空想歴史文庫

我が天命の地



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其の三


 洞谷(どうこく)から鄭州(ていしゅう)へ向かう隊商と、士恩は行動をともにしていた。
 燕州で醜態をさらしてより、既に一カ月余りが過ぎている。燕州を去った後、一時は徐昌の程家に戻ろうかと弱気にもなった。しかし、今更戻ることなどできるはずもなく、仕方なく西を目指すことに決めたのだった。
 一カ月も旅を続けていると、わずかしか持ち合わせていなかった士恩の路銀も、遂に底をついてしまった。幸いにして、士恩は洞谷で路銀調達のあてを見つけることができた。偶然、洞谷から鄭州へ向けて荷駄を輸送する隊商の一行に出会ったのである。これは西域へ向かういくつかの隊商が集まったもので、馬車二十輌、商人三十余名という大規模なものであった。そして、この隊商が鄭州まで向かう道中の護衛を募集しており、士恩はこの一行に加わった。
 洞谷や鄭州は中原の西域、涼西(りょうせい)地方の都市である。鄭州から街道沿いにそのまま北西へ向かえば、やがて賈と国境を接する鄂州(がくしゅう)へと至る。鄂州は、賈だけでなくそれよりさらに西方の諸国との交流の玄関口であり、古来より東西の文化交流がここで為されることとなっていた。士恩が同行する隊商は、こうした西域との交流で利益を得ている商人たちの集まりだった。
 この隊商の護衛は、全部で四十六名である。洞谷に到着した頃は二十名足らずという少人数の護衛だったのだが、そこからさらに西へ向かうにあたって護衛の数を倍以上に増やしたのだ。士恩は、そのときに新たに加わった一人であった。
 洞谷を発つにあたって、隊商が護衛を増強したのには理由があった。鄭州周辺の地域は、野盗が度々出没することで知られた土地だったのだ。
 この近辺を荒らし回る野盗の多くは、かつて賈の軍隊に属していた者たちである。陶朝との度重なる戦闘の際に逃げ遅れたり、または自ら逃亡を図った残党兵たちであった。一つの集団はそれほどの人数ではないのだが、逃亡兵とはいえ兵士として正規の訓練を受けた連中が集まったものであるため、並の野盗とはわけが違うのである。
 この野盗は、賈の軍隊から逃亡した兵士たちとはいえ、賈人たちの姿は殆ど見られない。陶人や契、闖といった賈人以外の民族が殆どだ。中には、賈よりもさらに西の胡(こ)や蕃(はん)といった国の人間の姿も見られた。民族は違えども、これら殆どの者たちが、元は賈の兵士として働いていたのだ。
 賈は元々、少数民族の興した国であった。それが近年、急速にその勢力を拡大するまでに至ったのは、人種を問わず戦力になる者を雇い入れることで兵力を増強し、それぞれの人種ごとに外人部隊を結成していたところにあった。
 新興国家である賈の国内では、実力さえあれば人種や身分を問わず積極的に要職に就けるという方針が執られていた。急速に進歩を遂げる賈国内にあっては、実力こそが全てなのである。こうした積極的な人材登用によって急成長し、さらに、その噂を聞き付けて各国より集まった人材が切磋琢磨することで加速して発展したのだ。こうした動きが軍事においても採用されており、外人部隊が組織されることとなったのだった。
 もっとも、兵士として組み込まれる人間に、個人の能力が優れた者などは必要なかった。優秀な人材は、隊長格の任に就いたり、将軍や太守といった支配者階級の役職が与えられるのである。兵士として働く者たちは、その殆どが捕虜や流民として賈に逃れてきた者たちであった。
 しかし、その中にも例外がある。賈が従属させている胡、蕃の両国からは、若く健康的な成人男子を兵士として徴発しているのだ。
