雲一つない晴天が空を包み込んでいた。風もなく、頭上から照りつける太陽が、夏の気配をにおわせる。
眼前には、原野が広がっている。視界を遮るものは何一つなく、遙か遠く地平線の彼方を見渡すことができた。
原野を騎影がひとつ駆け抜けていた。栗毛の駿馬を巧みに駆るのは程士恩だった。
士恩は、兄らに厳しく責め立てられたその日のうちに、半ば衝動的に程家を飛び出し、徐昌(じょしょう)の街を離れた。
士恩の左手には弓が握られていた。
士恩は、背中の矢筒から矢を二本取り出すと、器用に矢を一本だけつがえて、おもむろに弓を引き絞った。その視線の先には、的となり得るようなものは何もない。しかし士恩は、構うことなく弓をさらに強く引いた。弓はしなり、小気味よい軋んだ音が士恩の耳に届く。
不意に、士恩は頭上へ向けて弓を構え、そのまま上空へと矢を放った。舞い上がった矢は、青空に燦々と輝く太陽に吸い込まれると同時に、士恩の視界から消えた。
士恩は馬を止めた。半ば無意識の動作で残った矢をつがえる。
一呼吸、士恩は大きく息を吸い込んだ。
愛馬の腹を蹴り、士恩は再び駆け出した。頭上の太陽を目を凝らして見据え、その視線の先へ向けて弓を構えた。
刹那、陽光より生じた一筋の影が、視界を上下に走った。
矢が放たれていた。
一筋の影を追うように、士恩の放った二本目の矢が鮮やかな軌跡を描いて影に吸い込まれていく。
影と矢が交錯し、弾けた。
二本の矢が落ちていた。一方は矢尻の先端が欠けており、もう一方は矢尻の真ん中辺りにひびが入っている。
腕は衰えていなかった。
元は、貴人のたしなみとして、武芸の基礎を教えられたに過ぎない。学問を第一とする程家ではその程度で十分だった。しかし、士恩は、修学と称して拘束されることで鬱屈とした気持ちが高まると、決まって夜に城門が閉ざされる前に家を抜け出し、愛馬を駆って夜通し矢を放ち続けていた。最初は単なる憂さ晴らしであったが、いつの頃からか、自然とわずかな時間も無駄にできないと感じて、真剣に打ち込むようになっていた。
このところは、科挙を受験するために籠もりきりであった。しかし、幼少の頃から密かに積み重ねてきた感覚を身体は忘れていなかったのだ。
程家を捨てた士恩には、この弓術しか残されていなかった。身を立てようとするなら、それだけが頼りである。幸いにも、辺境では、兵士を必要とする情勢が続いている。この技量があれば、路頭に迷うことはないはずであった。
陶朝北部の国境を越えると、そこには二つの異民族国家が存在している。北の国境から西に位置するのが契(きつ)、そしてその東に位置するのが闖(ちん)と呼ばれる国家だ。
古来より、中原の北には様々な騎馬民族国家が存在し、度々国境を越えて中原に侵攻してくることがあった。その異民族国家は、中原同様に何度も勢力が入れ替わるなどして、今は契と闖の両国が領土を二分するように興っていた。その両国も、これまでの異民族国家と同じく、中原侵攻を企てるような動きを何度も見せていた。実際、戦火を交えたことも、一度や二度のことではない。
しかし、それでも中原への侵入を許さずにいられるのは、契と闖の両国が、互いに反目しあっているためでもあった。例えば、一方が中原へ兵を向ければ、もう一方はその背後を狙い、両国が戦火を交えれば陶が兵を起こすというように、三つ巴の状態が続いて戦況が膠着しているのである。
西域に目を向けると、賈(か)と呼ばれる新興勢力が陶朝の西の国境と接して存在していた。賈は、元々陶朝の属国として臣従していた騎馬民族国家であった。それが、二十数年ほど前より度々陶朝の意に背く素振りを見せては反乱を繰り返すようになった。中原の覇者の陶朝にしてみれば、その暴挙を見過ごすわけにはいかなかった。そこで、幾度となく賈に正規軍を送り込んで討伐を試みてはいるものの、ただの一度としてその遠征が成功した例はない。
中原を制した王朝にとって、辺境との摩擦は避けて通ることのできない課題であった。陶朝以前の王朝では、強大な軍事力や高い文化などによってその威光を示して辺境を臣従させてきた。無論、それに従わず、反旗を翻して中原へ侵攻する異民族も後を絶たなかったが、歴代王朝はそれらを退けて威信を保っていたのだった。
