足がすくんだ。見慣れた風景に心と身体が強い拒絶を示す。目と鼻の先の自邸に戻らねばならないが、身体がいうことを聞かない。
程士恩(てい・しおん)は、こみ上げる不快感に耐えきれず、嘔吐した。
元慈(げんじ)六年のこの年、士恩は、陶(とう)王朝の名門程家の第四子として生を受けてから二十五回目の春を迎えた。程家は、陶朝建国期より一族の多くを高官として輩出する王朝きっての名家であり、現在もその威光は衰える気配を見せていない。
陶では、科挙と呼ばれる任官採用試験が実施されていた。この試験は、身分や出自を問わず優秀な人材を広く求めることを目的として三年に一度開催され、実力さえあれば、貧しい身分の者であっても官僚への道が開かれるものであった。故に、科挙には毎回全国より数十万にも及ぶ受験者が集り、官僚を志す者は後を絶たない。この状況下で試験に及第して官僚への道を歩むことができるのは、わずか数百名という狭き門だった。
程家からは、主家のみにとどまらず、分家からも数多くの人材が科挙を経て世に送り出されていた。士恩の実家でもある程氏本家は、特にその優秀さで名が知れ渡っており、その名を汚す行いは何よりも許されないこととされていた。
その中にあって、士恩は既に二度の受験に落第していた。一般にいえば、二度の落第など珍しいことではない。しかし、その常識は、程家一門、特に本家の人間に通用するものではなかった。士恩の三人の兄たちは、いずれも十八歳前後に受験して直ちに及第するという秀才ぶりを見せているためだ。
その背景には、豊富な財力を用いて優秀な教師を数多く雇い入れ、幼少より厳しく教育を施していた事実がある。こうした傾向は程家に限ったことではないのだが、程家では特に顕著であった。
当の士恩自身も、この教育環境の中で育てられてきた。ところが、各地から名の知れた教師たちが招かれていたにもかかわらず、どのような教師が士恩につこうとも、その成果は一向に上がることがなかったのである。
これは、程家にとって憂慮すべき大問題であった。名門としての体面を特に重んじる程家としては、このまま無学の徒として士恩を世に出すわけにはいかなかった。以来、士恩にはさらに厳格な教育が施されるようになった。たとえ、士恩が望まなかったとしても、拒むことなどは決して許されない。それが、程家に生まれた者の義務であるからだ。
「母上や兄上たちは、また怒るのであろうな」
士恩は、汚れた口元を袖で拭った。不安と恐怖が心を締めつけた。
科挙には解試、省試、殿試の三段階の試験があり、これらの試験に全て及第することで官僚への道が開かれる。程家では、未だかつて解試での落第者を出したことはない。陶朝きっての名門と謳われる程家にしてみれば、解試で落第するなど考えられないことなのだ。
しかし、士恩は解試で三度落第したことになる。程家では、もはや許され難い状況となっていた。
士恩は、半ば這うように壁伝いに歩き出した。
この頃は特に、母や兄らに冷たく、そして辛く当たられるようになっていた。落第を続ける士恩を幾度となく罵り、今回に至っては、試験に通過するまでは程家の敷居をまたぐなとも言われた。ふと、それらが脳裏をよぎるたびに、士恩の足は止まり、嘔吐を繰り返した。
これでは、一族に会わせる顔がない。士恩は、己の不甲斐なさを深く恥じて、踵を返した。
「士恩!」
呼び止める声が響いたのは、まさにその時であった。
士恩の身体が瞬時に硬直した。振り返らずとも、その声の主が誰であるか察しがついている。
「どこへ行くつもりだ」
怒気を含んだ声とともに士恩の肩に手が置かれる。そして、士恩が振り返る間もなく、その声の主が強引に士恩を振り向かせた。
三兄の程士淵(てい・しえん)である。
「兄上――」
「黙れ、この恥さらしめ!」
怒鳴りつけられるや否や、士恩は三兄士淵に襟首を掴まれ、半ば引きずられるようにして邸内へと連れ込まれていった。
士恩は、家族の前に引き出された。
家族は、母の他に三人の兄がいる。父の程世徳(てい・せいとく)は二年前に病に倒れ、既にこの世を去っていた。
