空想歴史文庫

我が天命の地


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其の六


 元慈六年の夏、賈王郭広玄(かく・こうげん)は突然の病に倒れ、死の床に就いていた。この年、郭広玄は四十八歳となる。長命であった父郭成玉(かく・せいぎょく)の後を継いで即位したのが、今よりわずか三年前のことであった。
 郭広玄の傍らには、目鼻立ちの整った青年が、悲しみに暮れた面持ちで付き添っていた。郭広玄の第二子で、姓名を郭良循(かく・りょうじゅん)という。齢二十三の若者である。
 郭良循は父の手を取ると、その手を強く握りしめ、必死に父を励ましていたのだった。
「父上、父上……。まだ諦めてはなりませぬぞ。良循が側についております。必ずご快復なさります故、決して諦めてはなりませぬ」
 我が子の言葉に、郭広玄はただ弱々しく首を横に振るだけであった。
「父上、お気を強くお持ちくださりませ。この程度の病に倒れる父上ではござりませぬ」
「もうよい、もうよいのだ。己の死期くらい、このわしにでも分かる」
「何を申されます。祖父は八十まで長生きしたではありませぬか。父上は、未だ五十にもなっておりませぬ。死を口になされるなど、早すぎます」
「よいのだ、良循」
「しかし、父上」
「よいのだ」
 郭広玄は三度首を横に振ると、静かに息子の手に自らの手を重ねた。そしてその手を取り、ゆっくり己の手から離していった。
「よいか。これから申すことは、わしの遺言と心得、決して違えてはならぬ」
「父上……」
 郭良循の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。郭良循はそれを拭おうとはせず、唇を噛み締めるようにして真一文字に結び、項垂れるように、ゆっくりと頷いた。
「わしの死後、直ちに其方が即位せよ。その旨、既に書面にしたためてある故、それを我が遺命として掲げ、臣下の者どもを従えよ」
「はい、しかと承りました」
「陶に、決して背いてはならぬ。我が賈と陶とは、先代より長く争って参った。今でこそ陶とも互角に戦っておるが、我が国は陶ほど豊かではない。戦が続けばいずれ財が底を尽き、滅びることとなろう。国内をよく見るがよい。長い戦で領民は苦しみ、国は疲弊しきっておる。このままでは、いずれは胡や蕃を抑えることすら難しくなることであろう。両国は我が国にとって、命綱にも等しいもの。両国を背かせてはならぬのだ。そのためには、これからは力ではなく、徳をもって治めなければならぬ。その旨、しかと心に刻みおくのだぞ」
「はい、しかとこの胸に」
「最後に……、其方の兄継徳(けいとく)を始末するのだ」
「父上!」
 郭良循は驚愕して顔を上げた。
「よいか、良循。これは其方の命にもかかわる大事だ。心を落ち着かせて聞くがよい」
「しかし父上……」
「良循――」
 郭広玄は小さく首を振り、口答えを許さないという素振りを見せた。
「其方の兄は気性が激しく、およそ人の下に置かれて満足できる器ではない。奴は、武を好むこと尋常ではなく、野放しにしておけば、必ずや後々の禍となろう。今はまだわしが生きておる故、おとなしくしておるが、わしが死ねば奴を抑えるものは何もない。このまま捨て置けば、この国はおろか其方も決して無事では済むまい。奴は、あの男だけは必ず殺さねばならぬ。半端に抑えられて大人しくしておるような器の小さき男ではない。奴を抑え込むつもりであれば、殺すより他ないのだ」
「されど、いかに兄上とて、手勢を持たねば手も足も出せぬが道理。兄上の兵権を奪えば、あるいは……」
「甘えは命取りとなるぞ」
 郭広玄が厳しい視線を我が子に向けた。
「斯様に甘い考えで事に臨めば、其方は必ず奴に殺されよう。わし亡き後、奴にとって其方が唯一目障りな存在となるのだ。おとなしく奴に殺されるか、お前が奴を殺すか、道は二つに一つしかない」
