空想歴史文庫

我が天命の地


[案内] [書庫]

[目次]


其の十


 征西軍の武将として士恩が戦うようになって、早七年の歳月が過ぎていた。
 新和(しんわ)三年となるこの年、士恩は三十二歳となっていた。士恩が鄂州で過ごした七年の間に、故郷の徐昌は幾たびもの変事に見舞われていた。
 元慈八年には、度重なる凶作の影響で飢饉と疫病が蔓延し、多くの民が命を落として世は乱れた。そこで朝廷は、元号を改めて隆宝(りゅうほう)元年とし、豊穣の神を祀るなど祭祀を行って天下安寧の祈願をした。その甲斐あってか、翌年からは天候に恵まれて豊作となり、天下は落ち着きを取り戻した。
 ところが、隆宝四年に再び疫病が流行すると、時の皇帝啓宗(けいそう)までもが流行病を患い、そのまま快復することなく、四十七歳の若さで崩御してしまった。そこで新たに、皇太子の趙定国(ちょう・ていこく)が二十一歳という若年で即位し、改元してこの年を新和元年とした。
 これら中央での騒動は、遠く辺境の鄂州にさえも様々な影響を及ぼすのであった。例えば、飢饉が起これば兵糧が不足し、戦どころではなくなる状況に陥ってしまう。また、天子が崩御すれば、その政権交代の影響で人事に異動の動きが見られるようになるのだ。事実、啓宗皇帝崩御の際には、軍部首脳の大規模な交代論が朝廷で叫ばれていたのである。
「安撫使の任期は、とうの昔に終了しております故、これを機に新たな安撫使を任命するが得策かと存じます」
 これが、朝廷内部での主立った意見であった。
 そもそも、地方の軍事長官や呂文忠ら遠征軍の司令官など、兵権が与えられる地位にいる者は、任期が数年となっており、その都度新たな人物が朝廷より派遣されてくるのである。これは、兵権を得た将軍が長期滞在することで、その土地の民や豪族と癒着して、軍閥化が行われることを恐れての措置であった。実際、朝廷の目論見は見事に的中し、この制度を布くことによって、武力の権威を禁軍に集中させることに成功したのだった。
 ところが、この兵制は国内に対しては功を奏したが、対外的には必ずしも成功を収めたとはいえなかった。それというのも、わずか数年で地方軍の長官が次々と交代していくため、細部での軍政の統一が図れなくなったのだ。これが、兵の士気を著しく低下させることに繋がり、その結果、周辺諸国への抑えが弱まり、賈の反乱や契、闖などの領土侵攻を許すこととなったのだ。
 このような情勢下で登場したのが、征西軍の呂文忠、征北軍の黄世飛(こう・せいひ)の二将だった。それぞれ、辺境防衛での功績著しく、それまでの将軍たちに類を見ない戦果を挙げたのである。当初は、この二将も任期を終えて交代することとなったが、遠征軍は途端に敗戦を重ねるようになった。そこで再び、この二将が司令官の座に返り咲き、以後、彼らには任期を超えてその地位に就くようになったのであった。
 それが、新たに即位した趙定国が若年であるところに官僚が目を付け、政権交代を機に再び軍縮強化を画策したのである。官僚たちは、既に通常の任期を超えている呂、黄両名を解任し、新たに別の人物を遠征軍の司令官に据えようとした。もちろん、新たに任命される人物は、呂、黄両名や遠征軍とは縁もゆかりもない者たちであった。
 しかし、皮肉なことにその動きは、官僚が味方に引き入れようとしていた趙定国の発言によって、あっさりと覆されることとなった。
「中原がこれまで異民族に蹂躙されずにおれたは、ひとえに呂、黄両将軍の働きがあったればこそ。その功に報いてこそ、彼らもまた、命を賭して祖国のために戦うというもの。今、広く天下を見回しても、彼の二将に勝る武将は見当たらず、仮に、朕がここで貴公らの進言を聞き入れ、新たに朝廷より後任の者を遣わしたならば、たちまち中原は夷狄によって踏み荒らされ、徐昌の郊外に其方らの素首が並べ立てられるであろう。貴公らにその勇気があると申すのであれば、朕は喜んでその進言を聞き入れよう」
 軍縮を強く主張していた官僚も、この一言で皆、口をつぐんだという。
 呂文忠らを初めとする遠征軍の諸将は、帝の言葉によって救われたといっても過言ではなかった。このことで、諸将は、口々に天子の聡明さを褒め称え、さらなる忠誠を誓い合ったのである。