 胡、蕃両国は、元は賈と同様に陶朝に服従していた異民族国家であった。それぞれ陶朝と国境を接してはいなかったものの、朝貢して臣下の礼をとり、陶朝より王位を授かっていた国家だったのである。それが、賈の反乱が頻発するようになると、強大な武力を保持する賈の脅迫に屈し、胡、蕃両国は賈の属国として従うこととなった。そのため、胡人、蕃人部隊の補充は、徴兵というかたちで行われているのであった。
 こうした外人部隊結成は、短期的に軍事力を増大させる点では功を奏していたが、弊害が全くないというわけではなかった。それというのも、元が賈の人間ではなく、金や名誉、あるいは脅されるなどして兵士として戦っているため、心底賈に対して忠誠を誓っているとはいえなかったのだ。その影響の一つといえるものが、鄭州近辺で発生する賈軍残党の野盗たちである。彼らは、賈軍の支配を嫌って、逃げてきた者たちなのだ。
 こうした逃亡者を出しているという事実がありながらも、未だに外人部隊が存在し得る理由は、彼らの背後に控える賈軍本隊の存在によるものであった。屈強な騎馬民族である賈人で構成される賈軍本隊は、凄まじく精強な軍隊なのである。数こそ少数なのだが、その戦力は、倍以上の兵士で構成される外人部隊を遙かに凌駕するものであった。こうした背後からの恐怖に支配された外人部隊の兵士たちは、まさに死に物狂いとなって戦に臨むのである。
 無論、恐怖のみで支配できるほど、兵士の統率は甘いものではない。実力主義の賈の体制にあっては、まさに戦功を立てることこそが立身出世の最大の近道である。手柄を立てれば、それに見合った地位と名誉が保証されているのだ。戦っても逃げ出しても殺されるというのであれば、一攫千金を夢見て戦う以外の道はないのだ。
 外人部隊の兵士たちは、こうした恐怖と出世の絶妙な均衡の中で必死に戦い続け、そして生き抜くのであった。
 野盗が賈軍の残党兵だとはいえ、そういった中で生き抜いてきた兵士だった者たちである。しかも、賈軍本隊の追撃から逃れることのできた者たちでもあるのだ。従って、彼らをただの野盗などと侮ることはできないのである。
 事実、何度か野盗の討伐隊を編成した鄭州などでは、神出鬼没な彼らをなかなか見付けることができなかったり、あるいは、逆に打ち負かされたりすることがしばしばあった。数も少ない野盗などと侮ったことが原因でもあるのだが、倍以上の陶朝正規軍を何度も撃ち破ったことは、紛れもない事実なのである。それほどの危険にさらされる恐れがあるのだから、特に野盗たちの標的となりやすい隊商が鄭州周辺を行き来する際には、護衛が多いに越したことはないのだった。
 とはいえ、四十名程度の護衛は、決して多いといえるものではなかった。無論、少なすぎるというものでもない。しかし、最近では、五十名を超す大規模な野盗が出没するという噂もあるという。商人たちと合わせて、総勢八十名にも及ぼうかという大所帯ではあるが、数が多いからといって野盗に狙われないという保証はないのだ。戦闘に長けた者が少ない集団であれば、いくら数がそろっていても意味がないのである。
 四十余名の護衛をまとめるのは、王真恢(おう・しんかい)という大男だ。歳は、三十前後といったところだろうか。なんでも、江東(こうとう)の出身だという。江東は、中原南部を流れる大河慎江(しんこう)下流域一帯を指す地域だから、鄭州とはまるで正反対の方角からやってきたことになる。
 初日は、何事もなく無事に過ぎそうな気配であった。夕陽も西の地平線へと落ちて行き、辺りを夜の闇が包み始めた。
 一行は、各々手分けして夜営の準備を始めることとなった。護衛隊長の王真恢が、手慣れた様子で天幕を張る指示を与えている。さすがに江東から西域まで旅をしているだけあって、こういった作業はお手の物といった様子だ。