亡き父の後を継いだのは、長兄の程士奉(てい・しほう)である。本家筋であったため、程家当主となった士奉が、そのまま一族を率いることとなっていた。長兄士奉は、今年で三十九を迎える。士恩とは一回り以上も歳が離れており、士恩が物心ついた頃には既に科挙に及第していたこともあって、兄弟として接するという機会が希であった。父が他界して士奉が家督を継いだことで、その関係には拍車がかかったようになっていた。
次兄は、三十三歳の程士明(てい・しめい)である。既に程家の分家として独立し、自身の家を持っているのだが、士恩の科挙受験に際し、一時本家に戻ってきたのだ。
程士淵は、三番目の兄にあたる。二十九歳と士恩とも歳が近く、二人で机を並べて学ぶということがしばしば見受けられた。そのため士恩は、事あるごとに士淵と比べられて育ってきたのであった。
三人の兄はそれぞれ一度の受験で及第し、高官としての道を歩んでいた。中でも三兄士淵が宮中でも将来を有望視されるほどの秀才であるため、ともに学んだこともある士恩は、常に肩身の狭い想いをし続けていたのだった。
家族の前に連れ出された士恩は、三兄士淵によって強引に跪かされた。三人の兄と母の四つの刺すような視線が、士恩に向けられる。
士恩は両手を着き、視線を床にさまよわせながら、小刻みに震えていた。
誰も声を発しようとはしなかった。しばらくの間、沈黙が辺りを支配する。普段であれば、数十人に及ぶ使用人がせわしそうにこの大邸宅を駆け回っているのだが、その気配がまるで感じられなかった。
沈黙が士恩に重くのしかかっていた。静けさとはまるで異なる張りつめた空気が、よけいに士恩の精神を圧迫する。声を出すことも顔を上げることもできない。士恩はただ震えるばかりであった。
沈黙は、長兄士奉によって破られた。
「士恩、申したきことがあらば、遠慮なく申してみよ。黙っていては、何も分からぬ」
程士奉が溜息混じりに口を開いた。その口調はいたって物静かなもので、優しげな響きを含んでいた。だが、士恩は、その言葉の優しさとは裏腹に長兄士奉が鋭い視線を投げかけていることを敏感に感じ取っていた。
「大兄、実は……」
士恩は、消え入りそうな声でようやくそれだけを口にした。そして、それっきり士恩の言葉は続かなかった。兄たちの視線が、鋭さを増したように感じたのだ。不意に士恩は胸が押しつぶされるような息苦しさを感じ、呼吸を乱した。
荒く乱れた士恩の息づかいだけが、静まり返った広い邸内に響いていた。士恩は、己の呼吸音を耳にして、さらに焦りを覚えた。このまま黙っているわけにはいかない、その強迫観念にとらわれて声を出そうともがいた。しかし、そう思うほどに呼吸の乱れに拍車がかかり、声が出てこない。そのうち、息を吸っているのか吐いているのかさえも分からなくなり、士恩の意識は朦朧となっていった。
「具合が悪そうだな、士恩。奥で休むか」
士奉の声が、士恩の意識を覚醒させた。
「何を黙っておるのだ。遠慮せずに申せと言ったではないか」
士奉がゆっくりとした口調で促した。士恩は、口元をもごもごと動かしたが、嗚咽のような音をもらしただけで声にはならなかった。
「黙っていては、分からぬであろう!」
しびれを切らした士淵が、怒声を発し士恩に掴みかかった。三人の兄の中では一番若い士淵が、最も血気盛んな性格をしていた。その激しい気性の矛先は、特に士恩に対して向けられる。
士恩は、胸ぐらを掴まれて乱暴に揺すられながらも、黙ってそれに耐えて平伏した。
抵抗することができなかった。理屈ではなく、意志とは無関係に、服従するように身体のいうことがきかなくなるのだ。
「顔を上げよ、士恩」
士奉が、諭すように促した。しかし、士恩は顔を上げることができなかった。士恩の身体には、卑屈に徹する態度が染みついていた。
士奉は、再び溜息をもらした。何度促そうとも、士恩が動こうとしなかったのだ。
「士恩、今年で何度目か」
士奉が半ば投げ遣りに問う。
「三度目にござります」
