空想歴史文庫

我が天命の地


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其の九


 征西軍本隊から騎兵隊が離れた。寧州軍の迎撃に向かうようである。
 鄭侃は、その様子を見下ろしながらふんと鼻で笑い飛ばすと、馬を陣頭に進め、手を大きく掲げて見せた。そして、それを勢いよく振り下ろし、真っ先に馬を駆って丘の斜面を一気に下っていった。
 鄭侃軍一万の騎兵が征西軍本隊へ向けて進軍を開始した。それに反応して、征西軍本隊も前進する。と、鄭侃軍が速度を上げて隊を右へ振り、征西軍の左側面へ回り込む動きを見せた。
 呂文忠は虚を突かれた。鄭侃軍が本隊を迂回して楊昭の騎兵隊を追撃すると踏んでいたためである。呂文忠は弓兵に命じて鄭侃軍の牽制をさせつつ、素早く陣形を方陣に改めるよう号令を発した。
 征西軍の兵士らが一糸乱れぬ動きで瞬く間に隊列を整えると、前面に押し立てられた重装歩兵が鄭侃軍の突撃に備えて長槍を突き出した。
 鄭侃軍の眼前に、たちまち堅牢な陣が作り上げられる。
 よく鍛え上げられたことを伺わせる機敏な動作に、鄭侃は敵ながら見事なものだと半ば感服しながらも、期待通りの対応にほくそ笑んだ。
 鄭侃軍が再び進路を急変させた。征西軍本隊との衝突を回避し、絶妙の間合いを保ってその脇をすり抜けようというのである。
 鄭侃の意図を察した呂文忠が慌てて弓兵に斉射させるが、鄭侃軍の足を鈍らせることすら適わなかった。機動力に劣る上に方陣を布いて踏み止まっている征西軍本隊には、もやは鄭侃軍を追いかける術が残されていなかった。
 鄭侃軍が、征西軍本隊に脇目もくれずに素通りした。鄭侃は、寧州軍を囮として征西軍の騎馬隊を誘い出し、その背後を急襲する腹づもりなのである。これは呂文忠が予測した通りであったが、野戦での駆け引きは鄭侃が一枚上手だった。
 呂文忠を出し抜いた鄭侃だったが、不意に舌打ちして険しい表情を見せた。寧州軍が早々と壊滅していたのである。鄭侃は、寧州軍の戦力のみで陶の騎兵隊を殲滅できるとも思っていなかったとはいえ、力と力の勝負に持ち込めば陶軍に遅れをとるものではなく、鄭侃隊の到着まで持ち堪えることができると計算していたのだ。それがいとも容易く打ち破られたとあって、想像以上の不甲斐なさに怒りを禁じ得なかった。
「敵は思いの外、手強い。抜かるでないぞ」
 同時に、鄭侃は敵戦力を冷静に受け止めていた。だが、付け入る隙はまだ残されていた。楊昭隊は寧州軍との戦闘に気を取られ、鄭侃軍の存在にまるで気付いた様子が見られない。鄭侃は速度を上げ、その距離を一気に縮めた。
「――鄭侃軍だ!」
 誰の口から発せられるでもなく、楊昭隊の将兵らは皆、時を同じくしてその危機を悟った。その危険を察したときには、鄭侃軍は既に、一里(約五百五十メートル)後方にまで迫っていたのである。
 転進を開始していた楊昭隊は、不意に足並みを乱した。今ここで隊を返しては、鄭侃軍に弱い横腹を晒すことになる。かといって、背後を取られた状況では、踏み止まって戦うこともできない。
「振り返るな! このまま全速で駆け続けよ!」
 楊昭が声を張り上げた。この場は逃げつつ、機を見て体勢を立て直すより他なかったのである。
 しかし、鄭侃軍の機動力は、尋常なものではなかった。賈軍によって鍛え上げられた軍馬は、中原の馬に比べて強靱な脚力を持っている。その上、騎馬民族の賈人は、農耕民族である陶人より馬術に秀でていた。馬術と馬の質のいずれにおいても格段の差があるのだ。真っ向から機動力を競い合って、陶の騎馬隊が勝てる道理はない。
 鄭侃軍は瞬く間にその距離を半里足らず(約二百五十メートル)にまで縮めてきた。
 楊昭隊の殿軍に鄭侃軍が迫った。楊昭隊のしんがりには、寧州軍への突撃時に後方で控えていた程士恩率いる遊撃隊の姿があった。
