練兵場には、優に千人を超す群衆が集まっていた。無論、程士恩と王真恢の両名の腕試しをするということで、呂文忠がすぐに集められる者たちを呼び寄せたのである。
練兵場の中央には、馬上の人となった王真恢の姿があった。甲冑に身を固め、槍を片手に落ち着いた様子で身構えている。その真恢と相対しているのは、于竣(う・しゅん)という名の若武者であった。
両者が手にしている槍は訓練用のもので、その穂先を取り外して綿を詰めた布を先端に巻き付けてある。これならば、たとえ相手を突いたとしても、大怪我は避けられるのであった。
群衆は、固唾を呑んで見守っていた。王真恢なる者は、どれほどの腕の持ち主なのか。呂文忠自らが招いた人物とあって、皆が興味津々といった様子で、開始の合図を今か今かと待ちわびていた。
呂文忠が向かい合う真恢と于竣の許へと赴き、開始前の最終確認を行っていた。確認といっても、小難しいものではない。手加減無用、万が一命を落としてもそれは武門の習わし。それだけのことである。
呂文忠が両名の許を離れた。いよいよ試合が開始される。皆は、身を乗り出すようにして両名に注目した。
王真恢の相手を務める于竣は、征西軍でも五本の指に入るほどの武芸に秀でた若者であった。年齢は二十代半ばで士恩と同年代であるが、呂文忠が若手の中で特に目をかけている人材でもあった。
試合を見守る将兵たちは、于竣の剛勇無双の槍捌きを熟知していた。いかに王真恢が豪傑であろうとも、まさかあの于竣にはかなうまい。誰もがそう信じて、于竣が負けることなど夢にも思わなかった。
――だが、試合が開始されてすぐに、群衆からどよめきが沸き起こった。
両名は一旦馬を下げ、開始の合図とともに駆け出して打ち合う手はずなのだが、双方が雄叫びをあげながら馳せ違うや、剛勇で知られた于竣が地べたに這いつくばるようにしてのびていたのである。
まさに、一瞬の出来事であった。
皆、我が目を疑う思いで左右の同輩らと囁き合っていた。
まるで相手になっていないではないか。征西軍自慢の猛将于竣が、赤子同然に倒された。これはまぐれに違いない。誰もが、目の前で起こった現実を受け入れがたい心境だったのである。
さすがの呂文忠も、予想以上の結果に絶句していた。王真恢であれば、于竣を打ち負かすくらいはできるかもしれない。確かに、そう考えてはいた。だが、これほどまでに鮮やかな勝ちを収めるとは、全く予想していなかったのだ。
これでは皆が納得すまい、と呂文忠は困惑した。于竣と接戦の末に真恢が勝ちを収めたのであれば、おそらくこの場に居合わせた者も皆、真恢の武勇を称えたことであろう。于竣は皆が認める豪傑の一人であるから、それと対等に渡り合えばいやでも真恢の実力を納得するに違いないのだ。だが、王真恢は鮮やかに勝ちすぎた。これでは、唐突に現れたよそ者に見くびられてなるものかと、将兵たちの自尊心も傷つけられるというものだ。
どよめきが鳴り響く中で呂文忠が思案していると、不意に一人の巨漢が立ち上がった。
群衆の声が、一瞬にして鳴り止んだ。辺りがしんと静まり返る中で、男は呂文忠に向かっておもむろに呟いた。
「俺が相手になろう」
言うや否や、男は馬に飛び乗って真恢の許へと駆け出した。男は、真恢の目の前まで来て馬を止めると、射抜くような鋭い眼差しで真恢を睨み付けた。
「于竣を倒した腕は誉めてやるが、奴はまだ青二才だ。腕自慢を誇るつもりなら、この俺を倒してからにしてもらおうか」
言いながら、男はにっと白い歯を見せて笑みを浮かべた。
「韓封(かん・ほう)将軍!」
誰からともなく、男を応援する声が発せられた。すると、まるで堰を切ったかのように韓封の名を叫ぶ声が広がり、練兵場は瞬く間にその声で埋め尽くされた。
この韓封こそが、征西軍随一の猛将として知られる男であった。その武勇は、先の于竣を遙かに凌駕し、膂力、技量ともに他者と一線を画するほどのものであった。
韓封の両の眼には自信がみなぎっていた。自他ともにその武芸に秀でた様を認めているだけあって、ただのはったりでも過信した愚か者でもないことが容易に窺い知ることができた。
それでも真恢は、眉一つ動かすことなく、
「では、お手合わせ願いましょう」
平然と答えて、挑戦を受けたのだった。
于竣の時と同じく、両者は馬を後ろに下げて向かい合った。あとは、開始の合図を待つだけである。合図の太鼓が打ち鳴らされたら、何も考えずただひたすらに相手めがけて突進すればよい。気迫こそが全てなのだ。余念を交えれば、それだけで命取りとなる。両者は互いに無心となって、静かに合図を待った。
