趙定国は、思わず玉座から立ち上がっていた。かっと目を見開いて、報告のために現れた使者を睨み付ける。使者は、その無言の圧力に恐れおののき、ただただひれ伏すばかりであった。
征北軍を撃破して南下を続ける契闖連合軍に対し、趙定国は禁軍十五万を殿前都指揮使張順(ちょう・じゅん)に与え、迎撃に向かわせていた。天子の多大なる期待を背負い、意気揚々と徐昌を発した十五万の大軍は、契闖連合軍と遭遇するや否や、一撃のもとに易々と粉砕された。出陣の際には十五万もの味方を従えていた張順であったが、敗れて命辛々逃げ帰ってきたときには、その周囲にわずか数百騎が従っているだけであったという。
契闖連合軍が、徐昌の目と鼻の先まで迫っていた。両軍合わせて十万余の軍勢は、国境を越えてからほぼ無傷で侵攻を続けていた。十五万に及ぶ禁軍でさえも、足止めするどころか、傷一つ付けることができなかったのである。
「何と不甲斐ない。十五万もの大軍を率いながら、尻尾を巻いて逃げ帰ることしかできぬとは。もうよい、朕自らが全軍を率いて討って出てくれる!」
趙定国は群臣を怒鳴りつけ、今にも敵陣に乗り込まんばかりの勢いで歩み出した。その様子に官僚たちは色を失い、慌てて帝の前に跪いた。
「陛下、どうかおやめくださりませ。御身が危のうござります」
「ここは我らに任せ、陛下は奥に……」
「どうか堪えてくださりませ」
官僚たちが趙定国の行く手を阻むように、平伏しながら懇願する。
「ここは、如何なることがあろうとも、我らの言葉に従ってもらいます」
宰相朱允群(しゅ・いんぐん)が両手を広げて趙定国の前に立ちはだかり、宰相劉嘉(りゅう・か)が部下に目配せをする。近衛の兵士数名が趙定国の両脇に駆け寄ると、左右からその腕をしっかり掴んで身体の自由を奪った。
「何をする、無礼であろう! 謀反を起こすつもりか!」
「陛下、これは謀反などではござりませぬ。陛下の御為を思えばこそ、我らは命を賭して陛下を安全な場所へお連れしようとしているのです」
劉嘉が言い、朱允群に目で合図を送る。
「皆の者、陛下を奥へお連れするのだ」
朱允群は頷き、近衛兵たちを促した。
「離せ無礼者、貴様ら絶対に許さぬぞ!」
趙定国の声が次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。二人の宰相は、ひとまずほっと安堵の溜息をついた。
闇夜であった。暗雲が立ちこめ、星の光だけでなく、月光さえも遮っていた。
およそ二千里(約千キロ)もの距離がある徐昌までの道のりを、呂文忠たちはわずか五日で駆け付けようとしていた。通常、騎馬のみで編成された部隊でさえも、少なくとも半月はかかってしまう距離があった。ところが、呂文忠らは昼夜を問わず駆け続け、驚異的な速さで徐昌の目前まで辿り着いていたのだった。この過酷な強行軍で、救援軍は多くの脱落者を出していた。鄂州から出陣したときに率いられた一万騎は、今や約半数の五千騎余りしか残っていなかった。
呂文忠は、脱落していく者たちを顧みることはなかった。当初から、相当数の脱落者が出るであろうことを覚悟していたためである。この強行軍では、少しでも多くの味方を救援に向かわせることより、一刻でも一瞬でも早く徐昌へ駆け付けることが重要だと考えていたのだ。
だが、半数もの脱落者を出してしまったことは、呂文忠にとって大きな誤算であった。楊昭が鍛えた騎兵に絶大の信頼を寄せていたが、呂文忠の抱く焦りが兵馬にも伝わってしまったのであろう。脱落した兵士の多くは、自身に余力を残しながらも、馬の扱いを誤って必要以上に酷使し、潰してしまったのである。
呂文忠の心に迷いが生じていた。相手は、十万にも達する大軍勢だという。勢いに任せて奇襲するには、あまりにも寡兵すぎるのではないか。呂文忠は周囲の仲間たちの様子を伺った。誰もが険しい表情を顕わにしていた。この辛い状況を、奥歯をぐっと噛み締めながら必死の面持ちで耐え続けている。限界が近付いていることは明らかだった。