 郭良循は、もはや言葉を発することができなくなっていた。あまりにも恐ろしい父の言葉に、ただ震えるばかりであった。
「良循、よいな。この遺命を違えれば、其方の命も長くはない。心して、事に当たるのだぞ」
「はい……」
 郭良循は、消え入りそうな声で、ようやくそれだけを口にすることができた。

 先代の賈王郭成玉は、八十歳で世を去るまでの実に四十余年もの間、賈王として君臨し続けていた。即位して着実に力を蓄えていくと、次第に陶に対して強硬な姿勢を示すようになり、やがて周辺諸国を制圧する一方で、陶に対しても度々軍勢を向けて侵略の機会を窺うようになったのだった。
 郭成玉が崩御して郭広玄が立つと、賈の体制は一変する。郭広玄が即座に陶に和議を申し入れ、朝貢して臣従する意志を見せたのである。しかし、この和議が成立することはなかった。陶と和平を結ぶことに反発する好戦派が、独断で陶に兵を向けたのだ。
 この好戦派の筆頭が、郭広玄の第一子の郭継徳(かく・けいとく)である。郭継徳は元慈六年のこの年、齢二十九を数えた。十五の時に、祖父成玉に従って初陣を迎え、以来幾度となく戦列に加わって戦功を立てていた。郭継徳は、父よりも祖父成玉とよく行動をともにし、軍事的な才能だけでなく好戦的な性格をも祖父から受け継いだのだった。そして今では、最前線で十万の大軍を擁する大将にまでなっていたのである。
 郭継徳は、遠征軍の兵権を全て掌握する立場にあった。それは、賈軍の兵権の大半を手中に収めることを意味する。先代郭成玉は特に周辺諸国の制圧に心血を注いでいたため、その遠征軍に重きを置いた軍の編成を行ったのである。
 現在、その遠征軍の大半は、陶の動向に備えて寧州(ねいしゅう)に留まり、鄂州に駐屯する陶の征西軍と対峙していた。祖父成玉の信頼厚かった郭継徳は、祖父の死に際してその兵権をそっくりそのまま譲り受け、寧州で遠征軍の指揮を執っているのであった。
 国王という地位にあっても、郭広玄は、軍事に関して殆ど口を挟むことができない立場にあった。郭成玉存命の頃から、郭広玄は穏健派の筆頭として常に賈王郭成玉の政策と対立しており、疎まれていたためだ。だが、郭広玄は王太子の地位に就いていたことから、廃嫡にでもされない限り国政から遠ざけられることはない立場ではあった。
 そこで郭成玉は、溺愛している孫の継徳に兵権が移るように密かに根回しをし、次第に郭広玄を軍事から遠ざけるようにしたのだった。そして、郭成玉が崩御して代替わりが行われてみれば、既に軍部には郭広玄の関与する余地が殆ど存在しなかったのである。それでも軍の暴走をある程度抑えることができるのは、内事を完全に掌握していたためであった。
 郭広玄は、長子の郭継徳を疎んでいた。郭広玄にしてみれば、好戦的な性格の郭継徳は、対立し続けていた父成玉を思い起こさせる存在だったのである。郭広玄にとって、それだけでも郭継徳を嫌うのには、十分な理由になり得たのであった。
 これに対して、郭広玄は第二子の郭良循に目をかけていた。郭良循は妾腹の子ではあったが、弁舌は爽やかで学問に優れ、傍目から見ても聡明な子であった。そして何より、何にも増して争いを好まない性格に育ったことが、郭広玄を喜ばせたのであった。
 即位したときから、郭広玄は世継ぎを郭良循にと考えていた。しかし、すぐには郭良循を太子に据えることはしなかった。兵権の大半を掌握する長子継徳の力が強大であったからである。そして郭広玄は、時間をかけて郭継徳の力を削いでいき、時が来たのを見計らって郭良循を太子に立てることを考え、即位して間もないことを口実に王太子を決定しなかった。郭広玄にとっては、これが幸いした。遺命として正式に郭良循を後継者に指名すれば、少なくとも郭継徳は大義を失うことになるのだ。