呂文忠の手が上がった。太鼓が打ち鳴らされる。真恢と韓封の両名は、全く同時に馬腹を蹴って駆け出していた。
韓封は槍を脇に抱え、穂先を下げて無造作に構えた。一方の真恢は、槍を大上段に持ち上げる。互いに姿勢を崩さないまま、両者は一気に距離を詰めた。
一瞬、韓封と真恢の視線が交錯する。
韓封は素早く穂先を上げ、真恢に向けて真っ直ぐ突き出した。真恢が韓封の槍を叩き落とさんと上段から振り下ろした瞬間、韓封の穂先が不意にその軌道を変化させ、真恢の頭上へと打ち下ろされた。
――躱せない。誰もがそう確信した。
しかし、韓封の槍が獲物を捉えることはなかった。振り下ろされた槍は、素早く切り替えされた真恢の槍に巧みに絡め取られ、宙に跳ね上げられていたのだ。
あっと思ったときには、既に真恢が槍で韓封を馬上から突き落とし、その喉元に穂先を突き付けていた後であった。
韓封への声援がぴたりと止んだ。韓封の完敗である。
「見事だ!」
呂文忠の声が響きわる。瞬間、凄まじい歓声がわき起こった。
期待の韓封は敗れ去った。だが、それに文句をつける者は誰一人として存在しなかった。文句など言えるはずもない。むしろ、清々しささえ覚えるほどのものだったのだ。それほどの試合を見せた武人を目の当たりにして、つまらない意地や誇りなどにこだわるほど、征西軍の将兵らの器は小さいものではなかった。
真恢は、彼らの大声援に面食らっていた。
真恢の武勇を称える声は、まだしばらく鳴り止みそうにもなかった。
興奮冷めやらぬ練兵場の奥に、三つの的が運び込まれた。的の大きさは人の頭より一回り大きいくらいで、直径にしておよそ二尺(約六十センチ)程度。その的が真横に等間隔となるように並べられていた。
士恩が騎射の腕前を披露することになっていた。士恩は、並べられた三つの的に対して平行に馬を駆けさせ、それぞれの的に一本ずつ順に矢を放っていくのである。
射撃の位置から的までの距離はおよそ百歩(約百五十メートル)。的と的との間隔は十五歩(約二十メートル)となっている。一つ矢を放った後は、十五歩の距離を駆ける間に次の矢を放たなければならない計算だった。落ち着いて狙いを定めている余裕などない間隔である。
呂文忠は、傍らに控える涼西安撫副使楊昭(よう・しょう)に訊ねた。
「其方も騎射を得意としておったな。其方なら、あの距離の的を射抜くことができようか」
「さて、百歩ほどであれば、あるいは五射に一射くらいは的に当たるやもしれませぬ。されど、三射続けてとなると、とても全てを的に当てることはかなわぬかと存じます」
「其方でも不可能と申すか」
呂文忠は深い溜息を吐き出すと、眉間にしわを寄せて唸った。
真恢同様に腕試しとはいえ、真恢の時とはその心境が異なっていた。真恢であれば、身のこなしや体つきを見れば、力量はおおよその見当がつく。結果として真恢を過小評価していたことになるのだが、成り行きを安心して見ていられるという点では変わりがなかった。
ところが、士恩の場合は未知数であった。真恢は士恩の弓術を絶賛していたが、その言葉だけでは実感が得られないのである。
――百歩
的を遠くしすぎたかもしれない。弓の名手と呼ばれる者でも、容易に為し得る距離ではないという。この距離に定めたことは早計だったのではないかという不安が沸き上がってきた。聞けば、士恩は、弓と馬以外は不得手のようだ。ここで士恩が弓の腕前を見せつけなければ、征西軍にとって士恩は無用の輩となってしまう。しかし、今更的の位置を変更できるような状況ではなくなっていた。
将兵らの瞳が、期待に輝いていた。王真恢の卓絶した武勇を目の当たりにした直後なのである。程士恩という人物は、あの王真恢とともに現れたほどの者なのだから、当然、王真恢に勝るとも劣らない技を見せつけてくれるに違いない。誰もが、そう信じて疑っていなかったのだ。ここで的の距離を縮めれば、如何に士恩が弓の名手といえども、決してその腕が認められることはない。
的の準備が整った。士恩は呂文忠に一礼し、騎乗した。
幾分、表情に陰りが見受けられる。やはり無理なのではないか。呂文忠は、不安が現実味を帯びてきたように感じだ。
その時、何者かが士恩の許へと馬を寄せた。王真恢であった。
「見せ物の類は、気が乗らぬか」
「いや、そういうわけではないのだが」
