空想歴史文庫

陳慶之


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雑感

 おそらく、田中芳樹が『奔流』という小説や『中国武将列伝(下)』などで取り上げたことによって、一気にその名が知れ渡ったものと思われる。もちろん、自分もそれで存在を知った一人ではある。陳慶之の活躍ぶりは、常識ではとても考えられないような凄まじいもので、非常に魅力的ではあるはずなのだが、なんとなく流行モノに乗るような感覚があるためか、思い入れはそれほどでもない。

(2009/12/11)

 略伝を書くにあたって改めて陳慶之という人物について調べてみると、やはり本当なのかと信じられないくらいとんでもないことをやってのけていることがわかる。わずか7千で短期間に47戦を勝ち続けるなんて、どうやるのか想像もできない。『魏晋南北朝通史 内編』(東洋文庫)によると、野戦を避けて城を取る策をとったというが、その結果140日で奪った城は32。野戦で大軍と連戦するより難易度が高いのではないかと思うような戦績だ。もちろん、城取りだけでなく野戦も行って何度も撃退している。益々おかしい。

 これほどに優れた将帥であるが、田中芳樹が『中国武将列伝』で名将百人をリストアップした時、陳慶之の名前は挙げられていなかった。執筆当時に見逃していたそうで、その後『奔流』を書くにあたって調べた資料の中で、初めて陳慶之の存在を知ったのだという。陳慶之は中国の歴史書では南北朝を代表する名将の一人として名前が挙がっているそうだが、当時日本では無名だった。例えば、南北朝の概論の一般書籍などでは、陳慶之の名が出てくることはまずない。手元にある書籍の中では、先に挙げた『魏晋南北朝通史 内編』に出てくるのみ。ただ、これは専門書に近いから、そう簡単に目に留まるものではないと思う。

 そもそも陳慶之の活躍というのも、北伐を行って洛陽他多くの城を占拠したものの半年と経たずにそれらを手放しており、大勢には殆ど影響を与えなかったといえるようなものだった。陳慶之が仕えた梁の武帝(蕭衍)の治世では、注目されるのは文人としての功績が中心であり、それ以外では陳慶之死後に起こった侯景の乱くらいだろう。陳慶之の北伐は、歴史の経緯から見ると些細な出来事のように思われる。

 南北朝という時代は日本での知名度が低く、その中でもさらに陳慶之の位置付けがこの通りであるから、才覚や功績にかかわらず注目されにくい環境だったのは明らかで、概論などで殆ど取り上げられない無名の人物だったのも当然だろう。この点は北宋の張栄に通じるところがあると思う(格は違うが)。それが今や、中華史好きの中でも屈指の知名度を持つ名将へと姿を変えた。もしかしたら、これが英雄誕生(発見)の瞬間なのかもしれない。

(2016/12/2)


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