 郭良循は、兄継徳の軍事力に対抗する術を考えねばならなかった。宮中の実権を掌握することはもちろんのことだが、郭良循が目をつけたのは、胡、蕃の両国であった。
 胡、蕃両国は、賈の傘下に降ったとはいえ、双方の兵力を合わせれば、郭継徳の兵力に拮抗するだけの勢力を持ち合わせていた。幸いにしてその両国は、軍事増強にかこつけて強引な兵員徴発を繰り返している郭継徳に対し、強く反感を抱いていた。これを利用しない手はなかった。
 さらに郭良循は、陶朝をも動かす算段であった。現状で敵対関係にあるとはいえ、自ら帰順を申し出て、郭継徳を筆頭とする好戦派を一掃するとなれば、協力を惜しむとは到底考えられなかった。
 郭継徳の包囲が完成すれば、内部からの離反を誘って郭継徳を孤立させることも期待できた。しかし、気がかりであるのは、残された時間だった。
 全ての準備が整うまでに、早くてもひと月はかかる。父広玄の余命は残り少なく、命が尽きるまでに、万全の態勢が整うかは疑問であった。
 郭広玄の病状は、念を入れて家臣たちにも伏せられていた。当然のことながら、先手を打たれないために、郭継徳へも報せていない。郭広玄の病、あるいは、死の報せを郭継徳が耳にするのは、一カ月余り先のこととなろう。首都安慶(あんけい)から前線の寧州までは七百里余り(約四百キロ)と遠い上に、道のりは険しいのだ。報告を受けてから即座に軍勢を動かそうとしても、二、三カ月は優にかかる計算だ。郭継徳が一カ月よりも早く報せを耳にしたとしても、その情報の確認や、軍勢が安慶に辿り着くまでには、どれほど急いだとしても二月より早くなることはないと思われた。
 郭良循は寸暇を惜しんで直ちに行動に移した。そして、賈王郭広玄崩御の報せが郭良循の許へもたらされたのは、それから一月後のことであった。

 郭良循は、諸官を政庁へと呼び寄せた。三十余名に及ぶ重臣たちは一堂に会し、それぞれ困惑の表情を浮かべている。今回の召集が、賈王郭広玄の名によるものではなく、その第二子良循の名によって発せられていたからだ。召集の目的は誰も聞かされておらず、皆がそれぞれ想像を巡らせて、口々に語り合っていた。
 既に、重臣たちの中にも郭広玄が病の床に伏しているという噂が広がっていた。いくら隠そうと苦心したところで、何日も国王の姿が見えなくなれば、勘のよい者にはある程度の察しがつくものである。そして彼らは、召集が郭良循の名で発せられたことによって、その噂が現実のものとなったことを半ば確信した。
 招集をかけた当の郭良循は、まだ姿を現していない。本来、国王の実子といえども、郭良循には家臣を頭ごなしに呼び付ける権限は与えられていなかった。それでも諸官がこうして集まったのは、ひとえに郭良循自身の人望によるものだった。
 しばらくして、表が騒がしくなった。諸官が視線を向けると、案の定、ようやく郭良循が一同の前に姿を現したのである。
 ――と、諸官の間に一瞬の緊張が走った。
 姿を見せたのが、郭良循一人ではなかったのだ。郭良循のその両脇には、完全武装した数十名の兵士が物々しい雰囲気を漂わせて控えていたのである。兵士たちは、殺気立った視線を周囲にはしらせて、重臣らを睨み付けた。
 郭良循は、動揺する諸官の目の前を悠然と通り過ぎ、何の躊躇いも見せることなく上座へと着いて座った。その姿を諸官が呆然と見送る中で、郭良循は兵士たちに目配せをして彼らの背後に立たせた。鎧に身を固め、腰に剣を帯びた兵士が、直立不動の姿で諸官を威圧する。このあまりにも異常な状況に、重臣たちは皆、言葉を失った。
「これは一体……」
 皆が動揺する中で、ようやく一人が恐る恐る郭良循に問いかけた。
「皆には、済まないことをしたと思っておる。だが、これも非常事態のこと故、ご容赦願いたい」
 諸官は、郭良循の口調がいつもと何ら変わることなく落ち着き払っていることに、少し安堵を覚えた。
「これから申すことは極めて重大なこと故、皆、心を落ち着けてお聞き願いたい」