士恩は、真恢に曖昧な言葉で返した。
「斯様な調子であの距離の的が射抜けるのか」
士恩はそれにも答えず、ふさぎ込んだままであった。反応の悪い士恩の様子に、真恢は呆れたように大きな溜息をついた。
「なあ士恩よ、お前は何故この地におる。お前が手にしたその弓で志を遂げるためではないのか。己の全てをその弓に賭けると覚悟して参ったのではないのか」
士恩がはっとして顔を上げた。
「今のお前は、瞬時に九人もの賊を葬った人物と同じ男とは思えぬ。あの時のお前は、一点の曇りもない研ぎ澄まされた気を矢尻に込めて解き放って見せたではないか。斯様なまねは、心の定まらぬ凡夫に為し得るものではない。俺と轡を並べて戦った程士恩という男はどこへいったのだ」
士恩は、不意に心が軽くなるのを感じた。
程家という存在にずっととらわれ続けていた。程家あってこその自分、それが今までの価値観であった。技量に絶対の自信を抱いていても、いつも、どこか心の片隅で、程家から逃れる口実にしているという思いが離れずにいた。それにとらわれて、己が心血を注いで成し遂げたものを、自ら認めることができなかったのだ。
「――真恢、済まぬ!」
士恩は唐突に馬首を返して呂文忠の許へと駆け寄っていった。真恢は、一瞬呆気にとられてしまったが、特に非難するでもなく、ただ笑みを浮かべるだけであった。
士恩は呂文忠の前に片膝をついて畏まると、なにやら一言二言告げて再び馬上の人となった。そして、呂文忠に対して簡単な礼をとると、士恩は足早に練兵場の中央へと馬を進めた。
「其方、士恩に何を申したのだ」
戻ってきた真恢に呂文忠が訊ねた。
「さて、某は何も。ただ、士恩を鼓舞してやろうと参ったには相違ありませぬが、某が言葉をかけるまでもなく、士恩自身がなにやら悟ったようにござりまして」
真恢の返答に、呂文忠は困り果てたように溜息をもらした。
「今し方、士恩がわしになんと申したと思う」
「見当もつきませぬが」
「百五十歩(約二百二十メートル)の距離を射抜いてみせると申したのだ」
「なんと――!」
一瞬、気でも触れたのかと思い、真恢は士恩を振り返った。だが、真恢は士恩の表情を認めるや、すぐに安堵の笑みを浮かべて呂文忠に告げた。
「ご覧くださりませ、士恩のあの晴れやかな表情を」
言われて、呂文忠は士恩を注視した。士恩の表情から、妙な陰りが消え失せていた。士恩は、憑き物でも取れたかのような涼やかな微笑みをたたえていた。
「案ずるには及びませぬぞ、閣下。士恩なれば、必ず、百五十歩先の的とて見事射抜いて見せましょう」
呂文忠は、覚悟を決めたように力強く頷いた。
「よし、的を百五十歩の距離まで下げるのだ!」
呂文忠の指示に従って、三つの的がさらに後方へと下げられていく。その様子に、将兵の間からは、新たなどよめきがわき起こった。
的が、豆粒のように小さなものとなっていた。わずか二尺(約六十センチ)の的が、遙か百五十歩先に並んでいる。仮に、事情を知らない者がこの状況を見たとして、あの的を騎射で射抜こうなどと誰が想像できるだろうか。
不可能だ。いや、あるいは、見事射抜いてみせるかもしれない。将兵らが期待と疑念を抱いて見守る中、士恩は独り、静かに呼吸を整えていた。表情は一点の曇りも見られない、落ち着き払ったものだった。
風はやんでいた。弓を射るには、絶好の状況である。
「合図を」
呂文忠は、この好機を見計らって指示を出した。そばに控えていた兵士が、士恩に向かって大きく旗を振った。開始の合図である。
馬の腹を蹴り、士恩は駆け出した。すると、それまで真下に垂れ下がっていた征西軍の軍旗が、ゆらゆらとはためきはじめた。
「いかん――」
呂文忠は思わず、中止の合図を送ろうと立ち上がった。
しかし、士恩は既に矢筒より三本の矢を抜き取り、そのうちの一本を弓につがえているところであった。もはや、中止の合図を送っても間に合わない状態だ。
士恩は、三本の矢を同時に取り出していた。各指の間にそれぞれ一本ずつの矢を挟み、それを器用に一本ずつ弓につがえていくのである。これは、士恩の得意とする技術の一つであった。
士恩は渾身の力を込めて弓を引き絞ると、天を仰ぐが如く矢尻の先を上空へと向けて構えた。そして、次の瞬間には、一本目の矢が天高く弧を描いて舞い上がったのである。
――仕損じた。
