ちょう りつ
趙立
(1094〜1130)
中国・北宋末期〜南宋初期の人物。
剛直で気骨があり正直、騎射が巧みで戦場では常に先陣に立ち、学はなかったが、名声や色、財、利を好まず、天性の忠義があった。
勇猛だったため徐州で兵籍に属し、靖康初年(1126)に金軍が侵攻すると何度も戦功を立てて武衛都虞候に任ぜられた。建炎三年(1129)に金軍が徐州を攻めると、6本の矢を受けながらも勇戦した。しかし、城が陥落したため一旦逃れ、金軍が北へ帰ることを知ると、敗残兵を率いて金軍を襲撃し、徐州を回復して忠翊郎が授与され、権知州事となった。
金軍の完顔昌が楚州を包囲すると、救援に駆け付けて7戦して全勝し、楚州へ到着した。この時、両頬に矢が命中して話ができず、手だけを用いて指揮したという。この功により楚州の留守となった。
翌年、金軍が再度楚州を包囲すると、籠城して奮戦し、金軍を退けた。さらに、金軍の兀朮(ウジュ・完顔宗弼)が楚州の南北に陣を設けると、城から討って出て兀朮を破った。
金軍が部隊を散開させて承州と楚州の連絡を断ったために楚州の糧道がふさがれ、承州陥落後はいっそう孤立した。朝廷に援軍を求めるも、救援を拒む者ばかりで援軍は現れなかった。そこで金軍の包囲が強まって猛攻を受け、火砲が頭部に命中して命を落とした。
この訃報が伝わると、高宗は朝会を停止して、趙立に忠烈の諡号を賜った。
享年三十七。
|