徐昌は目前に迫っている。しかし、将兵がそれまで耐えられるとも限らず、あるいは、耐えられたとしても、十万の大軍と交戦する力が残されているとも限らない。
休息の二文字が呂文忠の脳裏をかすめた。ここで軍を止め、兵馬の疲労回復に専念すれば、脱落兵や近隣の州兵を召集して駆け付ける手筈の潘智臣と合流することも可能となる。合流できれば、兵力は少なくとも三万前後には膨れ上がり、籠城する徐昌の軍勢と呼応することで十万の軍勢を容易く蹴散らすことができるはずだ。
それが最善の策だと思い至った瞬間、張り詰めていた気が緩んだのだろう、それまで押し止められていた疲労が一気に吹き出した。
「全軍止まれ!」
咄嗟に、呂文忠は叫んでいた。
「前方に見える森に身をひそめ、最後の休息をとる!」
呂文忠の突然の号令に、将兵らは、戸惑いと安堵が入り混じった表情を浮かべながら従った。
森に入って足を止めた途端、たちまち将兵らが崩れるようにその場に倒れ込んだ。やはり、人馬ともに限界に達していたのだ。周囲を見回せば、韓封、王真恢、于竣の三将までもが、地べたにへたり込んで微動だにすることなく身体を休めている。征西軍きっての勇士たちがこの有様では、徐昌に辿り着く前に軍が崩壊していたかもしれない。呂文忠は、自らの判断が誤りでなかったのだと、ほっと胸を撫で下ろした。
ふと、その視界に、程士恩の姿が見えないことに呂文忠は気が付いた。程士恩はこの七年のうちに厳しく鍛え上げられたとはいえ、王真恢らに比べれば華奢といっても過言ではない。過酷な行軍で脱落していたとしても、不思議ではなかった。
その時、視界の片隅に動く人影を見て取った。程士恩であった。
士恩が呂文忠の許へと駆け寄った。怒りとも見て取れる険しい形相をその顔に浮かべていた。
「何故、今さら休息などなさるのですか」
士恩が、射抜くような鋭い眼差しで呂文忠を見据えた。呂文忠は殺気立った凄まじい迫力の視線に射竦められ、一瞬身体を硬直させた。
「皆を見よ。疲労で、立ち上がることさえままならぬではないか。皆、限界に達しておるのだ。ここで最後の休息をとり、気力を蓄えねば、決戦に臨むこともかなうまい。我らが鋭気を養っている間に、潘智臣が増援を引き連れて追いつくであろう。それと合流すれば兵力は充実し、蛮族どもを叩きやすくなるであろう。今、焦りを抱くのは禁物だ」
「そうであるならば、何故、ここまで先を急がれたのでしょうか。当初から軍勢を揃え、整然と行軍すれば事足りたことではありませぬか。それをせずに参ったは、敵に悟られる前に急襲するためでありましょう。されど、今休息などをしては、夜明け前に徐昌へ到達することはかなわず、少なくとも一昼夜は時を空けねばなりませぬ。ここで無駄足を踏んでは、必ずや我らの動向が敵に気取られてしまいましょう。増援などを待っていては、その到着前に敵の襲撃を受けるは目に見えております。この闇夜が空ける前に徐昌へ辿り着かねば、好機を逸してしまいます!」
呂文忠は返す言葉を失い、士恩から目を逸らした。
既に半数の仲間が脱落していた。呂文忠は、その者らと同様の脱落者であった。ただ、自身がそれを認めることができず、正当化する口実を探していたにすぎない。しかし、呂文忠は全軍を率いる総大将である。その立場を捨てずに脱落するということは、全軍を道連れにすることと同義であった。
「今、足を止めてはなりませぬ。我らはここまで、一気に駆け抜けて参ったのです。疲労が激しいとはいえ、ここまで来たからには、もはや引き返すことも立ち止まることも許されませぬ。矢は、既に解き放たれたのでござります。一度放たれた矢は、決して立ち止まってはならぬのです。一度でも止まってしまった矢には、もはや敵を射抜く力は残っておりませぬ!」
