空想歴史文庫

張栄


[案内] [史料室]

[中華史]
[目次]


略伝

ちょう えい
張栄
(12世紀前半頃)

 中国・北宋末期〜南宋初期の人物。
 元々、梁山泊の漁師であったが、宋江の乱が平定された後、公田法(官が民の土地を没収する法)によって重税が課せられると、梁山泊周辺で水賊を組織した。
 靖康の変により北宋が金軍に滅ぼされると、梁山から南下して水寨を築き、山東の漁民や梁山の残兵を率いて義軍を起こし、その数は一万余りに達した。金軍に対して孤軍奮闘し、しばしば勝利して南宋より功が認められて武功大夫・忠州刺史を与えられ、「張敵万」と称せられた。
 しかし、湖の凍結により金軍が氷上を渡ってきたため支えきれず、糧秣を焼いて水寨を放棄し、通州へ逃れた。ここで食糧不足により飢餓状態に陥り、人民を殺して食人を犯し生き存えた。
 通州から縮頭湖へ移って「水滸寨」を設けると、金軍の完顔昌(撻懶・たつらん)の侵攻を察知して水中に「八卦の陣」を布き、金水軍の後続が弱小であることを見抜いて陸を迂回して後方から攻め掛かり、泥沼に誘い込んで金軍を散々に打ち破った。
 完顔昌を討ちもらしたものの、残像兵を壊滅させて江淮一帯の失地を回復し、南宋に抗金戦争空前の大勝をもたらした。以後、縮頭湖は得勝湖と改名された。
 これを受けて、南宋の劉光世が朝廷に奏聞したため、右武大夫忠州防禦使の官を与えられて知泰州に任命された。しかし、官に就いても人民を殺し略奪を働いたため朝廷が張栄討伐を図ったが、劉光世の懐柔策の進言により天子に謁見を許され、後に平江府の統制に任じられた。


[目次]
[中華史]

[案内] [史料室]