しゅ ゆうけん
朱由検
すうていてい
(崇禎帝)
(1610〜1644)
中国・明代末期の人物。明王朝最後(17代)の皇帝。
兄の天啓帝が急死し、世継ぎがなかったため即位すると、先代の下で専横を極めた魏忠賢らを直ちに誅殺し、綱紀粛正を計った。
勤勉で私欲がなく、熱意にもあふれ、自ら政務を取り仕切って懸命に国家再建に努めた。しかし、王朝の腐敗は深刻であったため十分な成果を得ることができず、猜疑心が強かったことも災いして家臣らを無用に処罰することを繰り返した。特に讒言を信じて山海関を守る名将・袁崇煥を処刑したことが致命的であった。
その頃、清が北方で勢力を伸ばす一方、国内では飢饉や重税により李自成の乱が起こって明王朝を圧迫していた。討伐軍の派遣を繰り返すものの、軍部の腐敗などにより成果が上がらず、遂には李自成軍により北京を奪われた。
落城に際して自ら招集の鐘を鳴らすも、諸官は誰一人として姿を現さなかったため、太子らを逃がす一方で皇后や公主らを手にかけ、自らは皇城背後の景山にて首をくくって果てた。この最期に従ったのはただひとり宦官・王承恩のみであった。
享年三十五。
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