 郭良循は、まずはそう前置きをして、懐から一枚の書状を取り出した。
「昨日、我が父であり、我が賈の王である郭広玄がお隠れあそばされた」
 一斉に、諸官がどよめいた。彼らの動揺に構うことなく、郭良循はさらに先を続けた。
「これにあるは、賈王陛下より直々に賜った遺言である」
 書状の両端を持って広げ、書面を諸官に向けて掲げた。郭良循は、左右に列席する諸官に書面が見えるよう、右から左へと、ゆっくり書状を動かしていく。
 それは、紛れもなく賈王直筆の書状であった。重臣らは、突然突き付けられた遺言状にひどく動揺し、それぞれに顔を見合わせるなどして、戸惑った様子をあらわにした。
 郭良循は遺言状を机の上に置くと、騒ぎが静まるのをじっと待ち続けた。諸官は、兵士に囲まれていることも忘れて口々に不安を囁き合った。それがしんと静まり返ったのは、それから四半刻(約三十分)を過ぎた頃であった。
 郭良循が、重臣たちの表情を、一人一人じっくりと見回していく。横目で郭良循の様子を伺う者もいれば、目が合った途端に慌てて視線を外す者もいた。誰もが、郭良循を正視できずにいた。
「皆に、申し渡す」
 郭良循が、遂に口を開いた。
「これよりこの郭良循は、我が父、我が王の遺命に従い、偉大なる郭広玄の志を継がんがため、亡き父に成り代わって賈を率いる王となる!」
 郭良循は立ち上がり、声高に宣言をした。諸官の中で口を開く者は、誰一人として存在しなかった。
 郭良循は、再び諸官を見回した。
「異論ある者あらば、今ここで申し立てよ」
 直立不動の構えで、郭良循はしばらく彼らの反応を見守った。数十名の武装した兵士が威圧する中、ただの一人も言葉を発する者はいなかった。
「皆様方、異論はござりませぬな」
 無言を肯定と受け取った郭良循は、念を押すように言った。一人一人諸官を見回すと、目の合った者らは皆、戸惑いをぬぐい去って頷いた。
 郭良循は満足げに頷いて返した。
「たった今より、我が言葉は賈王の言葉である。皆、決して我が命に背くことなく、身命を賭して励んでもらいたい!」
「ははっ!」
 諸官が、一斉に平伏した。郭良循は、言いしれぬ優越感がこみ上げてくることを自覚しながら、宮中掌握が完了したことを確信した。
「これより、賈王としての最初の命を、皆に申し渡す」
「承ります、陛下!」
 諸官が、声を揃えて応える。
「我らはこれより、胡、蕃と連合し、我が兄郭継徳を討つ!」
 諸官が、一斉に静まり返った。皆、驚きのあまりに目を見開いて、新たな王を凝視した。
「如何した。皆、余の言葉が聞こえなかったのか!」
 諸官が、郭良循から目を逸らした。彼らにとって、それはあまりにも突拍子もない命令であった。郭継徳といえば、その祖父郭成玉譲りの戦上手で知られた上に、兵権の殆どを掌握している人物である。それを討ち取るなどということが容易にできないことは、誰にでも分かることであった。
 郭良循は、再度諸官を見回した。誰一人として、王命を承服する気配を見せる者はいない。ただ命じるだけでは、重臣らを動かすことなどかなわないようである。郭良循は、内心苦々しい思いで舌打ちした。
「余の命が聞けぬと申すか!」
 郭良循は、おもむろに腰の剣を抜き放ち、怒声を発した。重臣らが、郭良循の豹変に肝を潰し、身を硬直させておののいた。
「よいか。其の方ら、余の命が聞けぬとあらば、誰であろうとこの場で斬り捨てる!」
 言うや否や、郭良循は自らの決意を表明するが如く、目の前の机を真っ二つに断ち斬って見せた。
「今一度、皆に申し渡す。余に従い兄を討つか、今この場で頸を刎ねられるか。道は二つに一つだ! 命に背く者は、進み出よ!」
 郭良循は重臣らに切っ先を突き付けた。彼らにも、郭良循の覚悟のほどが伝わっていた。つい先程、郭良循の即位を認めたからには、ここで異議を唱えるわけにはいかなかった。