 夜営中は、三交代で警護が行われる。士恩は、二番目の組に入っていた。順番が回ってくるまで、護衛の兵士たちは仮眠をとることになっている。しかし、ひと月余りを旅してきたとはいえ、士恩は野外での生活に慣れているとは言い難く、なかなか眠りに就くことができなかった。仕方なく、士恩は眠らずに護衛の番が回ってくるまで起きていることに決めた。
 士恩は、弓の手入れを始めた。磨いたり、弦の締まり具合を確かめるために空撃ちをしたりなど、時間を潰すことはいくらでもある。幼少の頃にもらった子供用の弓が、身体が成長したことで使えなくなってからは、自分自身で弓を造るようにしていた。当然、最初のうちはできの悪い弓ばかりしか作れなかったが、今では自分の身体に合った弓を造ることができるようになっていた。いや、造った弓に合わせることのできる弓術を身につけたというべきだろうか。いずれにせよ、士恩が手にしている弓は、まさに士恩の身体の一部に等しいものとなっていたのだった。
 足音が近付いてきた。振り返ると、王真恢が隣に腰をかけてきた。
「眠れるときに寝ておけ。いざというときに動けなければ、話にならぬ」
「分かっているのですが、どうしても寝付けないのです」
「街での生活が、染み付いて離れぬということか。野営での手際の悪さを見れば察しがつくというものだ」
 王真恢が、口元だけで笑みを浮かべて言う。
 士恩は答えなかった。
「弓の手入れも大切だが、こう暗くては使うこともできまい。眠らずとも、横になるだけでも違うものだ。旅は長いのだぞ。無駄な体力は使うな」
 王真恢は、そう言ってその場を離れた。その後も王真恢は、他の警護の者たちにも、一人一人声をかけていた。
 士恩は、王真恢の言葉に従って、身体を休めることにした。
 その夜は、何事もなく過ぎていった。

 北方では、徒歩で旅をすることは殆どない。この隊商も、皆が馬を使っていた。しかし、大量の荷駄を運んでいるのだから、足取りはゆったりとしたものである。
 一向は、二十輌の馬車と三十名を超す商人を中心に固め、その前後左右を護衛の騎馬が囲むようにして進んでいた。護衛四十数名では、この隊商を守るのにはやや足りないという感じがしていた。
 士恩は、隊商の左側を守っていた。王真恢の指示である。王真恢は先頭にいることが多かったが、時折全体を見回ったりもしていた。昨晩もそうであったが、王真恢は、そうやって護衛全員にまで気を配っているようだった。
 王真恢が、士恩の隣に馬を進めてきた。
「皆がお前をなんと呼んでいるか、知っておるか」
 唐突に王真恢が訪ねた。
「――は?」
 突然のことに、士恩は質問の意味を理解することができず、問い返していた。
「皆がお前を、書生と呼んでおる。見るからに小柄で、華奢な印象を受ける。風貌からして、とても武術の心得がある者とは思えぬ。護衛など似つかわしくない故、ここまでしばらく其方の様子を見ていたが、実際に身のこなしは素人同然に見える。俺とて、お前が書生を名乗れば、信じるであろうよ。しかし、昨晩の弓を見て気が付いたが、なかなかどうして、上体は程よく鍛え上げられておる。よほど弓の鍛練を積んだのであろう。それに、その手綱さばきといい、ただの書生とは思えぬ。かといって、武人というわけでもあるまい。まったく、お主という奴は、不思議な男よの」
 王真恢の言葉に、士恩は困惑していた。王真恢にどう答えればよいのか、士恩は言葉を決めかねていた。
「確か、徐昌の出身と聞いたが、お前であれば、都でも名の知れた家柄の者だったのであろう。俺たちのような荒くれ者と、雰囲気が違う。都では、何をやっていた」