 元慈六年の郭継徳による賈王即位以降、賈軍は積極的な軍事行動を繰り返すようになった。厳しい寒さに見舞われる冬を除き、新和二年までの六年間で、大小合わせて二十回余りに及ぶ戦闘が行われたのである。
 その間の戦闘で一躍勇名を馳せたのが王真恢であった。
 王真恢が鄭侃と壮絶な一騎打ちを繰り広げたことを受けて、呂文忠は従軍間もない王真恢に七千余の重装騎兵を任せる異例の大抜擢をし、鄭侃に対する備えとして重用した。意気に感じた王真恢は、武芸のみならず用兵においても獅子奮迅の働きを見せて鄭侃と互角の戦いを演じ、実質的に鄭侃隊を封じ込めるに至った。主戦の鄭侃隊を欠く賈軍には守勢に転じた征西軍を討ち破る力はなく、何の戦果も得ないまま撤退を繰り返すほかなかった。
 周辺諸国に武名轟く鄭侃と幾度となく渡り合ったことで、王真恢の名は陶賈両国に留まらず、契や闖などにまで鳴り響いた。
しかし、当の王真恢は、自らの功績について次のように評す。
「程士恩の支援なしに得られるものではない」
 常日頃より大言して憚らない王真恢にしては、実に控え目な言葉であった。
 しかし、名指しされた程士恩は、表立った戦功を挙げているわけではない。遊撃隊として王真恢隊と行動をともにし、後方攪乱や連携攻撃などの支援行動を主な任務としていたためである。
 その働きぶりは、王真恢とは対照的に堅実なものであった。軽装で少数部隊の利点を活かした機動力は鄭侃隊に劣らず、騎射により付かず離れずの距離を保ちながら攻撃を繰り返す。それらは、鄭侃隊にとって致命的な損害となり得るものではなかったが、王真恢隊と対峙する上では無視することができるものでもなかった。結果、程士恩隊は鄭侃隊を半ば翻弄し、支援行動の役割を十二分に果たしたのである。
 これらは、実戦経験の乏しい程士恩が一朝一夕で為し得たものではない。程士恩は、騎射に長じているものの、その他のあらゆる点において他者に大きく劣っていることを自覚していた。少数ながら一隊を任されている立場としては、己が足手まといとなって仲間の生命を危険に晒すわけにはいかない。程士恩は、その一心で、取り憑かれたように調練に没頭し、自邸では呂文忠の勧めで兵書も読み耽った。特に、かつて挙人として勉学に励んだ素養があったためか、殊の外兵法の呑み込みも早く、調練にも活かされた。
「程士恩の日々の成長ぶりには目を見張るものがあります。初陣で鄭侃に挑み、生き残った経験が実戦の感覚を飛躍的に向上させたのやもしれませぬ」
 程士恩の指導に携わった楊昭は、呂文忠にそう報告した。
 しかし、程士恩が挫折せずに調練を続けられたのは、己の力のみによるものではなかった。王真恢や楊昭にとどまらず、韓封ら諸将が、連日自身を追い込んで着実に成長を続ける程士恩に感化され、協力を惜しまなかったことが大きな要因でもある。程士恩は、周囲に恵まれていたのだった。
 征西軍の将兵らは皆、そのような程士恩のひたむきな姿を目の当たりにしていた。それ故に、王真恢の言葉に誰も驚くことはなかった。彼らは、程士恩という人間を認めていたのである。
 そんな折り、士恩は妻を迎えた。隆宝四年が改まって、新和元年となった年のことである。鄂州に身を置くようになって既に五年が経過していた。
 この婚姻は、三十路を前にして独り身であった士恩を気にかけた呂文忠が、かねてより良縁を求めていた昵懇にしている商人の末娘を引き合わせたものであった。しかし、士恩は、思いもよらぬ申し出に戸惑いを隠すことができなかった。
 士恩にとって肉親とは、程士恩という人間を抑圧し、否定する存在以外の何者でもなかった。それに耐え切れなくなったがために、程家を出奔し、以後、家という存在を意識から遠ざけていたくらいだ。自ら妻帯しようなどと考えるのはありえないことだった。
 しかし士恩は、大恩ある呂文忠たっての勧めを無下に断ることができず、悩み抜いた末に了承した。婚礼の儀は、士恩の胸の内とは裏腹に滞りなく行われ、呂文忠や王真恢を初めとする諸将から祝福された。士恩は、ただ困惑するばかりであった。
 士恩は、自身の生い立ちから妻の張氏に負い目を感じ、よそよそしく接することしかできなかった。それでも張氏は、常に士恩に対しての気遣いを忘れず、よく尽くした。ところが、士恩にとってはそれが重荷となり、いつしか士恩は自身の家から逃れるように、それまで以上に調練に没頭するようになっていた。周囲は、士恩のそのような振る舞いを見て、妻を娶って芽生えた責任感から、これまで以上に励んで任務をこなそうとしているものと誤解し、より親身に接するようになっていった。士恩は、それと知りながらも本心を明かせず、誤解を解かないままに時を過ごすこととなった。
 そして新和三年初夏、士恩は、父親となった。娘が誕生したのだ。士恩は、生まれたばかりの我が子を目の当たりにしながらも、その実感が得られないまま立ち尽くした。
「抱いてあげてください」
 妻の優しい声が届いた。士恩は促されるまま、恐る恐る我が子に手を差し伸べた。まだその瞳を開くこともままならない小さな生命が、差し出された士恩の指先を強く握りしめる。不意に、胸の奥底から熱い衝動が沸き上がってきた。とめどなく溢れる涙が士恩の頬を濡らした。
 生まれてこの方、感じたことがない安らぎがここにはあった。それは、己が手にするはずはないと思い込み、目を背け続けてきたものだった。しかし今、確かにそれに触れていた。夢や幻でも、己の願望でもなく、現実として今そこに存在する。士恩は、失われていた時間を取り戻すように、妻子と仲むつまじく日々を過ごすようになっていった。
 士恩は、初めて家族を得た。


[目次]

[案内] [書庫]