 士恩は、凄まじいまでの圧迫感を覚えた。つい先程まで、米粒のように小さく見えていた鄭侃軍の姿が、今では兵士たちの表情一つ一つが見て取れるほどとなっている。
 士恩は、死を意識した。その恐怖で身体が震え出している。数カ月前のことであれば、それに耐えきれず、真っ先に逃げ出していたに違いない。だが、今の士恩は、その恐怖に耐え得る強さを身につけていた。
「皆、聞いてくれ。このままでは、必ず敵に追いつかれてしまう。我が隊は殿軍故、敵の追撃を食い止めねばならぬ。ここで敵を足止めせねば、我らが全滅するは必至。覚悟はよいな」
 士恩は、恐怖と緊張で強張る表情を必死に隠しながら部下を見回し、決死の覚悟を促した。皆が緊張した面持ちで頷く。士恩は頷き返すと、不意に馬の速度を落として、自らを隊の最後尾へと導いていった。
 士恩の騎射の技量は、隊の中の誰よりも優れている。士恩は、皆に一番よく見える位置から矢を解き放つべき軌道を示してやることで、より効果的に射撃を行おうと考えたのだ。
 その意図を察したのか、部下の何名かが士恩に追従して後方へと馬を下がらせ、士恩を守るかのようにその周囲を囲んだ。
「この隊は、隊長あってこそのものにござります。ここで隊長を死なせるわけには参りませぬ」
「ここは我らにお任せあれ」
 無用な気遣いであった。しかし士恩は、それを聞き流すように矢筒に手を伸ばした。この場で部下の者たちと口論する暇などないのだ。
「敵が眼前まで迫っておる。追いつかれれば、どこにいようと結果は変わらぬ!」
 言いながら、士恩は素早く矢をつがえ、弓を構えた。士恩の部下たちも状況を理解し、士恩に倣った。
 鄭侃軍と士恩隊との距離が、一気に縮められた。背後に向かって騎射を行わなければならないため、士恩隊は速度を落とす必要があったのだ。
 二射、あるいは一射が限度であろうか。それ以上は、鄭侃軍に追いつかれて射撃が間に合わない。
 士恩は、標的を見定めた。先陣を切って駿馬を駆る男。常人より一回り以上も大きいのではないかと思える巨躯を揺らし、威風堂々と構える様は、まさに大将たる風格を示していた。
 紛れもなく、その男こそが鄭侃であった。
「皆の者、心を鎮めれば、的を外すことはない!」
 士恩は弓を引き絞った。狙うは、鄭侃ただ一人。あの男さえ討ち取れば、敵の足は完全に止まるのだ。
「放て!」
 数百に及ぶ矢が唸りをあげて鄭侃に襲いかかる。
「小賢しい!」
 大喝するや、鄭侃は矛を軽く二振りし、飛来した矢の全てを叩き落とした。士恩隊が与えた被害は、鄭侃の間合いから逸れた数十の矢のいくらかが、かろうじて鄭侃の周囲にいた兵士数名を倒しただけであった。
 士恩隊の攻撃など、所詮は焼け石に水であった。騎射を行ったために士恩隊の速度は極端に落ち、鄭侃軍がまさに目と鼻の先にまで迫っていた。士恩隊は、自ら寿命を縮めたようなものであった。
 それでも、士恩隊はまだ諦めてはいなかった。さらにもう一射行おうと、新たな矢を弓につがえはじめたのである。
 しかし、鄭侃軍の前衛が、既に士恩隊に追いついていた。鄭侃軍はその左右両側から士恩隊を包み込むように囲みはじめる。士恩隊は、今まさに鄭侃軍に呑み込まれようとしていた。
 士恩は再び斉射を命じた。しかし、絶体絶命の窮地に立たされた士恩隊は、恐怖と焦りでまともに矢を放つことができない。放つ前に矢を取り落としてしまったり、あるいは、手元が狂って矢がまるで見当違いの方向へと飛んでしまったりしたのだ。中には鄭侃軍に届いたものもあったのだが、全て鄭侃軍の兵士たちに躱されてしまった。
 鄭侃の許へも、五、六本の矢が届いていた。だが、そのいずれも、鄭侃の命を奪うに足るものではなかった。鄭侃は眉一つ動かすことなく、矛を一振りして難なくその矢を払い除けていた。
 ――刹那。
 鄭侃の眉間めがけて一直線に鋭く矢が襲いかかった。
