空想歴史文庫

我が天命の地


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其の四


 士恩は、隊商の護衛を終えて無事に鄭州へと辿り着いた。
 最初の襲撃の後、王真恢の発案で騎射に長けた者を数名選び出し、士恩を中心に先制攻撃を仕掛ける戦術を執ることとなった。鄭州に到着するまでの道中では、さらに二度、野盗の襲撃に遭遇したが、弓矢を取り入れた戦術が功を奏して、最初の襲撃と比べていずれも容易く撃退できたのであった。特に、士恩の働きは、発案した王真恢の想像の上を行き、結果的にうれしい誤算となった。
 この二度の襲撃では、味方に死者が一人も出なかった。損害といえば、わずかに六名が負傷した程度である。守られていた商人に至っては、誰一人としてかすり傷一つ負っていない。積み荷も全て無事であった。
 商人たちは、護衛の者たちが期待以上の活躍をしたことに気をよくして、謝礼の額を大幅に上乗せした。輸送品にある程度の損害が出ることを覚悟した上での旅であったから、その成果は報酬の増額というかたちで表されるのだ。
 士恩は、予想以上の報酬に驚きを隠せなかった。もちろん、程家の財力を基準にすれば、この報酬とて微々たるものでしかない。しかし、この一カ月余りの旅での生活を考えれば、半年は何もせずに暮らしていけるのではないかと思えるくらい、多額の路銀を手にしたことになる。
 自分独りの力で得たものでないことは分かっていたが、自身の力が認められたことも事実であった。これまで、程家の中が世界の全てだった。自分自身が認められるというような経験は、まさに皆無といっても過言ではなかったのだ。
 士恩は独り、喜びを噛み締めていた。報酬の額などは関係がなかった。誰かに評価されたということが嬉しかった。ここには、程家の中では決して得られないものであふれていた。この一カ月、士恩はそれらに触れてきた。その経験が、士恩には、これまでの二十五年の人生をも凌駕するもののように感じられた。
 士恩は自信を抱きはじめていた。己の弓術が通用する。この弓で、この先もやっていける。程家を飛び出して初めて、士恩は前向きに考えることができるようになっていた。

 護衛の任を終えたことで、士恩はその後の身の振り方に迷っていた。護衛の仲間たちの殆どは、また別の隊商の護衛として各地を飛び回るという。士恩も騎射の腕を買われて、ともに行かないかと数名から誘われたのだが、どうしたものかと決めかねていた。
 燕州を発ってから、士恩は漠然と鄂州を目指していた。鄂州は、陶朝の西域の最前線である。明確な目標がなかった士恩は、燕州を目指したときと同様に最前線という理由だけで鄂州へ向かっていたのだった。しかし、護衛の任を終えて生還した手応えから、士恩は、何も鄂州にこだわる必要はないのではないかと思うようになっていた。
 とはいえ、当初の目的地である鄂州への未練も捨てきれずにいた。鄂州へ向かう隊商の護衛でもあれば喜んで話に乗っていたのだが、あいにくどれも別の地方へと向かうものばかりであった。それが、士恩の決心を鈍らせる原因となっていた。
 明確な返事をすることができないまま、後日改めて返答することだけを告げて士恩は仲間たちと別れた。念のため、士恩は鄂州行きの話をしてみたのだが、そういった話があるという噂は耳にしていないという答えしか返ってこなかった。
 仕方なく、士恩は宿場へと足を向けた。今すぐに答えを出そうとしたところで、どうにもならないのだ。取り敢えずは身体を休めて旅の疲れを癒し、それから改めて考えれば済むことだった。
 そう思って数歩足を踏み出したところで、士恩は思いがけない人物に声をかけられた。
「おい、程士恩。待たぬか」
 駆け寄ってきたのは、先の護衛で隊長を務めていた王真恢だった。
「王隊長ではありませぬか。如何されました」
「もう隊長ではない。堅苦しいまねはよさぬか。真恢でよい」
 王真恢は苦笑しながら肩を竦めた。
「他の者からお前が鄂州へ行きたがっていると聞いたのだが……」
「行きたがっている、というほどのものでもありませぬが」
 士恩は、返答に窮した。
「なに、俺も鄂州を目指しておってな。誰ぞ道連れにできる奴はおらぬかと探しておったところだ。鄂州を目指しておるならば、俺とともに参らぬか」
「鄂州行きの護衛でも見付かりましたか」
「いや、その話は俺も見付けておらぬ。いつ来るか分からぬ話を待つよりは、独りで参るが手っ取り早いというものよ。そこで其方の噂を耳にしてな、こうして誘いに参ったということだ」
 士恩は一瞬、言葉を詰まらせた。真恢は単身で鄂州まで行こうとしているようなのだ。いくら腕に覚えがあるとはいえ、この近辺では頻繁に野盗が出没するのである。独り旅など危険極まりない、無謀な行為に思えた。
「独りで参られると申されるのか」
「いや、其方と二人で参るのだ」
「一人でも二人でも同じにござる。野盗が出るというに、危険ではござりませぬか」
「なんだ、斯様なことを心配しておったのか。それは、いらぬ心配というものだ。たかだか一人や二人の荷駄すら運んでおらぬ旅人に、わざわざ野盗が目を付けるわけがなかろう」
 王真恢は、そういって豪快に笑った。
 確かに、その言にも一理あった。利益の望めない旅人を襲ったところで、ただの労力の無駄でしかないのだ。その程度のことに何故頭が回らなかったのかと、士恩は内心で苦笑いを浮かべた。
「それに、俺は鄂州の知人を訪ねに参るのだ。俺と行動をともにしておれば、鄂州へ参ったとて不自由することはあるまい」
 続けて真恢が告げた。その一言で士恩の心は定まった。
「これも何かの縁にござりましょう。鄂州までともに参りましょう」
 その夜、士恩と王真恢は、夜を徹して飲み明かした。