士恩の口から、ようやくまともな言葉が発せられた。
「いささか、時がかかりすぎるとは思わぬのか」
士恩は再び言葉を詰まらせた。
「お前は、己が程家の人間であることを、忘れたわけではあるまいな」
「……はい」
「ならば、此度こそは、しかとよき結果を聞けるのであろうな」
士恩は、言葉を飲み込んだ。平伏していた身をさらに低くし、額を地に擦り付けるようにして、深々と頭を垂れる。
「何をしておる」
言葉では答えなかった。士恩は、ただただ深く頭を下げ、態度でもって答えるのみであった。
「何をしておるのかと聞いている」
士奉の語調が、わずかに強さを増した。
「申し訳ござりませぬ、大兄」
「なんだ。聞こえぬぞ、士恩。申したきことあらば、はっきりと申せばよかろう」
「大兄、お許しくださりませ」
「如何した。何を謝っておるのだ」
士奉が怪訝そうに問い質した。だが、その問に対する士恩の返答は、ただ謝罪の言葉を並べ立てるだけのものであった。
「何故謝罪せねばならぬのだ。謝罪などする必要はない、そうであろう?」
「申し訳ござりませぬ、大兄。申し訳ござりませぬ。お許しくださりませ」
士恩は、床に額を何度も打ち付け、ひたすら謝罪の言葉を繰り返した。
「何故謝るか、わしは聞いておるのだ!」
たまりかねた士奉が、遂に激昂した。士奉は手近にあった盃を引っ掴み、士恩めがけて投げ付けた。盃が士恩の額に当たって砕け散る。酒が辺りに飛び散り、床を濡らした。その濡れた床の上に、赤い雫が一滴、二滴としたたり落ちた。
「貴様、よもや此度の誓いを忘れたわけではあるまい!」
「……忘れてはおりませぬ」
「ならば、その誓いとやらを申してみよ!」
士恩は言葉を詰まらせた。
「申してみよ!」
士恩は全身を恐怖で震わせながら、囁くような声で返答した。
「解試を通過するまでは決して戻らぬと……」
「聞こえぬ!」
「解試を通過するまでは決して戻らぬと誓約いたしました!」
「ならば貴様は、何故ここへ戻って参ったのだ。解試を通過したからであろう。にもかかわらず、貴様はこのわしに謝罪などをしておる。おかしな話だとは思わぬのか」
士恩は、身体をさらに小さくして平伏した。
「お許しを……」
「この、面汚しめが! 祖先がこれまでに築き上げた数々の栄誉が、貴様のような小人の愚行によって、何もかもが台無しとなるではないか。それが分かっておるのか、士恩。お前は、この名門の家名に泥を塗ったのだぞ。代々受け継がれてきた程家の誇りを踏みにじったのだぞ。それを貴様は……貴様は……恥を知れ!」
士奉が、憎しみを込めた拳を何度も士恩に振り下ろした。その度に、額の傷から鮮血が細かなしぶきとなって飛び散り、床を汚した。
床には、割れた額からしたたり落ちた血によって、小さな血溜まりができていた。しかし、自身の非を自覚している士恩は、耐えねばならなかった。
「己を恥と思う心があらば、何故命を絶たぬのだ。決して戻らぬと誓って落第したからには、己の不徳を恥じて死ぬが道理であろう。それすらできぬとは、貴様一人のために、我が程家は末代までその汚名を残すこととなるのだ。貴様のような能無しが我が弟などと考えるだけでもはらわたが煮えくり返る。貴様のような輩に誇り高き程姓を名乗らせるなど、御先祖様に申し訳が立たぬ!」
士奉は、士恩を鋭く睨み付けた。
士奉の行為を咎める者はいなかった。母がその光景を冷ややかな面持ちで眺めている。次兄士明や三兄士淵に至っては、冷笑を浮かべて、惨めな姿をさらす末弟を見下すような態度をあからさまに見せていた。
程家にとっては、科挙に及第することが絶対の正義であった。落第を繰り返すなど、それも、解試すら通過できないなど不名誉極まりなく、決して許されることではないのである。
「よいか、士恩。貴様一人のために、これ以上家名に傷を付けるわけには参らぬ。肉親故の温情もこれが最後と心得よ。この次は決して許さぬ。如何なる言い訳も認めぬ。もし、この次も同じ過ちを犯したならば、このわし自らの手で貴様をなぶり殺す故、覚悟するがよい!」