 一瞬の油断。慌てふためく士恩隊を侮ったまさにその瞬間を狙い澄まして、必殺の一矢が飛来したのだ。
 咄嗟に、鄭侃は身体をよじった。飛矢が額をかすめる。半ば無意識の行動が、自身の命を救っていた。
 鄭侃は素早く体勢を立て直し、矢の放たれた方を睨み付けた。と同時に、全く同じ軌道をたどって再び矢が襲いかかる。
 耳元に風切る音を残して、矢はいずこかへと飛び去った。
 これを躱すことができたのは、まさに武人の本能というべきものであった。鄭侃の意識は、完全に反応が遅れていた。だが、幾たびもの修羅場をくぐり抜けてきた身体は、命の危機を察してそれを回避したのである。まさに、危機一髪であった。
 鄭侃の視線が矢を放った男の姿を捉えた。小柄で、軟弱そうな青年であった。鄭侃は一瞬、我が目を疑った。この青年が、恐ろしいほどに正確で、それでいて、凄まじい速さで二本の矢を放った張本人だというのか。だが、それが紛れもない事実であることを、次の瞬間に鄭侃は身をもって知るのであった。
 その青年――程士恩が、既に第三矢を放っていた。
 鄭侃は身体を大きく仰け反らせた。第三矢は、心の臓を狙っていたのだ。鄭侃は三度、紙一重の差で飛矢を躱した。
 全て必死であった。あるいは、それ以上であったかもしれない。鄭侃の知覚は、既に士恩の速射に対応しきれていなかったのだ。それでも三度躱し続けたのは、天佑にも等しいものであった。
 矢の一本一本に込められた殺気は、尋常のものではなかった。並の武将であれば、ただの一矢でたちまち命を奪われに違いない。運がよい者でも、一度躱すのが精一杯であろう。だが、鄭侃は三度躱した。尋常ならざる者の為せる業である。
 しかし、鄭侃は、躱すだけに留まらない。この状況から反撃に転じたのだ。
 鄭侃は腰の剣を左手で掴むと、抜きざまにその剣を士恩に投げつけたのだ。第四矢を弓につがえて今まさに放たんとしていた士恩は、不意のその攻撃に全く反応することができなかった。鄭侃の投げた剣は凄まじい勢いで回転しながら士恩に襲いかかり、弓を両断し、士恩の左肩を斬り裂いた。
 士恩の身体は、殆ど無防備なものであった。少しでも重量を減らすために、薄い略式の鎧を身につけているだけなのだ。刃で斬り付けられては、ひとたまりもない。
 士恩は馬上に伏して動かなくなった。かろうじて落馬だけは免れていたが、左肩からはおびただしい量の血が流れ出しており、既に士恩は気を失っていた。
 悪鬼の如き形相で、鄭侃が士恩へと迫った。
 士恩隊の兵士たちが隊長の危機を察し、果敢にも馬首を返して鄭侃の前に立ちふさがる。だが、彼らは鄭侃の敵ではなかった。凄まじい速さで繰り出される鄭侃の矛が、瞬く間に士恩隊の兵士五人の命を奪った。
 猛将鄭侃の前に士恩隊がどれほど立ちはだかろうとも、わずかな時間を稼ぐので精一杯であった。誰一人として、鄭侃の猛進を止めることのできる者がいないのだ。それでも士恩隊の兵士たちは、次々に自らの命をなげうって、士恩を逃す壁となった。
 既に、楊昭隊の殿軍は、乱戦状態となっていた。士恩隊だけではしんがりを維持できないと判断した馬栄(ば・えい)が、隊を後方に下げて奮戦する。が、如何せん敵に背後をとられて戦わなければならないため、苦戦を強いられていた。
 楊昭隊にとって、何もかもが不利な要因となっていた。殿軍が突き崩されるもの、もはや時間の問題であった。
 その時、楊昭隊の進軍を完全に逆行して、百騎余りの小集団が駆け付けてきた。大薙刀を引っさげた巨躯の武将を先頭に、整然とした様子で乱戦のまっただ中へと突入していく。楊昭隊の援軍らしき姿を認めた鄭侃軍の中から、一隊がその集団の迎撃に向かった。
 鄭侃軍の気勢は、最高潮に達していた。追撃によって勢いに乗り、敵の息の根が止まるのも間近に迫っていた。わずか百騎程度の増援は、鄭侃軍にとって新たな獲物にすぎず、士気をくじくどころか、さらに士気を高揚させたくらいであった。