 鄂州の城門が、前方に見えていた。
 鄭州を出立して以来、野盗の類に遭遇することはただの一度もなかった。無論、真恢の言葉どおり、野盗が士恩らを獲物として不足とみなしていたこともあったであろう。しかし、野盗が姿を見せなかった理由はそれだけではなかった。
 鄂州は賈に対するいわば最前線といえる地域である。征西軍と通称される十万にも及ぼうかという正規軍が鄂州に常駐しており、涼西安撫使呂文忠(りょ・ぶんちゅう)が賈に対する備えだけにとどまらず、鄂州周辺の軍政と民政を統括して治安維持にも努めているのであった。
「呂将軍は、軍事のみならず民政にも長けたお方だそうだ。今では、呂将軍なくして西域の安定は得られないとまで言われている」
 王真恢が誇らしげに語った。
 呂文忠という名は、士恩も聞いたことがあった。二十代半ばで科挙に及第した文官だったが、軍事に対する才を見込まれて、涼西安撫使に抜擢されたという経歴の持ち主だ。
 征西軍は、元は陶朝に反旗を翻した賈を討伐する地方遠征軍の一つとして編成された軍隊だった。ところが、度重なる敗戦が続いたことによって次第に賈の勢いに圧迫され、今では討伐軍としての実行力を失って、国境の防衛がその任となっていた。そして、一時はこの国境を維持することすら危ぶまれていたのだが、その危機を救ったのが呂文忠だったという話である。
 士恩は、教師たちから教わったことなどを思い出しながら、真恢の話を聞いていた。おそらく、こうして真恢のような武人との交流がなければ、呂文忠将軍などの軍事に関する情報を思い出すこともなかっただろう。あるいは、思い出したとしても、それはただの知識として、という程度にとどまっていたに違いない。
「俺の叔父が、その呂将軍と昔なじみらしい。故郷を逐われた折り、尋ねてみよと言われたのだ」
 士恩は、真恢の意外な人脈に驚きを隠せなかった。
「もっとも、俺自身は面識がないし、叔父から書状を預かっているだけだ。会えるとは限らぬぞ」
 しばらくして、鄂州の城門まで辿り着いた。まばらではあるが、城門を通過しようとする人たちが列を作っている姿が見える。城門には数名の門番が槍を構えて立っており、検問を行っていた。
 真恢は、持参した書状を門番に手渡し、呂文忠との面会を求めた。書状を受け取った門番は、不審そうな表情を見せながらも、確認の手続きを進めて二人にしばらく待っているようにと伝えた。
 程なくして、衛兵を数名伴って巧に馬を駆る初老の将が姿を現した。
 その将は、体格は大柄ではなく、際立って逞しいといえるほどでもない。しかし、堂々たる風格を漂わせた人物だった。
 初老の将は、年齢を感じさせない軽快な身のこなしで地に降り立った。
「書状は読ませてもらった。わしが呂文忠である。王如誕(おう・じょたん)殿の甥御が参ったと聞き、急ぎ馳せ参じた」
 真恢は一瞬呆気にとられたが、すぐさま呂文忠自らが出向いたことに気付き、恐縮して跪いた。士恩も慌ててそれに倣う。
「某、江東慎南(しんなん)の生まれにて、姓は王、名を真恢と申します。呂将軍自ら足をお運びになられるとは、恐悦至極にて……」
「よさぬか、王真恢殿。わしと如誕殿とは、幼少より供に机を並べて学び、いわば兄弟も同然の間柄。如誕殿の甥御であれば、わしにとっても其方は甥だ。そのように畏まる必要はない」
 呂文忠は自ら真恢の手を取って立たせた。
「真恢殿、よう参られた。其方とは面識がなくとも、旧友と再会した心地だ。嬉しく思うぞ。さあ、我が邸へと案内いたそう」
 そして、呂文忠は真恢に倣って畏まっていた士恩に視線を向けた。
「そちらの御仁は……」
「この者の名は、程士恩と申します」
「程……?」
 呂文忠は一瞬首を傾げるようにして呟くと、怪訝そうな表情を浮かべたまま、まじまじと士恩を観察した。
「もしや、程世徳殿の御子息ではないか」
 不意に父親の名前を呼ばれ、士恩は一瞬言葉を詰まらせた。
「程世徳は、父にござります」
「やはりそうか!」
 士恩の言葉に、呂文忠は手を叩いて喜んだ。
「程姓を耳にして思い出したのだ。其方の顔に見覚えがあるような気がしたのだが、なるほど、程先生の面影がある」
 呂文忠は、懐かしそうに目を細めながら何度も頷いていた。
「今日はなんとめでたいことか。思いがけず、旧知の縁者と巡り会えるとは!」
 呂文忠は、真恢や士恩の手を取って全身で喜びを表現した。
 だが、士恩の心境は複雑なものであった。程家を飛び出し、遙か遠方の地へとやってきたはずだった。しかし、程家とは縁もゆかりもないようなこの地でも、程家の名がつきまとうのだ。
「いつまでも斯様なところにいても致し方あるまい。とにかく、早く我が邸へと参ろうではないか」
 呂文忠は士恩ら二人を城内へと案内していった。
「お前、あの程家の子弟であったのか。何故、今まで隠しておった」
 道中、真恢が小声で問い質してきた。しかし士恩は、視線すら合わせようとせず、ずっと押し黙っていた。