呂文忠は士恩の言葉を受けながら仲間たちへと視線を彷徨わせた。将兵らの表情から極度の疲労により生気が失われていることが見て取れた。
「……もう手遅れだ。周りをよく見てみよ。ひとたび身体を休めてしまっては、今更動こうにも、身体がいうことを聞かぬ」
緊張の糸が切れていた。今までは、皆の意識が張り詰めていたからこそ耐え続けることができたのだ。だが、その張り詰めていた心も、一息ついたことで緩んでしまっている。理屈では、士恩の正しさを理解していながら、それを受け入れるだけの気力さえも失われていた。もはやそれは理屈の問題ではなかった。心も身体も、ただひたすらに安らぎの場を欲しているだけなのだ。
その様子を察した士恩は、悔しさをにじませながら唇をきつく噛み締めた。
全ては終わった。これまでの苦労は、全て水泡に帰したのだ。しかし、その判断の是非は、紙一重である。総大将の呂文忠が全軍に休息が必要と判断したのならば、その判断に従って、その後のことは改めて考慮すればよい。士恩は自らにそう言い聞かせて、納得させようとした。
――と、その時、不意に王真恢が盛大な笑い声を上げた。それに釣られるように、項垂れていた将兵らが、何事かと顔を上げる。総勢五千余名の視線が、真恢に集まっていた。
「見上げた根性だ、士恩。この状況下にあって、なおも強行を進言するとは、恐れ入ったぞ!」
天をも震わす大音声が、真恢の口から発せられた。真恢のその様子に、将兵らは目をしばたたかせた。
「俺は参るぞ。直ちに敵陣へ斬り込み、蛮族どもの素首を悉く刎ねてくれようではないか!」
真恢のその言葉に、全軍が騒然となった。休息するのではなかったのか。疲れて動くことなどできない。そういった言葉が口々に囁かれる。そして、呂文忠に進言した当の士恩でさえも、真恢のその言動に唖然とした表情を見せていた。
「何をしておる、士恩。一刻の猶予もならぬのではないのか。早う、出立いたすぞ」
真恢は、戸惑いの表情を見せる士恩などお構いなしとばかりに急き立てた。
「しかし、皆が動かぬようでは、どうにもならぬではないか」
「馬鹿を申すでない! この俺がともに参ると申しておろう。それともなにか、貴様は、俺一人では不足と申すつもりか!」
真恢に一喝された士恩は、反射的に身を竦めた。しかし、その真恢の声に反応したのは士恩一人だけではなかった。五千の将兵たちが皆、半ば腰を浮かせて真恢の言葉に耳を傾けていたのだ。
「この俺を、なんと心得る――」
真恢が、五千の将兵全てを、ゆっくりと見回した。彼らの視線は、全て真恢へと向けられている。真恢は、その将兵らの瞳が、再び輝きを取り戻そうとしているのを見て取った。
「我こそは、天下に万夫不当と謳われた王真恢なるぞ! 蛮族如きが、いかほどの者であろうか! 蛮族どもの十万や二十万など、ものの数ではないわ!」
怒号は大気をも震わせた。真恢の発する気炎は、将兵らの闘志に火を灯した。
兵士たちの表情に、瞬く間に生気が戻ってくる。
「この俺とともに戦う奴はおらぬのか!」
真恢の咆哮が響きわたった。皆、身を乗り出しながら、熱のこもった眼差しを真恢の方へと向けた。
「ともに戦う勇者はおらぬのか!」
「おおっ!」
「ここにおるぞっ!」
韓封が立ち、于竣が続いた。
――刹那、将兵らの間から、どっと歓声がわき起こった。先程まで、指先一つ動かすことのできなかった五千の兵士たちが皆、総立ちとなって鬨の声を挙げた。将兵らの闘志が、激しい炎となって吹き上がったのだ。
「全軍、騎乗!」
真恢は号令を発した。瞬く間に、五千余の騎兵が整然と隊列を組んで、万全の態勢を整えた。将兵らの表情から疲労が完全に消え去っていた。彼らの全身から凄まじい闘気が発せられ、気力が身体の隅々にまで満ち溢れていた。
