すえ はるかた
陶 晴賢
(1521〜1555)
日本・戦国時代中期の人物。
周防・長門を中心に中国地方と北九州の七ヶ国を領する大内氏の重臣筆頭。最初、隆房を名乗る。
弱冠十九歳で家督を継ぎ、安芸へ侵攻してきた出雲の尼子氏を撃退して勇名を轟かせる。勝ちの勢いに乗じて出雲遠征を開始するも、内部分裂によって敗北し、撤退を余儀なくされる。この出雲遠征の失敗を機に、主君・大内義隆が政務を怠って遊興に耽るようになり、隆房との関係に亀裂が生じてしまう。
大内義隆の遊興ぶりはとどまるところを知らず、大内家の将来に憂いを感じた隆房は、内藤・杉ら大内家の重臣と手を組んで挙兵に及び、主君・大内義隆を自刃に追い込んだ。
その後、義隆の甥の大友晴英(大内義長)を大内家当主に迎え、晴英より偏諱を受けて晴賢を名乗る。晴賢主導で大内家再建を図ろうとするのだが、それを快く思わなかった安芸の毛利元就と対立し、謀略戦に敗れた晴賢は厳島の合戦にて毛利勢の奇襲に遭い、自刃した。
享年三十五。
|