しかし陶朝は、その点がこれまでの王朝と異なっていた。従来の王朝の如く異民族と何度も戦を交えているものの、未だに辺境を従えることはできないでいるのだ。北方では契、闖の両国が、西方では賈が虎視眈々と国境を窺っている。陶朝は、辺境を従えるどころか、むしろ軍事的な圧迫を受けている情勢にあった。
ところが、その状況が切実なものであるのは、現実に戦禍を被っている国境付近の人々や、朝廷に深く関わりのある限られた人間だけでしかなかった。事実、徐昌の民の日常を見れば、戦争などはどこか別世界の出来事のようにして、平穏な毎日を過ごしている。当の士恩も、科挙のために勉学に勤しんでいるときに教師から伝え聞いた程度しかこの情勢については知らなかった。
士恩は北へ向かっていた。北の国境には、北方異民族の侵攻に対する重要な拠点の一つに燕州(えんしゅう)がある。詳細な状況がわからない士恩は、単に徐昌からの距離が西方より近いという程度の理由で燕州を目指した。
燕州に近付くにつれて、戦争の噂を多く耳にするようになっていた。その噂の多さに反比例するように、北へ向かう人々の数は徐々に減っていた。戦争が噂される地へ自ら足を運ぼうとするのは、特別な事情を持った者くらいなのだ。
燕州の城門の警備は、厳しくなっていた。検問に並ぶ人の数は少ないが、燕州を訪れる者一人一人に、殺気立った衛兵たちが綿密な身体検査や尋問が執り行っている。士恩は、その雰囲気にやや緊張しながら、列の最後尾に並んだ。
それから間もなくのことである。
「おい、貴様。何故武器を携帯している!」
検問の順番が回ってくるまでにまだ幾人も待たねばならなかったにもかかわらず、不意に衛兵の口から士恩に対して詰問の声が上がった。実際には、神経質になっていた衛兵が、武装した士恩の姿を目にして、少々強い口調で確認しただけに過ぎなかった。しかし士恩は、咎められたものと誤解して、狼狽してしまったのだった。
「お、お待ちください。これは、その……」
突然の事態に、士恩はしどろもどろになりながら後ずさりした。その姿に、声をかけた衛兵が不審を覚えてすぐさま仲間の衛兵を呼び寄せた。駆けつけた数名の衛兵たちは、各々が槍を手にして士恩を取り囲む。
衛兵らは、警戒して士恩に槍を突き付けながら、不穏な動きを見せないかと慎重に様子を伺った。
「貴様、まずは武器を捨てろ。そして、出身と名前、目的を言え!」
「徐昌より参りました、程士恩と申します。戦の噂を聞き付け、馳せ参じました」
士恩は慌てて剣や弓を放り投げ、緊張で上手く舌が回らずに所々詰まりながら答えた。
「徐昌だと?」
衛兵は怪訝そうな表情をして、首を傾げた。徐昌といえば、陶朝の首都だ。中原のどの土地よりも安全な都市である。そのような土地の住人が、好き好んで最前線に赴くなど信じられなかったのだ。そしてなにより、それを口にした当の本人が、まるで戦場が似つかわしくない風貌をしていたのだから、なおさらである。
士恩は小柄な体格で、線の細い印象を受ける容姿であった。士恩がその出自どおり書生と名乗ったならば、おそらく誰もが疑うことなくその言葉を信じるであろう。そして、衛兵と対峙して及び腰となるその様子からも、剣や槍を振り回して戦う姿などは、到底想像することができなかった。
衛兵は、士恩の頭の先からつま先までなめ回すように観察した。そして、しばらく考えた後、
「そこで待っておれ。将軍にお伺いをたてねばならぬ」
他の兵士に士恩の監視を命じて、城内へと姿を消した。
それから四半刻(約三十分)ほどの間、士恩は兵士に囲まれながら待たされることとなった。
陽が西へ傾きかけた頃、先程の衛兵が屈強な武将が乗る馬を引いて戻ってきた。
「全皓(ぜん・こう)将軍、こちらにござります」
全皓と呼ばれた男が、華麗な身のこなしで馬上から士恩の前に降り立った。身長は、士恩より頭一つ半ほど高い、大柄な男だ。鍛え上げられた体躯と堂々たる風貌に、士恩は圧倒されていた。
全皓は士恩を一瞥し、すぐに視線を放置された剣に向ける。そして、再び視線を士恩に向けると、口元を不敵に歪めながら、侮蔑のこもった声色で一言呟いた。
「貴様などに用はない」
言い捨てるや、全皓は踵を返して早々に立ち去る素振りを見せた。慌てた士恩は、追いすがるように全皓に駆け寄り、引き留めようと必死に懇願する。その士恩の様子に、全皓は鼻で笑うと、相手にする気はないと言わんばかりに、手で追い払うような仕草をした。