 士恩は視線を逸らし、答えることを拒んだ。思い出したくないのももちろんであったが、事情が事情だけに、迂闊に口を滑らせるわけにはいかなかったのだ。
 王真恢が、小さく溜息を付いた。
「俺は、江東で憲兵をしていた」
 気を利かせたのか、王真恢が話題を変えてきた。生い立ちと、この旅に出る経緯を話し始めたのである。
 士恩は、その話を王真恢が他の者に話しているのを聞いたことがあった。確か、憲兵となってからしばらくして、ある事件を起こして役人に追われるようになったはずだ。
「ところが、上官と馬が合わなくてな。我慢できず、殴り倒してしまった。それで俺が、逆に憲兵に追われる身となって江東の地を離れることになったのだが、そのとき俺は、群がる役人どもを、二十人斬っている」
 王真恢が、自慢げに話している。
 士恩は、ふと首を傾げた。他の者に話していた内容では、斬った役人の数は十人だったはずだ。記憶違いかもしれなかったので、士恩は敢えて問い質すようなことはしなかった。
「それで、お前の方はどうなのだ。俺の話をしてやったのだ。お前が話しても、罰は当たらぬであろう」
 士恩の不安をよそに、王真恢が無理矢理話題を戻してきた。
「話すほどのことではござりませぬ」
「つれない奴だ」
 頑なに拒み続ける士恩に見切りをつけたのか、王真恢はつまらなそうに呟いて、士恩から離れた。そして、また別の人間を相手に、何やら話を始めていた。

 それから一刻(約二時間)ほど進んでなだらかな丘に差し掛かったとき、不意に警告の声が発せられた。
「賊が現れたぞ!」
 護衛の一人が丘の頂上辺りを指差した。隊商の左側だ。騎馬の一団が、土煙を巻き上げながらこちらへ向かってくる。ここからでは、まだ、数は分からない。
「徐勲(じょ・くん)! 五名を連れて先導し、隊商に先を急がせろ!」
 王真恢が声を張り上げ、素早く指示を与える。
「他の者は俺に続け。賊を隊商に近付けるな!」
 その声を聞くまでもなく、既に護衛の兵士たちは動き出していた。いずれも、場慣れした素早い対応である。
 五、六名が先行し、それに追従するように、後続の兵の一部をまとめた王真恢が駆け出していく。賊の出現位置と相対する隊商の右側を守っていたために出遅れた兵士たちも、少数ながら、散り散りにならないように隊列を組んで、王真恢らの後を追っていった。都合、三十余騎の騎兵が賊の一団に殺到した。しかし、数の上では野盗の方が勝っていた。ざっと見たところでも、五十騎は優に超えている。
 士恩の周囲からは、既に味方の姿がなくなっていた。皆がそれぞれ、隊商を守るために動いているのだ。だが、士恩は動かなかった。いや、身体が震えて、動けなかったのだ。
「俺が敵陣の中央に斬り込み、分断する。お前らは分断した右の集団を一丸となって叩き潰せ!」
 臆病風に吹かれる士恩をよそに、王真恢が一気に加速して先頭に立ち、賊の一団に飛び込んだ。一団のど真ん中である。王真恢は手にした大薙刀を担ぎ上げ、雄叫びを発しながら大きく振りかぶった。
 ――一閃。
 血しぶきが上がる。瞬時に、賊の首が三つ、宙を舞った。さらに、返す刀で一振り。抵抗する間もなく、二人の賊が身体を両断された。王真恢が、ほんの二振りで賊徒五人を葬ったのである。
 王真恢を強敵と見て取った賊徒らが、咄嗟に、王真恢を中心に左右二手に分かれて回避を試みた。王真恢の読み通りの動きである。数に勝る賊を分断して各個撃破する。その第一段階だ。
 後続の兵たちが右側へ避けた集団へと襲いかかった。と、両者が接触する直前、賊徒らがさらに散開した。予想外の動きに護衛たちは戸惑い、一瞬動きを止めた。その隙を突いて賊徒らが瞬く間に十騎余りを斬り伏せる。護衛の兵らは、辛うじて反撃して二騎を仕留めるに留まり、易々と突破を許してしまった。
