唐朝が安史の乱で衰えてから憲宗の頃に再び栄えるまでの谷間の時代、それが李泌の活躍した時期である。注目されにくい衰退期の人物ということもあるのか、日本での注目度は低いようで、日本語での情報が乏しく、その足跡を詳しく辿るのは難しい。有名な安史の乱でも、その功臣の1人とされているが、主に後方で献策する立場であったため、その活躍は実働部隊を指揮した郭子儀や李光弼の影に隠れている。しかし、その限られた情報からでも、李泌には何やら興味を惹かれるものがあった。そこで読めない中文を自動翻訳にかけ、正確に訳せないものの大要をなんとか読み取ってみたが、やはりというか、思った以上に李泌は興味深い人物であった。 安史の乱という国家存亡の危機に際して、玄宗に代わって即位した粛宗は李泌を探し求めた。当時の李泌は無位無官。楊国忠らに睨まれて下野してから、十年は経っていたと思われる。粛宗は李泌の聡明さを熟知していただろうが、その間に李泌が消息不明だったとは考えにくい。李泌は生涯を通じて著名な道家の学者として知られた人物らしいから、市井にあっても何らかの名声を得ていたのかもしれない。その名声が粛宗にも届いていたとすれば、かつての親友との友情を頼りに力を借りようと考えても不思議ではないだろう。その想いに応えるように、李泌は粛宗の前に姿を現した。粛宗が早速李泌に意見を求めて要職に就けようとしたり(李泌は固辞し、後に軍師となる)、賓客として接したりしたことから、格別の信頼を寄せていたことがよくわかる。 ところが、粛宗は宦官の李輔国という奸臣を信用して側近としていた。ある時、粛宗の子の建寧王が、兄の広平王(後の代宗)が李輔国や張皇后に陥れられることを案じて、事前に排除したいことを李泌に相談したところ、李泌は時期尚早として自重するように進言した。しかし、建寧王は我慢できずに粛宗に訴え出たため、李輔国らに建寧王が広平王を殺して太子の座を奪おうとしていると讒言され、これを信じて激怒した粛宗に死を命じられた。李泌は粛宗を諫めたが聞き入れられず、建寧王を救うことができなかった。 この事件がきっかけで、後に東西両京の奪回が果たされると、李泌は粛宗に暇乞いをすることとなった。その時李泌は「お許しくださらないと、臣は殺されてしまいます」と粛宗に告げている。驚いて問いただす粛宗に、李泌は「陛下は臣を厚遇してくださいましたが、それでも臣のお願いは聞いていただけません。臣へのご寵愛が薄れた時、殺さないといえるでしょうか」と答え、無実の罪で殺された建寧王の例を挙げた。結局この時は許されず、李泌が実際に粛宗の許を去るのは、乱の大勢が決してもはや李泌がなすべき大仕事が片付いた後のことである。 李泌は軍事、政略の両面に優れた才能を持ち、私利私欲がなく地位に執着しない人物であった。粛宗、代宗、徳宗の3人とも皇太子の頃から親交があり、優れた才覚を備えていたことも相まって、3代に亘って深く信頼されていたようだ。その反面、周囲から妬まれて様々な策謀によって攻撃されることがあり、元々の権勢を嫌う性格と権力の中心から一定の距離を保とうとする処世術とによって、たびたび官を捨てて下野したり朝廷から離れて地方へ下ったりすることがあった。李泌は幾度となく朝廷を逐われても決して恨み言を口にすることがなかったため、それ以上の迫害がなく再起の道が閉ざされなかったようだ。 おもしろいことに、李泌は生涯を通じて4度朝廷から除かれて、4度朝廷に呼び戻されて、しかも再登用される度にますます重用されるという、中華史上稀に見る経歴の持ち主だった。これほど多く、そして容易く官を捨てる人物でありながら、そのたびに繰り返し登用されるのは、歴代に天子から絶大の信頼を得ていることの証でもある。その信頼の背景は、天子との個人的な親交もさることながら、それを裏切らない政治、経済、軍事、外交のいずれの分野でも発揮される卓越した功績(詳細は翻訳が曖昧なので省略)のなせる業であろう。 それでも李泌が宰相に任じられたのは徳宗の治世の787年のことで、執政期間は789年に亡くなるまでのわずか2年足らずのことである(粛宗、代宗の頃には固辞した)。この頃に結ばれたウイグルとの同盟が、おそらく李泌の最後の大仕事であろう。元々徳宗はウイグルから個人的な侮辱を受けて嫌っており、同盟には反対だった。そこで李泌はウイグルを嫌う理由がなく、同盟によって国威が増すことを説いて徳宗を改心させ、同盟の成功に導いている。宰相としての在任期間はわずかであったが、このように李泌の功績によって唐朝の平和と安定は保たれたのだという。 後世の人物評においても、李泌の評価は極めて高いように思われる。十分な翻訳ができないために、その足跡を明確に伝え切れないのが残念であるが、才能、人格、功績のいずれをとっても突出した人物であることを読み取ることができる。同時期の功臣・郭子儀が実働面で大功を立てたのに対し、李泌は作戦立案を初めとして内政や外交などの後方支援で突出した功績を残した人物といえるのかもしれない。これほどに優れた人物が世に埋もれているというのは、あまりにも惜しいのではなかろうか。
(2016/12/31)
李泌に関して、個人的に一番興味を惹かれたところは、かつてあっさり地位を捨てて無位無官となったにもかかわらず、安史の乱に際して親友・粛宗の許へ馳せ参じたところだ。しかも李泌は、地位を求めず、知恵を授け、あらかた仕事が片付いたら厚遇を顧みることなく在野へと帰って行く。ここから、抜群の才能を持ち、無欲で野心がなく義にも厚い人物像が浮かんでくる。四代に亘って信頼され続けた名臣中の名臣としての李泌の魅力が、ここに集約されているようにも思える。
(2017/1/2)
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