生じさせるに相違ござりませぬ。ここは、今しばらく情勢を見極め、事が収まった後に、改めて恩賞を与えるのがよろしいかと存じます」
趙定国が、鋭い眼差しで劉嘉を睨んだ。だが、劉嘉は怖じ気付くどころか、まるで意に介した様子も見せず、澄ました表情をしていた。
「其方の言は、もっともである」
趙定国が、溜息混じりに答えた。劉嘉は、趙定国が素直に進言を聞き入れたことに、ほっと胸をなで下ろした。趙定国は我が強く、気性も激しいのであるが、道理が通じない人物ではなかった。そして、己に非があると見るや、それを改めることに躊躇うことがないのである。こうした振る舞いを見る度に、劉嘉は、趙定国が名君の資質を備えていることを確信するのであった。
「――が、此度の多大なる功績に対し、すぐにでも応えてやらねば、不満を持つ輩も現れるのではなかろうか。先に褒美を授ける旨を通達してもよかろう」
「陛下、それだけはなりませぬ。褒美をやるなどと先に約束なされては、兵士たちの中に、その褒美欲しさに命を惜しむ者が現れるやもしれませぬ。そうなっては、敵が反撃に転じた際に、到底太刀打ちなどできぬ道理にござります。それなれば、いっそのこと、直ちに褒美を与えてやるが宜しいでしょう。されど、先程も申し上げましたように、今すぐに褒美を口にされるは、得策ではござりませぬ。ですからここは、事態が落ち着くまで今しばらくご辛抱なさることが肝要かと存じます」
その劉嘉の言葉に、趙定国はしばらく考えた後、小さく頷いた。
「よかろう。しばし様子を見て、しかる後に恩賞を与えることとする」
こうして趙定国は、各地に斥候を放って情勢を把握し、厳重に守りを固めるよう諸将に指示を与えたのであった。
状況が一時的な膠着を見せ始めていた。
敗走して北へ退いた契闖両軍は、その道中で互いに敗戦の責を擦り付けると、たちまち同盟を解消して睨み合いを始めた。両軍には既に中原など眼中になく、いかにして不倶戴天の敵を葬り去るか、それのみが頭を支配していた。
一方で、鄂州を占拠した賈軍もそれ以上の侵攻を躊躇していた。李光戚に率いられて鄂州を脱した住民を追撃した部隊が、伏兵によって散々に討ち破られ、鄭州に逃げ込まれたためである。鄂州攻略戦で痛手を被った賈軍には、李光戚が防備を固めた鄭州を攻略する余力は残っていなかったのだ。
当面の脅威は去った。しかし、中原北部一帯は契闖両国に蹂躙され、鄂州も失われたままである。失地回復の策を講じる必要があった。
「劉宰相よ、蛮族どもに侵攻の動きはなく、事態は一応の収束を迎えたと見てもよいのではないかと朕は考える。また、此度の戦で歴戦の勇士たちが命を落とし、軍の士気は著しく低下しておる。故に、生き残った者たち――特に先の防衛戦で功のある者たちの労をねぎらい、将兵の士気を高めるためにも、先送りとされていた彼の者らへの恩賞を考える時期であると思うが、如何に」
「陛下のお考えはごもっともにござります。されど、征北、征西両軍の損害は大きく、我が軍は各地で敗戦を重ねており、一旦は蛮族を退けたとはいえども、勝ち戦でもありませぬ。故に、過大な恩賞は禁物にござります。金子を下賜する程度に留めるがよろしいかと」
「よかろう。仔細は其方らに一任する。よきに計らえ」
「では、早速手配いたします」
劉嘉ら高官一同が深々と頭を下げた。その彼らに対し、趙定国はさらに言葉を続ける。
「皆と諮りたき儀はこれのみではない。軍の再編に関しても考えねばなるまい」
「禁軍の再編成なれば、新たに募った兵の配置も既に完了し、万全を期しております。これ以上手を加えるは無用かと思われますが……」
劉嘉が怪訝な面持ちで小首を傾げた。
「蛮族の脅威にさらされ、それを跳ね退けるに足る力がない現状を鑑みれば、軍制の改革こそ急務であると朕は考える。すなわち、都督府を新たに設置して禁軍及び枢密院を統括し、軍制の刷新を図るのである」