 王真恢は舌打ちとともに馬首を返した。少なくとも、数の不利を覆した状況であった。賊の動きに惑わされずにそのまま正面から当たっていれば、足止めのみならず、賊の半数に大きな損害を与えることも可能だったはずだ。しかし、急拵えの集団では、そこまでの意志疎通はできなかったようだ。
 反転した王真恢らは慌てて引き返した。しかし、賊の集団は勢いを衰えさせることなく、その遙か前方を走っている。逃げる隊商に追いすがろうとする賊の一団を遮るものは、もはや何もない。賊徒らの気勢がさらに高まった。
 士恩は、まるで傍観者の如く、この状況を眺めていた。隊商は既に先へ進んでいたが、士恩は先程の位置から一歩も動いていなかったのだ。
 賊が隊商に向かって猛然と突き進む姿が見えていた。賊は、士恩から徐々に遠ざかるように駆けていく。賊が士恩に向かってくる気配は、まるで感じられない。士恩はこの状況に、心なしか安堵を覚えていた。
 士恩には、実戦の経験がなかった。それどころか、真剣での訓練ですら殆ど経験がない。二十五年間、その殆どが机に向かって勉学に勤しむばかりの生活をしていたのだ。多少弓の鍛錬をしていたとはいえ、それは実戦とはほど遠いものであった。まして、それは全て独りで行ってきたものだ。誰かと向き合い、闘うという行為とは、まるで別物なのである。
 士恩の身体は恐怖に震え、身動きがとれなかった。護衛の仲間たちは皆、それぞれが武芸に秀でた者たちだったはずだ。少なくとも、士恩の技量と比べれば、天と地ほどの差があるに違いない。その彼らが、驚くほどあっさりと賊に討ち取られていた。武芸に劣る士恩が立ち向かうなど、わざわざ殺されに向かうようなものだった。
 士恩は、恐怖を振り払うことができなかった。不意に、その脳裏に燕州での醜態が浮かんでくる。全皓将軍が真剣を向けてきた。殺されると士恩は思った。全皓将軍にそのつもりはなかったのだが、士恩は真剣を突きつけられただけで死の恐怖に取り憑かれてしまったのだ。今でも、その光景を思い出しただけで、全身が恐怖に打ち震えるほどである。想像の中でさえ恐怖で身体がすくんでしまうというのに、現実の世界で真剣を振りかざす相手に立ち向かっていくなど、不可能なことであった。
(今なら、まだ程家に戻ることができる――)
 淡い期待に、士恩の心が揺れ動いた。
 程家を飛び出す直前に長兄士奉は本気で士恩を殺すと言い放った。無論、それに偽りはないことは分かっている。しかし、士恩は血を分けた兄弟なのだ。肉親であるが故に、さすがの士奉も簡単には士恩を殺す決心がつかないのではないだろうか。
 恐怖で弱気になった士恩の頭に、そんな考えが浮かんできた。
 これまで、程家に戻ろうと考えたのは、一度や二度のことではなかった。辛さを感じる度に、程家に戻って許しを請うことばかりを考えていた。それでも今までは、母や三人の兄に厳しく咎められる恐怖の方が勝り、思い直していたのだ。しかし、今回はまるで事情が異なっていた。前に進めば、確実な死が待ち受けている。それに比べれば、叱責されることなど、大したものではないように思えたのだ。
(――このまま徐昌へ戻ろう)
 幸い、前金で多少の路銀は受け取っている。切り詰めていけば、徐昌に着くまで路銀はもってくれるはずだ。
 士恩は決意し、震える拳をきつく握りしめた。
 その時、士恩は左手の感触に気が付いた。視線を落とすと、左手が弓を握りしめていた。
 不意に、士恩の全身から冷や汗が噴き出した。鼓動が早くなり、息苦しさを感じる。士恩は、愛用の弓を凝視していた。視線を外すことができない。何かに取り憑かれたかのように、士恩はその弓を見つめ続けていた。
(何を考えていたのだ!)