「何故にござりますか。理由をお聞かせくださりませ」
それでも士恩は、必死で食い下がった。ここで引き下がっては、全てが水泡に帰してしまう。そんな不安が、士恩を駆り立てた。
「書生風情の出る幕ではないわ」
しかし、全皓の言葉は、必死の士恩を突き放すようなものであった。
「何を勘違いして斯様な辺境へ足を運んだかは知らぬが、書生ならば書生らしく書物と戯れておるが道理であろう。戦場など、書生が無理して訪れる土地ではない。それが世の習いというものだ」
この時代、科挙を受験しようとする書生など、文人に属する人間が兵役に就くということは、よほど特別な事情がない限りあり得ないことであった。
そもそも、陶朝において、兵役に服するということは、その間全ての税が免除されるという特例が認められることであり、その代償として、命を懸けて国家の安全を守る責任と義務を背負わされるものであった。
官人や豪商など、裕福な家柄の人間にとってみれば、命を捨てるようなまねまでして課税の義務から逃れようなどと考えるはずもないことだった。しかし、貧しい民にとってみれば、わずかな税といえどもそれは生死に関わる大問題なのだ。兵役に服せば税が免除されるだけでなく、わずかではあるが報酬や食料が支給される。故に、貧民の多くが兵士として志願し、課税を逃れてなんとか食いつなごうとしているのである。
こういった事情は、この時代の常識である。将軍などの格上の役職に就くのであるならまだしも、兵卒として志願する人間が裕福であるはずはない。これまでの士恩の人生とはまるで正反対のものなのだ。
「しかし、私は……」
「くどいぞ。そもそも、わしには貴様が真に志願して参ったなどとは、到底信じられぬ」
全皓はそう言うと、捨てられた剣を指さし、士恩を睨み付けた。
「聞けば其の方、剣を捨てて命乞いをしたというではないか。免税を求めて参る貧民ならいざ知らず、其方のような者であれば、よほどの覚悟がなければ兵士に志願するはずもなかろう。ところが、そのざまは何だ。己の命を守るべき剣を捨て早々に降伏するなど、命を捨てて戦場へ赴く覚悟があるとは到底考えられぬ。其方のように臆病風に吹かれた腑抜けが我が軍に加わっては、全軍の士気に関わる。故に、我が軍は、其方を必要としておらぬ」
「ですが私は、しかと決意をして……」
「くどいと申しておろう!」
全皓が腰に帯びた剣に手を伸ばし、素早く剣を抜き放って上段に構えた。士恩を睨み付けるその眼光からは、凄まじい殺気が発せられていた。士恩は、その鋭い視線に射すくめられて、恐怖で全身が震えはじめた。
全皓が大きく一歩、足を踏み込んだ。そして、上段から士恩の脳天めがけて、一気に剣を振り下ろした。
士恩は恐怖のあまり目をつむっていた。身をすくめながら、両腕で頭をかばい、全身を強張らせた。
しかし、衝撃が士恩を襲うことはなかった。怪訝に思った士恩は、恐る恐る目を開いた。
切っ先が、眼前に突き付けられていた。
士恩は、悲鳴を挙げながら弾かれるようにして後ろへ飛び退き、その拍子に足がもつれて、無様に尻から転がった。
全皓の笑い声が聞こえた。周囲で見物していた兵士たちの笑い声もだ。彼らは、情けない姿をさらした士恩を嘲っているのだ。
屈辱的だった。顔から火が出るほど、恥ずかしかった。士恩は、今すぐにでもこの場を立ち去りたい衝動に駆られていた。しかし、士恩は腰が抜けて立ち上がることができなかった。両足ががくがくと震え、まるで力が入らない。
「なかなかの覚悟ではないか。恐れ入ったぞ。其方が兵士に志願したいというのであれば、歓迎しようではないか。このわしが直々に鍛えてつかわそう」
全皓が皮肉混じりに言って嘲笑した。そして、全皓は、もっと笑えと部下の兵士たちを煽った。
士恩はたまらず顔を伏せて耳をふさいだ。逃げ出したくとも、身体がまるでいうことをきいてくれなかった。逃げ出すことも、身体を動かすことさえも許されないのだ。今の士恩にできることは、ただ、屈辱に耐え続けることだけであった。
だが士恩は、その屈辱にすらも耐えきれず、ぼろぼろと涙を流して泣き崩れた。
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