死にかけていた五千騎の兵士たちが、全身に闘志を漲らせて出立の命令を今や遅しと待ち構えている。真恢は振り返った。呂文忠が、それに応えるように大きく頷いた。
呂文忠は、真恢と士恩の二人に視線を向けた。紛れもなくこの両名が、全軍をここまでよみがえらせたのだ。今の呂文忠には、到底まねのできることではなかった。
時代の移り変わりを、呂文忠は感じ取っていた。あと数年もすれば、あるいはもうこの瞬間から、彼らのような若い者たちが、時代の中心を担うようになるのであろう。
呂文忠は、静かに微笑んだ。焦りや不安などは、全て吹き飛んでいた。
数え切れないほどの篝火が、徐昌を取り囲んでいた。遙か彼方から眺めても、その圧倒的な数がよく分かる。
呂文忠率いる五千の騎兵は、徐昌の西およそ四里(約二キロ)のところまで到達していた。夜陰に乗じて急行したことが功を奏し、未だに契闖連合軍には気付かれていない。
「先陣は俺がもらい受けた。突破口は、この王真恢が切り開いてくれよう!」
先頭を切って馬を駆る王真恢が大薙刀を頭上に掲げて仲間を鼓舞した。と、その進路をふさぐように、士恩が割って入った。
「真恢、其方は後詰めだ。先陣は俺に譲れ」
「抜け駆けするつもりか!」
「闇夜を利用して我が隊が遠方から仕掛ける。矢を雨の如く浴びせかければ、敵も大軍が夜襲をかけて参ったと早合点して混乱するであろう。其方は、その機を見計らって突撃すればよい」
真恢は士恩の言に一理ありと見て取り、ちらりと視線を呂文忠に向け無言で問いかけた。呂文忠は、真恢に頷いて返した。
「よし、此度は貴様に譲ってやる。だが、つまらぬ働きをしたら、この俺が後ろから叩き斬るぞ!」
真恢が発破をかけてやると、士恩は笑顔でそれに答えた。
士恩が千余騎の手勢を率いて先駆けしていく。その姿を見送りながら、真恢は不意に笑みをこぼした。
「真恢よ。其方はいずれ、士恩の下で働くことになるやもしれぬな」
「某も今、そう感じ申した」
真恢が呂文忠に笑って答えた。
士恩は、敵陣に近付くにつれて、徐々に速度を上げていった。篝火に照らされる敵陣には、未だなんの動きも見られない。容易く徐昌の包囲が完了して侮っているのだろうか。理由は定かではないが、連合軍の警戒が手薄になっていることだけは疑いようもなかった。
程士恩隊は、敵陣まであと半里足らず(約二百メートル)の距離まで近付いた。既に、敵陣は程士恩隊の射程圏内に入っている。士恩は、素早く部下に目配せをし、一斉射を開始した。
第一射は遙か上空へと向けて解き放たれた。続いて、素早く第二射が第一射よりやや低い位置めがけて放たれる。さらに、第三射は、二射目よりさらに低い位置へと放たれた。程士恩隊は、矢を放つ高さを徐々に変えていくことで、放った矢の全てがほぼ同時に敵陣へと降り注ぐように、その間合いを計って敵陣へと矢を射かけたのだ。
契闖連合軍の警戒の目は、徐昌城内へ集中していた。短期間で徐昌を包囲し、昼の索敵で陶軍の姿を発見しなかったために、今夜の襲撃はないと踏んだのである。見張りは城内の動向に目を向けるだけで万全と決めてかかり、城外への警戒を怠っていたのだった。
そこへ、暗闇を切り裂き無数の矢が唸りをあげて契闖連合軍に襲いかかった。城外では、兵士たちがひしめき合うように野宿しているのである。容赦なく降り注ぐ無数の矢により、契闖の兵らが次々に倒れていく。陶軍が外から襲いかかってくることはありえないと決め付けて寝静まっていた連合軍は、この突然の夜襲に虚を突かれ慌てふためいた。
狙いをつける必要はなかった。程士恩隊は、ただひたすらに速射することだけを心がけ、広範囲にわたって矢が尽きるまで絶え間なく放ち続けた。実数はわずか一千騎程度でしかなかったが、虚を突かれた契闖の兵らは知る由もなく、士恩の巧みな撹乱戦法に惑わされ、大軍が急襲してきたものと錯覚した。
