註:翻訳文は百度百科の「趙立」の記載に基づく。一部、未翻訳、誤訳、表記不能文字などあり。読みやすくするために、独断で改行などを入れて整理した。
趙立(南宋初年抗金将領)
趙立は、南宋徐州張益村の人。南宋初年の抗金の英雄。趙立は勇敢をもって兵籍に所属し、騎射が巧みで、名声や色、財などを得ても喜ばなかった。兵卒と苦楽をともにした。戦うときは毎回、常に先陣に立って突き進み、戦場に臨んで退却する者には容赦なく厳罰に処した。
靖康初年、金兵が大挙して南へ侵攻した。趙立はしばしば戦功を立てたので、武衛都虞候に任ぜられた。徐州を防衛して功があり、忠翊郎が授与され、権知州事となった。楚州の守備を命じられて、泗州漣水軍鎮撫使兼知楚州となった。
人物紹介
趙立は徐州張益村の人で、強くて勇ましかったので募集されて兵士となった。
靖康初年(1126年)、金人が大挙して侵入すると、匪賊は一斉に蜂起して、趙立は何度も戦功を立てて、武衛都虞候に任ぜられた。建炎三年(1129年)、金兵が徐州を攻撃すると、王復は険要の地を頼みにしてしっかりと守り、趙立に督戦(戦闘を督励する)を命令し、趙立は6本の矢を受けたにもかかわらず戦うほどに勇ましく働いた。王復は彼が勇壮なため、目に涙を浮かべて酒を注いで彼を慰問した。
それから城は陥落して、王復と王復の家人は全部殺され、ただ彼のひとり息子の王[イツ]は先に去っていたため殺害されなかった。徐州太守の鄭褒は敵を口汚く罵ったために死刑に処された。徐州の城が破られるとき、趙立は金兵と市街で戦い、城門を奪って脱出しようと考えたが、結果金兵に攻撃されて気絶されられた。その後夜に小雨が降って、趙立はこの時に蘇った。金軍の守衛を皆殺しにし、城内で王復の死体を見付け、激しく泣き叫んで手で王復を埋めた。
趙立は密かに故郷の民に連絡して徐州を再び取り戻そうと考えた。金国の軍隊が北へ帰ることを知ると、趙立はただちに敗残兵を率いて背後から追いかけて殺し、金兵の退路を断って、船や錦の絹織物を奪い取って千を数え、軍隊の士気は奮起した。機会に乗じて故郷の民を募集して、改めて徐州を回復した。趙立は忠翊郎が授与され、権知州事となった。
趙立は王復のために廟を立てることを上奏した。趙立は出征するたびに(廟に)赴き、必ず多くの将校を率いて廟の前で祈って言う「あなたは国家のために亡くなり、没後もあの世で必ず私達のこれら生き延びた人たちを加護してくださるでしょう」。これらの話を聞いた斉の地の人は全て彼に帰順した。(徐州は古代斉国に属した)。
人物の事績
この時山東の諸郡に民衆の強盗が四方で起こり、趙立は密かに扶助して、一時に威名が広く伝わった。趙立は功を立てた後に栄転して、官は右武大夫に至り、忠州刺史となった。
この時ちょうど金軍左将軍昌(完顔昌)が楚州を囲んで、楚州は急を告げた。通守賈敦詩は城を降伏させたいと思った。宣撫使杜充は趙立に自ら兵馬を率いて包囲を解くように命じた。趙立は戦っては行き戦っては行き、続けざまに7戦全勝して、最後にようやく楚州に到着し、この時趙立の2つの頬には矢が命中しており、話すことができず、ただ手だけを用いて指揮し、すぐに楚州城へ到着して入り、兵士の休息を手配した後、やっと矢の群れを抜いた。皇帝は趙立を楚州の留守とする詔を下した。
翌年正月。金軍が再度楚州を包囲して攻撃し、趙立は廃棄された家屋を取り除くように命令し、城下で点火して火の池を形成した。配下の兵士は武器を持って一分のすきもない構えで敵の来襲を待った。金軍は城に登り、鉤を取った後は火中に投入した。(鉄の鉤のような守城兵器と推測される。金軍が城に登る時、鉤ははしごを切り、兵士は全て火の池に落ちた。
[二十日、賊は騎兵を連ねて陣をなして城を追い詰め、人を駆けさせて[我+鳥]車(ガチョウの車)を持ち上げ、洞穴、楼座、牛皮を並べたフェルトを用いて包み、あふれて斉安門を攻める。城に上られて人が城門の上や空いたところに及び、先に竿を突き飛ばし、[トン]叉は確実に防ぎ、コネつけた鉤を用いて上皮のフェルトを洞穴から去り、大石や煉瓦の石を落として撃ち、また弓や弩で射撃し、その賊は退いた。(宋朝の守城戦の一段の記録)]。
金軍は決死隊を組織して城を登って通過し、また尽く殺される。禁軍(金軍の誤りと思われる)はいかんせん撤退する。
五月、兀朮(ウジュ・完顔宗弼)は南征して北に帰り、六基の高台を築き、楚州を利用して輜重を輸送したいと考えた。趙立は兀朮が派遣した使者を殺し、輜重を奪い取った。兀朮は大いに怒り、楚州の南北に陣を設けて兵を駐屯させ、楚州の後勤を断絶し、趙立は兵を率いて城から出て戦って打ち負かし兀朮を破った。