 士恩は、己の浅はかな考えに気が付き、愕然とした。
(まだ、何もしておらぬではないか。また、ここで逃げ出すというのか)
 士恩は、科挙受験の辛さに耐えきれず、程家を飛び出した。燕州では、真剣の恐怖に立ち向かうことができず、逃げ出した。ただの一歩さえも足を踏み出すことはせず、困難が立ちはだかる度に背を向けていたのだ。
 自慢の弓術を頼みに立身するなどといったところで、士恩はまだ、何一つ事を為してはいなかった。ただ、逃げ回っていたにすぎない。
(俺は今、何故ここにいる。何を為すために、ここまでやってきたというのだ。この弓で身を立てるためではなかったのか。この弓を頼りにここまで来たのではなかったのか。今ここで戻ってどうなる!)
 誰に言われたわけでもない。紛れもなく、自らの意志によってこの地で弓を手にしているのだ。それと悟った次の瞬間、士恩は無意識のうちに馬復に蹴りを入れていた。
 士恩は、奥歯をぐっと噛み締めた。震えて、歯が鳴っていたのだ。恐怖が消えているわけではなかった。弓を握りしめる手も、がくがくと震えている。
(弓であれば、腕に多少の自信はある。剣を使うわけではない。身に危険が及ぶようなことはないはずだ!)
 士恩は自分自身に言い聞かせた。
 視線を前方へと向けると、賊の一団が隊商に迫っていた。士恩は、右手を矢筒に伸ばした。矢を三本抜き取ると、それぞれ一本ずつを右手の指の間に挟み、三本の矢をまとめてつがえた。
 狙うは、賊の先頭を駆ける三騎。距離は七十歩(約百メートル)程度。標的が動いていようと、士恩の腕であれば狙い違わずに射貫くことなど造作もない距離である。
 弓を引き絞る。賊は、士恩の存在に気付いていない。今なら、この引き絞った矢を放つだけで、あの賊の命を奪うことができる。何も難しいことではない。ただ、右手で弦を弾くだけでよいのだ。
 だが、士恩は躊躇した。この矢を放った瞬間、これまでとは全く別の世界へと足を踏み入れてしまうのではないかと不安になったのだ。
 ――まだ戻ることができる。
 再び、弱い心が姿を現した。賊は、隊商を追いかけることに夢中で、士恩には見向きもしない。今引き返したところで、誰も追ってくる者はいないのだ。
 士恩は、目を閉じた。まだ、全身がかすかに震えていた。
 大きく一呼吸。
 かっと目を見開き、士恩は矢を解き放った。
 もはや、後戻りはできない。一度放たれた矢は、ただひたすらに標的めがけて飛んでいくしかない。
 士恩の放った矢が、先頭の男の喉を真横から刺し貫いていた。士恩の矢に喉を貫かれた賊は、もんどり打って落馬した。同時に放たれた第二矢、第三矢も狙い違わず、続けざまに二人の賊を射抜いていた。
 士恩は、素早く次なる矢を手にする。さらに続けて斉射、一度に放たれた三本の矢が、それぞれ確実に賊徒を葬っていく。士恩は、瞬く間に賊を六人倒していた。
 賊の一団との距離が近付く。その距離、三十歩余り(約五十メートル)。
 矢筒に手を伸ばす。さらに三本、新たな矢を取り出した。先程より、距離は近付いている。よほどの強風でも吹いていない限り、もはや外すことはあり得ない距離だ。
 士恩は、賊の正面へ回り込むように馬を進めた。賊の足並みが乱れはじめている。士恩の突然の横槍で、しかも瞬時に六人もの同志が射殺されたのだ。新手の登場に、賊は動揺したのである。
 士恩は、無心に矢を放ち続けた。一人目は左目を、二人目は喉を、最後は眉間を射抜いた。射られて落馬した賊の一人が周囲を巻き込み、数名を道連れにして人馬もろとも横転した。
 賊は浮き足立っていた。矢を恐れた賊の前衛が失速し、後続と接触して混乱が拡がる。
 勝てる――そう確信した士恩は、とどめの一撃を見舞おうと矢筒に手を伸ばした。しかし、その手が空を切る。既に矢が尽きていたのだ。
 やむなく、士恩は馬を止め、腰の剣に手をかけた。手の震えが止まっていることに、士恩は気付いていなかった。