 迎撃に向かった鄭侃軍の一隊は、数の上でもその集団を圧倒していた。増援に駆け付けた集団は瞬く間に鄭侃軍に呑み込まれ、消滅してしまうかに見えた。
 異変は、次の瞬間に発生した。
 大薙刀の武将が、鄭侃軍の包囲を突き破ったのだ。大薙刀を一振りすれば頸が三つ飛び、二振りすれば五人がたちまちあの世へと送られる。その武将は、大薙刀を右へ左へと縦横無尽に振り回して、文字通り鄭侃軍の兵士たちを薙ぎ倒してきたのだ。
 その武将にかかっては、勇猛で聞こえた鄭侃軍もまるで雑兵のようであった。その猛将の前に立ちはだかる鄭侃軍の兵士たちは、さながら藁人形のように次から次へと頸を刈られていく。迎撃に向かった一隊は、男の猛進を食い止めるどころか、進行方向を一寸たりとも変えることができなかったのだ。
「――王真恢殿!」
 その勇姿を認めた馬栄が、歓喜の声をあげた。剛勇無双の王真恢が、救援に駆け付けてくれたのだ。
 馬栄の声に、殿軍の兵士たちは気力を取り戻した。王真恢の武勇は、既に征西軍全軍に鳴り響いている。その王真恢が救援に現れたとあっては、衰えた気力を奮起させ、踏ん張って見せないわけにはいかなかったのだ。
 鄭侃も、その異変に気が付いた。士恩隊の兵を二十人ばかり葬って、まさに士恩を追い詰めたその時であった。一直線に、己の許に向かって猛然と馬を進める敵将の姿を視界に捉えたのだ。
 その武将――王真恢の周囲には、鄭侃の兵たちが群がっていた。だが、その兵らがまるで王真恢を避けて通っているかのように、王真恢が易々と鄭侃軍の兵をねじ伏せていた。
 鄭侃は、思わず我が目を疑った。自らが鍛え上げた精鋭が、これほど容易く蹴散らされるなどあり得ないはずだからだ。だがそれが、現実に目の前で起こっている。
 鄭侃は馬首を巡らせた。士恩をあと一歩のところまで追い詰めていたが、やむを得なかった。士恩に構っている暇などはないのだ。王真恢が、群がる人垣を斬り裂き、鄭侃の眼前に迫っているのである。
「俺が相手だ、鄭侃!」
 真恢が吼えた。愛用の大薙刀を頭上で回転させ、大上段に構えて突進してくる。
「我こそは江東の王真恢! いざ、参る!」
 真恢が上段に構えた大薙刀を、鄭侃の脳天目掛けて振り下ろした。鄭侃は矛を頭上に構え、その一撃を正面から受け止めた。
 初太刀は、王真恢に譲ってやる。鄭侃はそう考えていた。王真恢の奮戦ぶりに敬意を表する意味で、そして己との武勇の格差を思い知らせてやるつもりで、敢えて真恢の打ち込むがままにしたのである。
 だが、鄭侃の想像をはるかに凌駕する衝撃が、両腕に伝わってきた。常人離れした膂力を持った鄭侃でなければ、そのまま押し込まれて脳天を真っ二つにされていたことだろう。しかし鄭侃は、それを危ういところで押し止め、耐えて見せたのだ。
 鄭侃は、渾身の力を込めて大薙刀を弾き返した。返す刀で矛を袈裟懸けに一閃させ、王真恢を斬り付ける。
 必殺の一撃であった。この一撃を浴びて生き長らえた者など、ただの一人として存在しない。鄭侃は、王真恢の胴を両断すると確信していた。
 だが、その両腕が感じ取った手応えは、骨肉を断ち斬るそれとはまるで異なるものであった。
 王真恢が、鄭侃の矛を真っ向より受け止めていたのだ。
 鄭侃は目をむいて驚愕した。これまで、己が繰り出した必殺の一撃が防がれたことなどは、一度たりともなかった。初太刀の凄まじさもさることながら、鄭侃の斬撃を防いだだけでも並大抵のことではない。だが王真恢は、鄭侃の攻撃を防いだだけで終わらず、そこからさらに反撃を繰り出してきたのだ。
 予想外の逆襲に、鄭侃は身体をぐらつかせた。
 体勢を崩しした鄭侃の隙を逃さず、真恢の猛攻が開始される。大薙刀を上段から振り下ろし、真横に払い、突きを繰り出す。変幻自在の太刀捌きに、さすがの鄭侃も防戦一方に追い込まれた。