その言葉に、劉嘉のみならず、居合わせた官僚全てがこぞって強硬に反発の姿勢を示した。これまで陶朝は、文官を中心とする官僚集団によって国政の舵を取ってきた。その制度が成立したのも、軍閥の台頭を避けるべく兵権を分割して権限を制約し、文治政治によって武官を巧みに統制していたためであった。軍政を司る枢密院と統帥権を持つ禁軍を統括することは、都督府に軍の全権を委ねるに等しく、まさに国家の根幹を覆すものなのである。
「それはなりませぬ、どうかご再考下さりませ。兵権を集中させては、いたずらに軍閥化を招いてしまいます。さすれば、必ずや将来に禍根の種を残すことになりましょう」
劉嘉が懇願するように諫めた。しかし、趙定国は頑として譲らず、真っ向から対立した。
「眼前の危機を打開せずして、何の将来であるか。危急存亡の秋にあって、未だ文人のみに権力を集中するは、座して死を待つに等しき所業である」
「そもそも、歴史をひもとけば、軍閥強化は帝の権威を著しく貶めるものに他ならず、やがては傀儡政権を作り上げて国家を滅亡へと導くは自明の理にござります。故に、太祖陛下以来の百年余り、代々の帝は皆、軍閥化を回避なさるために御心を砕いておられたのでござります。そうして築かれたが現体制であり、調和が保たれておるのでござります。目先の驚異に囚われて大局を見失ってはなりませぬ。先人の築きたる叡知を無に帰するが如き振る舞いは、どうかお控えくださいますよう、伏して願い奉ります」
「時は、河の如く常に流れ続け、絶えずその姿を変えていくものである。偉大なる太祖陛下によって陶朝が築かれたとはいえ、当時と現在とでは、諸々の事情は大いに異なっておる。かつて太祖陛下は、武によって中原を制し、周辺諸国を従えて天下を平定なされたのである。その威光、大陸の至る所まで行き渡り、天下万民がそれに付き従って泰平の世を迎えた。しかし、時が流れて国は衰え、対して諸国は盛んとなって天子の意に従わず、傍若無人の如き振る舞いをしておるのだ。天下、大いに乱れ、文によって治むること、既にかなわぬが道理である」
「武によって天下を奪うことはできましょうが、武によって天下を治むることはかないませぬ。古来より、武力のみで天下に泰平が保たれたためしは、ただの一度たりともござりませぬ。武は天下を平定するものであっても、天下を安んじるものではないのです。天下の泰平は優れた政治によってもたらされ、優れた政治は富をもたらし、民を安んじ、争いを根絶するものにござります。すなわち、武に頼らず、文によって威光を示すことこそ、真の名君に求められる資質にござります。力に訴えるは容易なことにござりますが、安易に武を用いれば暗君のそしりを受けましょう。名君たるもの、武によって敵を屈することにとらわれず、和によって従えることを心がけるが肝要にござります」
「武なくして、文に活きる道なし。武を用いず、文にのみ頼る者は、武を頼る者によって必ず滅ぼされる。外交によって和することもまた、然り。和するは、己が優位に立ってこそ初めて活きるものである。蛮族の脅威にさらされた今、如何に我らが和を声高に唱えようとも、決して為されるものではない。和をもって天下定むることを説くなれば、まずは諸国を凌ぐ武を天下に示し、後に進んで和を唱えるべきである。さもなくば、天下広しといえども我に従う者など現れることはないであろう」
劉嘉らは、遂に趙定国を説き伏せることができなかった。これまでに築き上げた反軍閥政治の体制によって国家存亡の危機を迎えたという揺るぎない事実の前では、万言を費やしても無意味なことであった。
「呂文忠を大都督とし、軍の再編を直ちに進めよ。これは勅命である」
沈痛な面持ちで畏まる劉嘉らに対し、趙定国は高らかに宣言した。
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