ちょうど朝廷が藩鎮を分封するので、趙立を徐州観察使泗州漣水軍鎮撫使兼知楚州に任命し、趙立は一日6人の随行員を連れて城を出て、大声で金軍に対して説いた「我こそは本鎮(この地)の鎮撫であり、お前たちは敢えて迎え討ちに来るか?」。
金軍がこれを聞いた後2人が背後から奇襲をかけたいと思い、趙立は言い出した金軍の両人に長矛を反して刺し、二人を全部地に叩き落とし、趙立はまた二頭の軍馬を勝ち取った。背後には金軍の数十名の騎兵が追いかけてきて、趙立は目を怒らして大喝一声、背後に追いかけてきた兵は全て逃避した。
翌日、金軍は三隊連なって挑戦した。趙立は三陣をもってこれに応戦した。金軍は重騎兵数百騎を用いてまさに趙立は分割して防衛し、趙立は奮起して包囲を突破し、立ち上がって大声で怒鳴り立て、金人で落馬した者は数え切れなかった。
承州、楚州の間に樊梁、新開、白馬の3つの大湖あり。金軍の部隊が散らばって、両地の連絡を絶った。そのため楚州の糧道はふさがれた。包囲が始まったばかりで、いくつかの野草や水草を食べることができた。その後はニレの樹の皮を食べることしかできない。
承州が攻撃されて陥落した後、楚州はいっそう孤立して、趙立は朝廷に人を派遣して向かわせ急を告げた。枢密院事趙鼎は張俊を派遣して包囲を解いて救いたいと思ったが、張俊は行くことを承知せず、趙鼎は説いて「江東の物産は、全て両淮が生み出します。楚州を失えばすぐに天下の危難があり得、張俊が独りで行くことを恐れるので、私が同行することを願います」。張軍は依然として辞退し、そこで劉光世督淮南諸鎮に楚州を救援するように任命した。
東海の李彦先は真っ先に淮河に到着し、金兵に前進を阻止された。高郵の薛慶(これ英雄の1人)は揚州に至り、転戦の途中で殺された。劉光世に属する王徳は楚州に到着し、もったいぶって命令に従わない。揚州の郭仲威(薛慶を殺した)は天長で兵をとどめて進まず、辺り(情勢)を見回し、傍観する。ただ海陵の岳飛が救援でき、しかし兵員はまた少なく、多勢に無勢でかなわない。高宗が趙立の上奏文を見た後、感嘆して言った「趙立は孤立した城を堅守すること、古代の名将でも方法のなかったことだ」。その後また劉光世に5回出兵させ、劉光世は全て辞退して行かなかった。
金軍は援軍を全て断ったと知り、さらに包囲を強めた。9月、金軍が東城を攻撃し、趙立は勇士を募集して金軍の長いはしごを焼き払い、火は逆方向を燃やして、趙立は感嘆して言った「まさか天が我を助けないとは」。少しの間風向きが変わり、1つのはしごを焼いて落とし、趙立は非常に喜び、城楼の石段の上で見回し、火砲が頭部に命中して、周囲の人はすぐに彼を救った。趙立は言った「私は結局国のために賊を滅ぼすことができなかった」。言い終わると息絶えて亡くなった。その時まだ37歳でしかなかった。楚州城の大通りと路地は全て趙立のために慟哭した。
趙立死後参謀官の程括撮が鎮撫使鎮守楚州となった。金国の人は趙立が死んだと騙そうとしていると思って、軽率に行動しなかった。十日あまり過ぎて、城はやっと陥落した。
最初、趙鼎は楚州の食料が乏しいことを聞いて、粟米(トウモロコシ?)万升を送るつもりだった。李承造が先に海路で3千升を輸送して両浙江を輸送し、しかし李承造は食料を出さず、結果楚州の陥落を招いた。
趙立の家人はこの前徐州で殺され、家庭は破壊にあっていて、今回楚州に入ったのは趙立自身だけだった。趙立の人となりは剛直で気骨があって正直で、本を読んだことがなく、ただし天性の忠義があった。騎射に優れ、名声や色、財、利を好まず、所得物品はすべて俸禄として兵士に与えた。戦闘では必ず自ら先頭に立ち、もし逃げ隠れする人を発見すれば、すぐに大声で怒鳴りつけ、彼の髪の毛を持って、怒ってその首を切る。
ちょうど楚州の時、徐州と楚州の兵馬を合わせても一万にいたらず、2つの州の百姓は戦うことができず、趙立は斉射に長じ、少しも保留せず彼らに伝授した。
趙立は金人を敵視して、いつも金人に切歯扼腕すると言及して、捕虜もさらし首として見せしめにし、論功行賞の申請に耳を切ることを用いなかった。金人は敢えて彼の名前を言わない。訃報が伝わると、皇帝は朝会(謁見)を停止して、彼に忠烈の諡号を賜った。
(2017/9/19)
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