 しかし、鄭侃は凡庸な武将ではない。防戦に徹しながらも常に反撃の機を窺い、王真恢の連撃がやんだ一瞬の隙を突いて、鋭い一撃を見舞ったのだ。
 攻守が入れ替わった。
 鄭侃の強烈な一撃を防ぎきれず、王真恢が体勢を崩した。鄭侃は、お返しとばかりに息もつかせぬ勢いで激しい攻撃を繰り出した。
 王真恢と鄭侃の凄まじい一騎打ちが始まった。
 矛と大薙刀で、お互いに激しく打ち合ったかと思えば、お互いがそれぞれの武器を掴んで力比べをしてみせる。鄭侃が押せば真恢は引き、真恢が打ちかかれば鄭侃が切り返す。力と力、技と技。そのなにもかもが互角だった。まさに、一進一退の攻防である。
 鄭侃は武者震いを禁じ得なかった。多くの武将と刃を交えてきたが、これほどの相手とは出会ったことがなかった。初めて己と互角に渡り合うことのできる相手の登場に、久しく感じることのなかった血肉の湧き踊るような感覚が、鄭侃の全身を駆け巡った。鄭侃は、ようやく出会うことのできた好敵手との勝負に、全てを忘れて夢中になっていた。
 両者の繰り出す一撃は、そのいずれもが必殺の威力を持つものだ。それに触れただけで、肉体が粉微塵に砕かれてしまう。それほどの殺気が、一太刀一太刀に込められている。両者は、常に綱渡りにも等しい状況下で相手の一撃を防ぎ、全身全霊をもって反撃するのである。攻守ともに一瞬たりとも気を抜く暇などはなく、常に死を背中合わせにして精神を研ぎ澄ませ続けなければならないのだ。王真恢と鄭侃は、一撃を繰り出し、防ぐ度に、互いの精神力をも削ぎ合っていたのだった。
 もう、数十合も打ち合ったであろうか。体力も精神力も互いに激しく消耗し、既に限界が近付いているはずであった。しかし、両者ともに退こうなどとは微塵も思わず、勝負し続けることを渇望してやまなかった。
 両者が、同時に獲物を突き出した。と、互いに半身となって体を躱すと、相手の獲物を脇に抱えて掴み取り、力任せに押し合いながら睨み合いを始めた。
 鄭侃軍の足が鈍り始めていた。軍の大将である鄭侃が、たった一人の敵将に手こずっているために、統制に乱れが生じてきたのである。
 その隙に乗じて楊昭隊は一気に鄭侃軍の追撃を振り切った。さらに、楊昭隊はただ逃げ回るだけでなく、統率の乱れた鄭侃軍の隙に乗じるべく、素早く隊を転進させ、鄭侃軍の側面へと向かって突進を開始した。
 それだけではなかった。楊昭隊が寧州軍を瞬時に撃破したことで挟撃を免れたと見て取った呂文忠が、すかさず鄭侃隊の後方を急襲すべく総攻撃に転じていたのである。
 鄭侃軍が浮き足立った。大将が指揮を執れないことで足並みが乱れ、そこへ呂文忠軍が大挙して襲いかかってきたのだから、当然であった。
 戦況が一変していた。鄭侃は一息ついて冷静さを取り戻すと、ようやくそれに気が付いた。己の立場も忘れて一騎打ちにのめり込むとは、大将にあるまじき大失態である。
 鄭侃は舌打ちした。勝機どころか、もはや、ここで王真恢と雌雄を決する価値すらなくなっていた。その無様な状況を招いた己自身に半ば苛立ちを覚えながら、鄭侃は相手の獲物を一瞬引き込み、次の瞬間に渾身の力を込めて押し返した。虚を突かれた王真恢がわずかに体勢を崩した。鄭侃はそれを見計らって自身の矛を手放し、素早く馬首を返して王真恢に背を向けた。
「待て、鄭侃。貴様、逃げるか!」
 王真恢は素早く体勢を立て直し、矛を投げ捨てながら追いすがろうと馬を駆って鄭侃の背後へと迫った。その刹那、
「王真恢とやら、勝負は預けたぞ!」
 振り向きざま、鄭侃は短刀を投げ付けた。不意を突かれた真恢は、大きく仰け反って短刀を躱した。そして、身体を起こして睨み付けると、鄭侃は既に兵をまとめて遙か遠くを駆けていた。

 呂文忠は素早く軍を整えると、鄂州への帰路を急いだ。賈軍を撃退したとはいえ、損害自体はそれほど与えていない。鄭侃が体勢を立て直すのが早ければ、再び背後から襲いかかってくる可能性もあるのだ。敵を退けたとはいっても、未だに油断できない状況であった。