「敵襲だ!」
「陶の大軍の夜襲だ!」
連合軍陣中から、悲鳴にも似た叫び声が至る所から発せられた。それらの声が、完全に油断していた将兵らの心を激しく揺さぶり、混乱が新たな混乱を呼び込んだ。
程士恩隊が全ての矢を射尽くして反転した時、それに呼応するように後詰めの本隊がくさび形の陣形をとって敵陣に突入した。王真恢を先頭に、韓封、于竣と続き、殿軍の呂文忠も自ら槍を取って斬り込んでいく。反転した程士恩隊は殿軍の後方に回り、後に続いた。
十万の軍勢に対して、決死の覚悟で挑む陶軍は、わずかに五千。連合軍が混乱しているとはいえ、敵兵はあまりにも多く、たちまち激しい乱戦となった。
「江東の王真恢、見参!」
敵陣深く斬り込んだ王真恢が名乗りを上げた。天地を揺るがすような大音声が響き渡り、戦場に飛び交う悲鳴や怒号をも掻き消して、あらゆる人間の耳に届いた。
戦場が、一瞬、静まり返った。王真恢の名は、彼ら異民族にとっては恐怖の対象であった。天下無双で知られる鄭侃と幾年にもわたって互角に戦い続けているという噂が、契闖の両国にも知れ渡っているのだ。彼らは王真恢という人間の実態を知らずとも、鄭侃の卓絶した武勇のほどは熟知しており、畏怖していたのである。王真恢は、その鄭侃と並び評される猛将だ。彼らがその名を耳にして、恐怖を抱かないわけがないのである。
連合軍の兵士らは、我が身の不運を呪った。故郷を遠く離れたこの地で、何故殺されねばならないのか。それも、相手はあの王真恢ときている。死神が目の前に現れたに等しい状況だった。
信じられなかった。これは夢ではないのか。いや、そもそもここに王真恢がいるはずはない。王真恢は、遙か西方の彼方で、征西軍の武将として戦っているはずなのだ。何者かは分からないが、我らを惑わすために王真恢と偽ったに相違ない。
現実から目を背けるように、連合軍の兵らは微かな希望にすがった。だが、その淡い希望は、眼前に迫る白刃によって、命もろとも粉微塵に砕かれる運命にあった。
契闖の両軍にとって、王真恢と名乗った男は、まさに死神そのものであった。その男が、果たして人間であるのかさえ疑わしい。悪鬼羅刹の如き形相で睨まれた者はたちまち肝を潰して事切れ、雷鳴の如き大喝を浴びれば魂が打ち砕かれて絶命する。男の間合いに近寄ろうものなら、胴は両断され、頸は宙を舞い、頭蓋骨は真っ二つに割られるのだ。皆、戦慄し、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。
しかし王真恢は、逃げることさえ許しはしないとばかりに、戦場を所狭しと駆け巡って蛮族を次から次へと薙ぎ倒していった。真恢に抵抗しようとする者は皆無であり、まさに一方的な殺戮の如きものであった。
その時、徐昌城内から突如として陣太鼓が打ち鳴らされ、鬨の声が沸き上がった。西門守将の徐文達(じょ・ぶんたつ)が城外の騒動を聞き付け、咄嗟の判断で号令を下したのである。
城兵が討って出ることはなかったが、連合軍は陶軍が城の内外で呼応して挟撃してくると戦慄し、総崩れとなった。
数において圧倒する連合軍が、這々の体で逃げ出した。それは、奇跡にも等しい光景であった。徐昌城外を埋め尽くした十万の大軍が、わずか五千騎の軍勢に一蹴されたのである。
徐昌の守備兵たちは、誰にも予想し得ない状況を目の当たりにして、夢ではないかとしばらく戸惑いの色を隠せなかった。だが、目の前に広がる光景は、紛れもない現実であった。ようやくそれに気が付いた徐昌の兵士たちは、次々に歓喜の声をあげて援軍として駆け付けた味方の軍勢に応えたのだった。
空の闇が、薄らとその色を落とし始めた。長い夜が明けようとしていた。
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