註:翻訳文は宋史「薛慶伝」の記載に基づく。一部、誤訳などあり。
宋史 四百五十三巻 列伝第二百十二 忠義八 薛慶
薛慶は群盗を起こして高郵を占有し、兵力は数万人、多くの驍雋(勇猛な俊才)は大胆に戦って、少数で大軍を撃破して、付き随う者が日増しに多くなった。
張浚は薛慶が属するところがないことを聞きつけて、麾下に帰順させることを欲して、自ら勧誘に向かった。薛慶は感服して、高郵を守るために、尋遷拱衛大夫、福州観察使、承州天長軍鎮撫使となった。
金人が浙江から還ってきたとき、天長、六合の間に駐屯していたので、薛慶は軍を率いて略奪を働き、牛数百頭を得て、貧しい民衆に悉く分け与えた。
金人は運河から船を引いて北へ帰すことを欲したが、楚に趙立あり、承に薛慶あるため、突き進むことができない。金の左監軍昌(完顔昌)は兀朮(完顔宗弼)に会いに来て、楚州攻略を欲し、まさに、揚鎮撫郭仲威がこれを聞きつけて、敵を全て迎え撃つことを薛慶に約束した。
薛慶が揚州へ至ると、仲威は特に行く気がなく、宴会を設けた。薛慶は怒って言った「酒などにおぼれている場合か? 私が先鋒となるから、汝は後詰めとなれ」。
ただちに馬を走らせて去り、明け方(寅の刻、午前4時頃)に揚州の西門から出て、兵は百騎に満たず、十里余り転戦して、失ったのは三騎、仲威は未だ至らず。薛慶が揚州へ駆けると、仲威は門を閉ざしてこれを拒み、薛慶は慌てふためいて落馬したが、金(軍)を追って騎馬を獲得した。
馬が元来た道を帰ったため(金軍の元へ行き)、軍中を見て言った「馬を還して、太尉は死ぬのか」。金人は薛慶を殺し、承州は陥落した。死が伝えられて、保寧軍承宣使が贈られ、家の者10人に官が与えられ、妻は碩人に封ぜられた。
(2021/5/27)
(2021/5/30)
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