空想歴史文庫

陶晴賢


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雑感

 中学生の頃によく遊んだ光栄の『信長の野望・武将風雲録』で陶晴賢の存在を初めて知った。『武将風雲録』では、1555年開始のシナリオができたことで、周防に大内氏が登場する。かなりの高確率でゲーム開始早々にこの周防で謀反が発生し、大名の大内義長を殺して独立する武将がいた。それが陶晴賢である。ほぼ毎回のように謀反を起こすこの曲者は何者なのかと気になったが、幸いなことに、説明書に10名ほどの登場武将が紹介されていた中に陶晴賢がいた。謀反を起こして後に毛利元就に討たれた人物だったが、「西国無双の侍大将」の異名が気に入って興味を持ち、ゲーム内でもよく謀反を起こさせて大名にして遊んだりしたものだ。

 陶晴賢は、日本史の教科書に下克上の代表的な人物の1人として登場するように、謀反人としてのイメージが一般的だったと思われる。しかし、ゲームのお気に入りだった贔屓目だろうか、深く考えていたわけではないが、ただの謀反人とは考えていなかったように記憶している。そこで登場するのが大河ドラマ『毛利元就』の陣内孝則演じる陶晴賢である。陣内版・陶晴賢は、実直で剛毅ないかにも武闘派な武将であり、大内家の天下取りの野心はあっても個人的な野心はないような人物像で描かれた。ドラマではあるがこれまでの逆臣一辺倒の世間のイメージを払拭するもので、自分の中の曖昧だった陶晴賢像をはっきりと形作るきっかけにもなった。

 この陣内版・陶晴賢の人物像は、小説『大内義隆と陶晴賢』『毛利元就と陶晴賢』の著者・山本一成氏が、大河ドラマの製作に当たって助言したというような話をどこかで見かけた記憶がある。が、その情報源を忘れてしまって、見付けることもできないから、もしかしたら記憶違いかもしれない。それはともかく、山本一成氏の2作品は、「陶晴賢は逆臣ではなかった」をテーマに描かれた小説である。小説(物語)としてのおもしろさはそれほどなかったが、山本一成氏の大内氏などに関する研究成果を知るという点では、非常に価値のある書籍だと思う。この山本一成氏の陶晴賢に関する見解を箇条書きでまとめると、大体以下のようになる。

(1)謀叛時に晴賢が山口の町を放火・掠奪し尽くした従来説に対し
 ・大友晴英(大内義長)を迎えて大内家を立て直そうとする人間が治政の中心地を荒らすとは考えにくい
 ・後年に山口の街が多く焼失している記録がある
 ・戦地近くに多く存在する重要文化財が焼失を免れている
 ・上記の矛盾点から、晴賢の謀叛当時には町への放火・掠奪は殆どなく、保全がなされていたと考えられる

(2)陶晴賢と毛利元就の関係(従来説:大内義隆に恩義ある元就の仇討ち)について
 ・元就は晴賢謀叛の際に義隆からの援軍要請を断っている
 ・その後しばらくは晴賢との協力体制をとっている
 ・晴賢討伐後に大内家を滅ぼして再興もしなかった
 ・これで仇討ちといえるのか
 ・勝者の立場に立った解釈で、公正に欠くのではないか

(3)その他
 ・下克上を悪とする君臣関係は、朱子学が普及した江戸時代以降の考えである
 ・戦国時代は利害関係で動いていた
 ・戦国時代の主従関係を江戸時代の考え方と混同して逆臣とされた

 これらを踏まえて、作中では、謀叛に至る動機を有徳者に天命が下る中国の革命思想を大義として描いている。上に挙げた山本一成氏の見解は一理あるように思える(「その他」についてはやや疑問がある)。しかし、謀叛の動機は、少し物足りないように感じる。そこで、自分なりにその点を少し掘り下げてみようと思う。

 陶氏は、大内氏から分かれて後に陶を名乗り、代々大内家中第一の地位を占めていた。陶氏は、いわば大内家の大黒柱であり、その家風が受け継がれていたものと思われる。その中で育った晴賢も、当然その自負があったであろう。ところが、大内義隆は文弱に走って相良武任を筆頭とする文治派を重用した。家中の大黒柱を自負する晴賢にしてみれば、自身の存在価値を否定されたようなものである。しかも、他の武断派も文治派の台頭で不利益を被っていたから、彼らが利害関係(保身)を動機として文治派を激しく攻撃するのも当然といえる。

