空想歴史文庫

薛慶


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雑感

 張栄や趙立との絡みで取り上げた。宋史「薛慶伝」の記述は簡潔で、具体的な業績といえば、金軍から牛数百頭を略奪したことと、百騎足らずで十里余り転戦して三騎しか失わなかったことくらいだ。同時期に活躍した抗金の英雄たちと比較すると、物足りなく見えるのは仕方がない。

 「薛慶は群盗を起こして高郵を占有し、兵力は数万人……」
 これは、薛慶の統率力の高さを伺わせる。この後、張浚が自ら味方に引き入れようと動いたことから、おそらく戦っていた相手は金軍だろう。金軍が中原に侵攻して近隣を荒らし回るようになった辺りで、寡兵で抵抗して幾度となく金軍を撃退し名を挙げたという状況と思われる。

 「張浚は薛慶が属するところがないことを聞きつけて……自ら勧誘に向かった。」
 張浚は科挙に及第した文官でありながら幾度となく金軍の侵攻を防いだ主戦派であり、当時を代表する名臣の1人でもある。その張浚が自ら赴いてまで薛慶を麾下に加えようとしたのは、薛慶の勢力の大きさもさることながら、才覚を買ってのことであろう。数万の兵を擁していたから、統率力も人望もあったと思われ、「兵は百騎に満たず、十里余り転戦して、失ったのは三騎」の記述から、(戦闘の規模や回数が不明だが)勇猛さも持ち合わせていたことがわかる。

 「楚に趙立あり、承に薛慶あるため……」
 「薛慶が揚州へ至ると、仲威は特に行く気がなく……」
 薛慶伝の記述ではわかりにくいが、金軍の楚州攻撃が始まると、徐州の趙立が救援して楚州守将となり、その後も趙立が楚州の防衛を続けていた。おそらく、その際に薛慶が承州辺りにまで出没した金軍と交戦して退けていたのだろう。そうこうするうちに金軍(完顔昌)の楚州包囲が始まり、宋の援軍はまだ動いていないうちに、郭仲威からの報せを受けた薛慶が郭仲威を伴って楚州救援を試みようとした。楚州救援は多くの宋将が躊躇し、実際に行動を起こしたのはわずかだった(金軍に阻まれて救援できなかったが)。薛慶は、楚州救援の行動を起こした、数少ない義将の1人なのである。

 「薛慶が揚州へ駆けると、仲威は門を閉ざしてこれを拒み……」
 「馬を還して、太尉は死ぬのか」
 味方のはずの郭仲威に欺かれて揚州城外へ閉め出された薛慶は、馬を失った後、金軍から馬を奪ったところまではよかった。細かい状況が書かれていないからわからないが、金軍と交戦して仲間とはぐれたか失ったかして、落ち延びるところだったと思われる。素直に訳すと「金軍を追って騎馬を獲得」だと思うが、状況的に「追ってきた金軍から騎馬を獲得」の方が合っているような気がする。
 しかしその後、奪った金の騎馬が金の陣営に薛慶を連れて行ってしまう。これはもう、不運の一言に尽きる。薛慶が戦死すると承州が陥落し、楚州はいっそう孤立して陥落することとなる。薛慶の不運な戦死は、楚州陥落の決定打といっても過言ではないだろう。

(2021/5/30)


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