士奉はそう言い残すと、士恩に一瞥もくれることなく、奥に退がっていった。
士奉の言葉が偽りなどではないことは、さすがの士恩にも理解することができた。一族の名誉や誇りを特に重視する士奉であれば、程家の名誉を守るために弟の一人や二人を殺すことなど、わけもなくやってのけるに違いない。
士恩は、背筋の凍るような感覚に襲われた。いくら勉学に打ち込んだところで、科挙に及第する自信など微塵もなかった。それは、これからだとて変わるものではない。
「当然の報いだと思うのだな」
士奉の言葉に茫然自失となった士恩に、士明が冷たく言い放った。
「お前ごときに申したところで理解できぬであろうがな。大兄の心も察するがよい。今年こそはと、大兄は心底期待しておったのだ。それ故、俺もわざわざ足を運んできたというに……。今からでも遅くはない。潔く自決して、果てよ」
その言葉に、士恩は全身を震わせて拒絶の意を表した。
「救い難い愚か者よ。ここまで恥知らずであったとは、怒りを通り越して呆れ果てるわ。世間様に俺たちが貴様と血がつながっておるなどと思われると、恥ずかしくて表も歩けぬぞ。貴様なんぞ、今ここで死んでしまうのが世のためであり、程家の名誉も守られるというものだ」
「二兄の申されるとおりだ。とても俺と同じ教育を受けておったとは思えぬぞ」
三兄の士淵が士明に続いて士恩を非難する。
「あれだけ優秀な教師がそろって、最高の環境も用意されておったというに、それで解試すら通らぬとは、とても信じられぬ。貴様という人間の程度も、これで知れるというものだ。未だにお前が生きているなど、我が目を疑いたくもなるぞ」
吐き捨てるように士淵は言うと、次兄の士明を促して士奉の後を追った。
残ったのは、母独りであった。
士恩は、平伏したまま顔を上げられずにいた。落第を続ける不名誉は、母に対しても申し訳が立たないことであった。それ故、母もこの場を去ってくれなければ、畏れ多くて顔を上げることなどできなかった。
だが、母は、すぐには立ち去ろうとしなかった。既に、士恩の額から流れていた血は止まっており、床を濡らしていた血や酒も乾きかけている。それでもまだ、母は立ち去ろうとしない。
「母上?」
怪訝に思い、士恩は思わず顔を上げた。
憤怒の形相で、母が睨み付けていた。
士恩は、慌てて平伏する。が、その直後、士恩は後頭部に激しい衝撃を受けた。
母が、懐に忍ばせていた短刀を手に取り、その柄で士恩を殴りつけたのだ。
「も、申し訳ござりませぬ、母上!」
士恩は、必死で懇願するように謝罪した。
「この、親不孝者、親不孝者……!」
母が、震える声で繰り返す。その度に、母は激しく士恩の頭部を打ち据えた。
士恩は、何度も何度も繰り返し謝罪した。何度殴られようとも、士恩はひたすら謝り続けた。悪いのは自分自身なのだ、殴られることも、なじられることも当然のことなのだ。士恩は己にそう言い聞かせて、耐え続けた。
何度謝ったのか、何度殴られたのか。ようやく母が手を止めたのは、士恩がそう考えるのをやめて、さらにしばらくの時が過ぎてからであった。
新たな血が、床を赤く染めていた。不思議なことに、それが自分の流したものだということに、士恩はしばらく気付かなかった。
母が、息を切らせながら、士恩を怒りのこもった眼差しで凝視していた。
「今まで、どんな想いでお前を育ててきたと思っているのです。親の心が分からないなんて、お前はなんと愚かなのでしょう。これでは、亡き主人にも、御先祖様にも会わせる顔がありませぬ。それをお前は……。こんなことになるなら、お前など産まなければよかった!」
母は、そう吐き捨てるように言うと、もう一度だけ士恩の頭を殴り、奥へと姿を消した。
士恩の他に、誰の姿も見えなくなっていた。それでも士恩は、顔を上げることができなかった。肩を震わせ、悔しさあまって涙が溢れてくるのを必死で堪えながら、士恩は平伏し続けていた。
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