「士恩、肩の具合はどうか」
「ご心配には及びませぬ。ほんのかすり傷にござります」
 鄭侃軍との戦いで負傷した士恩に、呂文忠が労いの言葉をかけていた。士恩は、肩に包帯を巻いて止血してはいたが、馬に乗れないというほどではなかった。出血こそひどかったのだが、士恩の言葉通り、重傷というわけではなさそうだった。
 皆が危機を脱して安堵してるこの状況で、唯一真恢だけが憮然とした表情を顕わにしていた。
「申し訳ござらぬ。鄭侃めを取り逃がし申した!」
 真恢は、鄭侃軍を退けて帰陣したとき、大薙刀を地面に叩き付け、怒りに打ち震えながら、地面に額を打ち付けるように何度も頭を下げて呂文忠に謝罪したのだった。呂文忠や楊昭らがどのように言い聞かせても、真恢は鄭侃を討ち取ることができなかった己の不甲斐なさを、責め続けた。
 しかし、誰一人として真恢の働きを認めない者はいなかった。これまで、鄭侃と互角に渡り合った者など、軍の中には存在しなかったのだ。その抜きん出た武勇を称賛することはあっても、馬鹿にするようなことは決してあり得なかった。それでも真恢は、自身に怒りをぶつけずにはいられなかった。本人は、本気で鄭侃を討ち取る気でいたのである。
 呂文忠らは、その後、無事鄂州への帰還を果たした。とはいえ、その結果は手痛いものであった。兵士たちの表情には、疲労の色が濃く浮かんでいる。楊昭の騎兵隊の被害も無視できるものではなかった。特に、殿軍を務めた士恩隊の被害は著しかった。士恩隊三百騎のうち、百余名が命を落としたのだ。王真恢の救援があと少し遅れていたら、全滅していたかもしれなかったのである。
 そして、呂文忠らが鄂州へ帰還したおよそ半月後、郭継徳の手によって、郭良循を初めとする反郭継徳派が一掃されたとの報せが届けられた。

 鄂州で呂文忠らが賈を抑え込む機を逸したことを悟った頃、賈の安慶では郭継徳が鄭侃からの報告を受けているところであった。
「戦力が劣る状況で陶軍の侵攻を食い止めたのだ。呂文忠めを討てなかったとて、そう気に病むことではあるまい」
 郭継徳は跪く鄭侃の肩に手を置き、鄭侃を立たせた。
「しかし、殿。此度の戦では、慢心により敵を侮り、勝機を逸してしまいました。許されることではありませぬ」
「其方ほどの英雄が、その程度で陶軍相手に後れを取るとは思えぬ。如何したというのだ」
「侮り難き将と相対しました。一人は王真恢、今一人は無名の輩――」
 鄭侃はそう前置きして、状況をつぶさに語った。
「――油断していたといえども、武運なくば、命を落としていたに相違ござりませぬ」
 そう締め括る鄭侃の言葉に、郭継徳は思わず唸った。鄭侃の武勇がどれほどのものか、郭継徳は熟知していた。鄭侃は、万人の敵と称されるほどの武勇の持ち主だ。中原を初めその周辺諸国など、天下広しといえども、鄭侃と互角に渡り合えるほどの猛者が存在するなど、噂すら耳にしたことはなかった。それほどの武人に一瞬でも死を意識させた人物が二人も現れたというのだ。にわかに信じられる話ではなかったが、鄭侃が偽りを口にするとも考えられなかった。
「これはゆゆしき事態にござります。陶の弱兵にあっても征西軍は手強き相手。その者らが鄭侃に認められるほどの強者なれば、征西軍もますます侮れぬ相手となりましょう。鄂州へさらに間者を送り込み、詳しく探りを入れねばなりますまい」
 杜柔興がおもむろに口を開いた。
「何か良き策はないか」
「陶の兵は軟弱なれど、その国力は我らの十倍にも勝ります。故に、直ちにとは参りませぬが、一計がございます」
「ほう、申してみよ」
「その策とは――」


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