 しかし、これだけでその矛先が主君・大内義隆に向けられるとは考えにくい。しかも、主君・義隆に反旗を翻すといっても、その子の義尊や大友晴英の擁立の計画が早い段階で検討されていて、端から自立の意志がなかったのがうかがえる。利害関係や革命思想から謀叛に至ったのであれば、文字通り下克上によって自身が頂点に立つというのが自然である。しかし、実際には自立しなかったのだから、別の動機があったに違いない。

 そこで注目されるのが、義隆を廃して大友晴英などを擁立しようとした点である。これは、頭をすげ替えて家名を守ろうとしたものと思われ、「大内家」と「大内家当主」を一体に考えずに分離して捉えていることを伺わせる。つまり、晴賢にとっては、「大内家」を守ることが優先されるのであって、「大内家当主」を守ることは二の次ということになる。言い換えると、晴賢にとっての忠義は「大内家」に対して向けられ、必ずしも「大内家当主(義隆)」を対象としないのである。

 この視点に立てば、晴賢にとっての主君とは、大内の血筋で大内の家名を守る人物として位置づけられる。晴賢自身は、それを徹底して補佐する家来だ。主君が家名を守るにに相応しいか、相応しくあろうとするのであれば支えるだろうが、その見込みがなければその主君にはこだわらない、と考えても不思議ではない。文弱に走った義隆は、晴賢から見れば大内家の家風に相応しくないものと映ったであろう。晴賢は、義隆を大内家当主に相応しい人物とするべく、文治派を排除して諫めようと動いた(つもりだった)。が、その度に義隆が文治派を呼び戻して文武の対立が深まり、一触即発の事態にまで発展してしまった。ここに至って晴賢は、もはや義隆を諫めることはできないと悟ったはずだ。

 むろん、長年仕えた大内義隆を討つのに、なんの葛藤もなかったわけではないだろう。しかし、大内家を第一として考え、家中の大黒柱としての強い自負があれば、このような事態で主君・義隆の排除へ思考が動くのも道理である。晴賢は、大内家に対する忠義があったからこそ、主君に刃を向ける決断を下すことができたのだ。これが、陶晴賢謀叛の最大の動機ではないだろうか。

 さて、大内義隆を討ったことで晴賢は大内家の実権を握り、家中全てを思い通りに動かせるようになった。これで自身が理想とする大内家を作り上げることができるようになった、はずだった。しかし現実には、様々な事態が晴賢の思惑通りに動いてくれなかった。そして、毛利元就との対立の末、義隆討伐から5年と経たずに厳島合戦で晴賢は討たれ、守ろうとしていた大内家も間もなく滅ぶこととなる。

 これを、相手が老獪な毛利元就だったのが不運だったとみるべきか、それとも、単純に晴賢の器量の限界だったとみるべきか。義隆討伐後しばらくは毛利を味方としていたわけで、その間毛利からの妨害を受けたわけではない。にもかかわらず、事態は好転せずに毛利の離反を招いた。厳島合戦に至る中でも、毛利元就の謀略にかかって江良房栄を殺害したり、弘中隆包(隆兼)の反対を押し切って厳島に布陣するなど、著しく冷静さを欠いていて余裕が感じられない。個人的に陶晴賢は贔屓の人物ではあるが、このような状況を見ると、晴賢が大内家を主導していくのは荷が重すぎたように思える。

 大内家の実権を握りながら失敗した晴賢であるが、凡庸な人物だったとは思えない。少なくとも軍事面での働きにおいて有能だったのだから、一軍の将として留まっていれば、後世に良将としての名声を残すことができたのかもしれない。しかし、主君・義隆が文弱に走ったことでその道が阻まれたわけだが、そのきっかけというのが、自らが主張した尼子攻め(第一次月山富田城の戦い)で尼子側から寝返っていた国人衆の裏切りなどによって失敗したことだったというのは皮肉な話である。仮に、晴賢が汚名を残すことを回避する術があったとすれば、文治派の台頭に別方向から対処して上手く収めることくらいであろう。しかし、それができるくらいの器量があれば、毛利元就に敗れることはなかったように思える。とすると、厳島合戦での敗死は、歴史の必然だったのかもしれない。

(2017/1/23)


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