 呂文忠の邸に招かれた士恩と真恢は、三人で酒を酌み交わしていた。召使いたちは、酒や料理などを一通り運んだ後、呂文忠の命で奥に下がっていた。余人を交えずに語り明かそうという、呂文忠の配慮であった。
「程先生が亡くなっておられたとは……」
 士恩から事の子細を聞かされた呂文忠は、さすがに落胆の色を隠せないようであった。
「程先生……いや、士恩殿のお父上には、若輩のみぎりに何かと面倒をみてもらったのだ。今のわしがあるのも、お父上に引き立てていただいたからに他ならない。最後にお会いしたのは、十五年も前だっただろうか。政務にかまけて疎遠になっていたのだが……」
 呂文忠は深い溜息をついて、杯につがれた酒を一気に飲み干した。
「だが、こうして貴殿と会えたのも、あるいは、お父上のお導きやもしれぬな」
 呂文忠は、士恩の杯に酒をついだ。士恩は、神妙な面持ちで受け取り、一息で杯を空けた。
「とはいえ、正直、わしは驚いたぞ。程家といえば文人の家系。斯様な辺境の地でその御子息にまみえることができるとはな。それも、朝廷の役を負って参ったわけでもない様子……」
「おお、そうだ。俺も気になっておったのだ。程家といえば、俺でもその名を知るほどに朝廷で名の通った文の名門。その程家の子弟が武者修行まがいの旅をしておるとは、よほどの理由があるに相違ない」
 呂文忠と真恢の両名が、半ば問い詰めるような眼差しを士恩に向けた。
 士恩は表情を曇らせた。言いたくなかった。言えるわけがなかった。ここで言ってしまっては、己の恥を世にさらすことになる。いや、それだけではない。ここまで辿り着いた意味を失ってしまうかもしれない。そんな不安を士恩は抱いていた。
「まあ、人は誰しも、明かしたくない過去の一つや二つがあるものだ」
 士恩の心中を察した呂文忠が呟いた。
「如誕殿は息災か」
 呂文忠は唐突に話題を変え、士恩の話を打ち切った。
「故郷を発って以来、しばらく会っておりませぬが、あの叔父上のことにござりますから、今もしぶとく生き長らえていることにござりましょう」
「違いない」
 真恢と呂文忠は、顔を見合わせて笑った。
「如誕殿の書状によると、其方は江東随一の暴れ者のようだな。故郷を飛び出したのも、その性格が災いしたとか」
「左様にござる。天下の安寧のために働くべき憲兵が不正に荷担していた故、溜まりかねて、思わず上官を成敗してしまい申した。すると、騒ぎを聞きつけた役人どもが兵を連れて行く手を阻み、十重二十重と取り囲む。しかし、正義は我にあり。某は怯むことなく打ちかかり、群がる兵どもを二、三十人ばかり斬り倒して見せるや、木っ端役人どもは恐れをなして我先にと逃げ惑う」
 王真恢は、待ってましたといわんばかりに、己の武勇伝を大仰に語った。
「されど、正義を働いたとはいえ、役人を斬り倒しては、故郷に留まることは出来申さず。それ故、叔父を頼って閣下を訪ねて参った次第」
「わしの知っている話と、ずいぶん違っておるようだな」
 得意げに話す王真恢に対し、呂文忠は笑いながら王如誕の書状を広げた。
「この書状によると、不正を働いた上官を縛り上げ、上官を助けようと群がった憲兵十数人のうち五人を素手で軽くあしらったという地味な立ち回りだったようだ」
「叔父上は、斯様なことまで書いておられるのですか!」