 郭良循は諸官を見回し、各々が覚悟を決めた面持ちで次なる言葉を待っていることを確認すると、大きく、そして力強く頷いた。
「皆、安心するがよい。手はずは全て整っておる。今や、胡、蕃の両王が自ら軍勢を率いて我らの許へ駆け付けておる。我が兵も既に出陣の準備は整い、我が号令を今や遅しと待ちわびていることであろう。恐れることは何もない。我が計略に抜かりはないのだ!」
 郭良循の自信に満ちた言葉に、諸官は皆、安堵の笑みを浮かべた。郭良循は、彼らが落ち着きを取り戻したと見て取るや、手にした剣を天高く突き上げた。
「皆の者、よく聞け! これより我らは、軍勢を率いて兄を――」
「威勢だけはいいようだな」
 不意に、何者かが郭良循の言葉を遮った。その場に居合わせた者全てが、声の発せられた方に反射的に視線を向けていた。
 郭良循は驚愕した。その視線の先には、この地にはいないはずの男の姿が確かに存在していたのだ。郭良循は、ひきつった表情を凍らせたまま、立ち尽くした。
 甲冑に身を包んだ兄継徳が、口元に不敵な笑みをたたえながらゆっくり歩み寄っていた。その背後からは、百名を超す兵士たちが突如として姿を現して会堂へ一挙に雪崩れ込み、呆然と立ち尽くす郭良循の兵士たちを瞬く間に葬り去っていく。抵抗らしい抵抗をすることさえなく、郭良循の兵は全て息の根を止められた。そして会堂には、郭良循の兵の代わりに郭継徳の兵が押し入り、諸官を取り囲んだ。
「親父にそそのかされたか、愚か者め。貴様や親父程度の小人が、この俺を欺けると思うてか。貴様の企みなど、とうの昔に承知しておる。この俺がなんの公算もなく貴様に好き勝ってをさせるわけがなかろう。狭いこの宮中でもてはやされていい気になるから、斯様な結果を招くのだ。己の器をわきまえておとなしくしておれば、せめて領地の一つくらいは与えてやろうと考えておったに……」
 郭良循の目の前で、郭継徳は立ち止まった。郭継徳は、未だ剣を抜かず、無造作に郭良循の間合いに足を踏み入れていた。ところが、郭良循は兄が発する威風に圧され、為す術なく立ち尽くすしかできなかった。
「この俺を差し置いて貴様が即位をするなど、増長するにもほどがある。古来より、長幼の序を乱せば必ず国が滅びるということを、貴様は知らぬわけでもあるまい」
 郭継徳が剣を抜いた。郭良循の腹部が、白刃に刺し貫かれていた。郭良循の背中からは、真っ赤に染まった切っ先が顔を覗かせている。その背中から剥き出しになった刃を、郭良循の傷口から新たに吹き出した鮮血が伝って、床に滴り落ちる。
「貴様も愚かであるが、親父はもっと愚かだ。良循のためにとけしかけたのであろうが、これで弟を殺さねばならなくなったではないか!」
 郭継徳は、苦悶する弟の姿を、哀れみを込めた瞳で見やった。が、次の瞬間、
「逆賊めが!」
 郭継徳が、憎しみのこもった言葉を吐くとともに、さらに剣をねじ込んだ。郭良循の口から、どす黒い血があふれ出した。郭良循の身体が小刻みに震え、その手から剣がこぼれ落ちる。金属が打ち付けられる乾いた音が、静まり返った会堂に響きわたった。
 郭継徳が、郭良循の腹部からゆっくりと剣を引き抜いた。血液と内臓が、大きく裂けた肉の間から飛び出した。郭良循は前のめりに倒れた。
 諸官の誰一人として、この壮絶な光景を直視できる者はいなかった。皆、視線だけでなく、顔をそむけて自らの手で目を覆っていた。だが、郭継徳やその配下の兵士たちは、顔色一つ変えることなく、冷ややかな目でその様子を眺めていた。
 郭継徳が、ただの肉塊と化した弟の身体を軽く蹴飛ばした。
「誰か、この愚か者の後を追う奴はおらぬか」
 郭継徳が、郭良循の血にまみれた切っ先で死体を指し示し、諸官に呼びかけた。名乗り出てくる者は、ただの一人も現れなかった。


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