その時、誰もがそう直感した。士恩が空へ向けて放った矢は、的への軌道が大きく逸れ、まるで見当違いの方向を飛んでいるのだ。やはり、これだけ離れていては、たとえ弓の名人といえども射抜くことは不可能だったのだ。将兵らの期待は、たちまち失望へと変わっていった。
刹那――
矢が不自然に方向を変えた。まるで、何者かの意志に導かれるように、その軌道が強引にねじ曲げられていく。勘のよい将兵の何名かは、それが風に煽られたものだということに、直ちに気が付いた。
風に煽られた矢は、大きく軌道を変えながらゆっくりと落下していく。そして、その矢尻が指し示す先には、第一の的が待ちかまえていた。
将兵らの目には、それがあたかも的に引き寄せられているように映っていた。
矢が、的の中心に突き立てられた。誰もが、即座にはその現象を理解することができなかった。これは、あの程士恩という若者が狙って射抜いたものなのか。あるいは、ただのまぐれだったのか。
その答えを導き出す暇もなく、既に士恩は次なる矢を解き放っていた。
これも、大きく軌道が逸れていた。だが、この時は、これが仕損じたものであると即座に決め付けることができなかった。今し方、目の当たりにしたあの現象がまぐれでないのであれば、この矢もまた、的へと吸い寄せられていくのではないか。見当はずれの方向へと飛んでいく矢を目で追いながら、将兵らはそんな期待を抱かずにはいられなかった。
それに応えるかのように、矢は再び、不自然に軌道を変化させた。そして、緩やかな弧を描いて落下した矢は、狙い違わず二尺の的を射抜いていた。
――まぐれなどではない!
それは、確信に変わっていた。距離は百五十歩(約二百五十メートル)、的は二尺(約六十センチ)、そして矢を煽る風。これだけの悪条件の下で、果たして、偶然だけで二度も的を射抜くことができるだろうか。
むしろ、まぐれと捉える方が不自然であった。士恩は、風の流れを正確に読み、抜群の距離感と卓絶した技量を発揮して的を射抜いたに相違ないのだ。
既に、第三の矢が放たれていた。もはや、その結果を疑う者はいなかった。
「神業とは、まさにあれを指す言葉なのかもしれぬ」
呂文忠は、感嘆の溜息とともに、感慨深げに呟いた。
「この両の眼で目にしたことながら、信じられぬ思いにござりますな」
楊昭は相づちを打った。
「程士恩といい、王真恢といい、天下にはまだ、これほどに優れた人材が埋もれておるのか。楊昭、あれほどの才をこのまま野に捨て置くは、あまりに惜しいとは思わぬか」
「御意にござります」
「わしは、あの二人を将として迎え入れようと考えておる」
「願ってもないことにござります」
「しばらく其方の許に預ける故、あの二人の力量を測ってみてくれ」
「御意にござります」
呂文忠は満足げに頷くと、腕試しを終えて戻ってくる士恩の許へと馬を走らせた。
士恩は、真っ先に真恢に出迎えられていた。そして、真恢が駆け寄るや、たちまち割ったような大歓声が周囲を包み込んだ。士恩は、その反応のすさまじさに驚き、唖然として立ち尽くしていた。
そこへ、呂文忠が現れた。
「我ら征西軍は、其の方ら二人を我が軍の将として迎え入れる。異存はあるまいな」
「初めからそのつもりで参ったのでござりますれば、異存などあろうはずもござりませぬ」
真恢は喜々とした様子で深々と一礼をした。しかし、一方の士恩はというと、呂文忠の言葉に戸惑いの表情を見せていた。
「身に余るお言葉にござりますが、某にはとても勤まるとは……」
「案ずるには及ばぬ。此度の件で皆も其方ら二人の実力は認めよう。其方ら二人を将として取り立てることに、異存ある者はおるまい。が、すぐに取り立てるわけではない。しばらくは新兵として楊昭の指揮下に入り、調練を受けてもらう。我が軍の調練は厳しい故、死人が出ることも希なことではないが、その調練に耐える自信がない、あるいは耐えることができぬのであれば、この先実戦で生き残ることはかなわぬ。実戦と腕試しとは違う故、それを見極める必要があるのだ。これを承知いたすならば、其方らを我が軍の将として認めよう」
呂文忠は士恩と真恢の両名を見比べた。
「ご命令とあらば、喜んで従います」
自信に満ちた表情で答える真恢に対し、士恩は、やや緊張した面持ちで、
「承知いたしました」
と答えた。それを見て、呂文忠は念を押すように士恩に訊ねた。
「本当によいのだな」
士恩は力強く頷いて見せた。
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