 その時――、
「賊徒どもが!」
 王真恢が賊の背後から襲いかかった。士恩が賊の足止めをした間に、賊徒の一団に追いついたのだ。
 王真恢の大薙刀が、それまでのうっぷんを晴らすかのように、唸りをあげて賊徒らを斬り伏せていく。わら人形の首を撥ねるが如く、一人、二人と賊を薙ぎ払う。浮き足立っていた賊徒らは、王真恢の逆襲にたちまち色を失った。そこへ、残りの護衛が雪崩れ込んできた。
 勝負が決した。王真恢らの突撃で背後から突き崩された賊は、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。王真恢は、敢えて賊が逃げるに任せて追撃せず、護衛の兵をまとめて隊商の方へと向かった。
 隊商の一行は、勝利にわき上がっていた。一時は絶体絶命にも等しい状況に追い込まれたのだが、終わってみれば積み荷は全て無事だったのである。人的な被害は多少出たものの、荷駄に損害がなかったことに、商人たちは歓喜の声を挙げていた。
「隊長、お見事です」
 王真恢らが追いつくのを待って、徐勲が迎えた。隊商を先導していた他の護衛や商人たちも、安堵の表情とともに王真恢らを出迎えた。
 王真恢は、その一人一人の礼に応え終えると、士恩の許へと足を運んだ。
「なかなか味なまねをしてくれる」
 王真恢がにやりと不敵に笑って見せた。
「一旦は賊をやり過ごしてその横合いから狙撃するとは、なかなかの妙計ではないか。その風貌と身のこなしから少々侮っておったが、騎射においてはまさに百発百中。恐れ入ったぞ」
 王真恢は、心底感服したというように、熱っぽい口調で言った。しかし、当の士恩は戸惑いの表情を浮かべていた。そもそも、王真恢の言うように、策を用いたわけではなかったのだ。単に、怖じ気づいていただけなのである。士恩は、誤解を解かなければならないと思いつつも、適当な言葉が見つからず口ごもってしまった。
「そういうことにしておけ。此度の一番手柄は、紛れもなく其の方のものなのだ。誰もがそれを認めておる。どんな事情があるにせよ、其方の働きあってこその勝利だったのだ。そう気に病むこともあるまい。己の過ちを分かっておれば、それでよい」
 王真恢は、士恩に微笑みかけた。そして、周囲の様子を伺いながら、士恩の耳元で囁くように言葉を続けた。
「それに、其方のおかげで俺の失策も帳消しとなったからな。感謝しておるよ」
 王真恢がにやりと笑みを浮かべて言った。
「失策など、王隊長の凄まじい働きがなければ、我らは殺されておりました」
 士恩が謙遜するように慌てて言葉を返すと、
「当然であろう。俺は、江東で群がる役人を三十人斬り伏せた男だ。この程度の働きなど、ものの数ではない」
 王真恢は豪快に笑って答えたのだった。
 王真恢が斬ったと自称する役人の人数がまた増えていた。しかし、士恩は聞き流すことにした。賊との戦いでの王真恢を見れば、その言葉以上の実力の持ち主であることを容易に伺い知ることができるからだ。
「そういえば、其方の名は何といったかな」
「――程士恩」
「程士恩か、覚えておこう」
 王真恢は力強く頷いた。
 この戦闘で、護衛の兵のうち八名が命を落とした。深手を負ったのは四名で、七名がかすり傷程度の軽傷を負った。護衛はおよそ五分の一が失われた。しかし、その生き残った護衛の中に士恩の姿があった。
 士恩は、生き延びていた。不意に、身体が震えだした。戦闘を終え、生き延びたと意識した途端、全身が震えだしたのだ。今頃になって、士恩の身体が、恐怖におののき始めたのであった。
「出立!」
 王真恢が、号令をかけた。隊商が、鄭州へ向けて進み始める。
 士恩の身体は、まだ震えていた。


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