 真恢は情けない声で悲鳴をあげた。
 呂文忠と士恩は、思わず吹き出した。腹を抱えて笑う両名を真恢は恨めしそうに見やり、憮然とした表情で立て続けに酒を三杯あおった。
「地味だとて何も恥じることはないぞ。なんでも、相手は皆、剣や槍を構えて其方を取り囲んだそうではないか。それを其方は素手で、しかも上官を担いだまま相手したそうではないか。それに、そうやって暴れ回っておきながら、負傷者一人出なかったという。並の腕で為せるものではない」
 呂文忠がすかさずなだめるように言って聞かせると、途端に真恢は機嫌をよくして酒をついで回った。
「だが、噂話ばかりを聞いておっても、其方の腕っぷしがいかほどのものかは分からぬ。どうだ、明日にでも、我が将兵らと腕試しでもしてみぬか。腕次第では、其方を将として迎えることもできよう」
「おお、願ってもないことにござる。某もこの地へ遊びに参ったわけではござらぬ。明日は、この腕にて、閣下の度肝を抜いてくれましょう」
 そう言って真恢は力こぶを作って見せた。その様子を見て呂文忠が満足げに頷いていると、真恢がにやりと笑みを浮かべて言葉を続けた。
「されど、閣下は明日、さらに驚くことになるやもしれませぬぞ」
「其方、何を企んでおる」
 真恢の意味深な言葉に、呂文忠は半眼になって質した。
「明日は是非、士恩の騎射の術もご覧になるがよろしいと存ずる」
 士恩の了承も得ずに、真恢が唐突に提案した。士恩は、口に含んでいた酒を吹き出しそうになり、噎せ込んでしまった。
 士恩が噎せて抗議できないのをいいことに、真恢はさらに勝手なことを口にした。
「某、中原の各地を巡って数々の武芸者と名乗る輩と出会い申したが、いずれも天下に名を馳せる器を備えた者ではござらぬ。しかし、この程士恩めは違い申す。剣術の類こそ赤子同然にござりますが、天下広しといえども、士恩の弓術に並ぶ者はただの一人もおりませぬ」
 真恢の言葉に、呂文忠が疑わしげな視線を送る。だが、真恢はいたって真剣であった。
「閣下は、士恩が程家の子弟であることを懸念されているのではありませぬか」
 呂文忠は、横目で士恩の様子を伺った。士恩は、またふさぎ込むように顔を俯かせていた。実家の話題が出る度に見せる、暗い表情だ。
「されど、ご懸念には及びませぬ。某、己の自慢話でほらを吹くことはあっても、友の話でほらは吹きませぬ」
 どうしたものかと、呂文忠は思案をめぐらせた。このことに関して、真恢が嘘を言っているとは思えなかった。それに、気になるのはやはり士恩であった。かつての恩人の実子なのである。士恩の父世徳は既に世を去っており、呂文忠は遂に恩返しをすることができなかったのだ。
(……やはり、天のお導きやもしれぬな)
 呂文忠は、口元に微笑をたたえた。
「なかなかに興味深い話だ。士恩殿、ここはひとつ、真恢殿とともにその腕前を披露してはくれまいか」
 士恩は手にした杯に視線を落として俯いたまま、しばらく返答しなかった。呂文忠は士恩を急かすことなく、じっと待ち続けた。
 士恩は杯に残った酒を一気にあおった。そして、呂文忠に向き直って姿勢を正すと、深く頭を下げた。
「――承知いたしました」
 士恩は静かに答えた。


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