空想歴史文庫

中島豊後守


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雑感

 我が輩は中島である。名前はまだない。……ではないが、諱が不明の中島豊後守。「豊後守」を名乗っているが、この時代によくある自称の類いだろう。地元の尾張を犬山、小牧、春日井辺りにさらに範囲を絞って、その土地出身のおもしろそうな無名武将を探してたどり着いた人物だ。

 中島氏は尾張の丹羽郡辺りの土着の氏族で、岩倉織田氏(織田伊勢守家)に仕えていた。その後、犬山織田家が織田信康(織田信清の父)の代になると、小口に移り住んで織田信康に仕えるようになったという。時期は不明だが、おそらくこの頃から中島氏が小口城主を務めるようになったと思われる。

 中島豊後守は、殆ど和田定利とセットで扱われ、和田定利とともに織田信清(信長の従兄弟)の家老を務めた。中島豊後守と和田定利は、織田信清に頼みとされていた重臣だったらしい。
 和田定利は、足利家の家臣として信長の野望でも常連の和田惟政(長男)の弟(次男)。和田惟政の誕生年が1530年頃らしいから、定利は1531〜1535くらいの生まれだろうか。中島豊後守と和田定利は行動を共にしていたようだから、この2人は同年代だったのかもしれない。信清が信長と対立した1560年頃には既に2人とも家老であったようだから、30前後(あるいは20代)で家老として重用されていたと考えられる。
 和田定利は幕臣でもあったらしいから、その家柄から若輩で重用されていても不思議ではない。土着の中島豊後守の家柄はさほどでもないから、親から地位を引き継いだといったところだろうか。
 ちなみに、中島豊後守の家来に寺沢広政なる人物がいる。寺沢広政は後に豊臣秀吉に仕えて後方支援を担当し、秀吉から「日本一の奉行」と賞賛されるほどの有能な人物だったらしい。寺沢広政の子に寺沢広高という人物がいて、広高の方は信長の野望にも登場する。

 信清と信長の対立が本格化した頃、犬山城の前線の拠点となる小口城(大口町辺り)と黒田城(一宮辺り)を、信清の頼みの綱の中島豊後守と和田定利が守っていた。犬山城攻略に乗り出した信長は、力攻めではなく調略による切り崩しを図り、岩室長門守重休(しげやす)なる人物を小口城の中島豊後守の下へ送った。岩室重休は、桶狭間の戦いの際に出陣する信長の供をした五騎の中の1人。信長の小姓として仕え、有能で信長から目をかけられていた人物だったようだ。
 中島豊後守が岩室重休の誘いを拒絶したことで、信長は小口城へ兵を進めて力攻めを開始。激戦が繰り広げられたらしいが、中島豊後守はこれを撃退している。その際、岩室重休がこめかみを突かれて戦死。信長はその死を大いに惜しんだという。

 この頃、信長は美濃攻略を計画しており、信清が美濃の斎藤家と手を組んだこともあって、美濃へ進攻しやすく犬山城への睨みが利く小牧山に城を築いた。この小牧山城に信長が拠点を移したことで、小口城の中島豊後守と黒田城の和田定利は窮地に立たされる。特に小口城は、小牧山城からわずか2キロ程度しか離れていなかったらしい。小口城から犬山城は7,8キロ離れていたから、救援も間に合わない。小口城は孤立したようなものだった。
 小牧山城の築城は小口城の戦いの後だから、中島豊後守は目と鼻の先で城が作られていく様を黙って見ていたということだろうか。あるいは、築城を阻止する余裕がなかったか。ともかく、小口城は風前の灯火。黒田城も犬山城との間に切っ先を向けられたような状況で、小口城ほどでないにしろ、苦境に立たされていることに変わりはない。

 ここで再び、信長の調略の魔の手が伸びる。
 丹羽長秀が黒田城の和田定利の下へ赴き、和田定利はその説得に応じて信長の軍門に降ってしまう。そして、すぐさま丹羽長秀が和田定利とともに小口城の中島豊後守の下へ。孤立している上に、前戦の同輩まで降伏してしまっては、もはや為す術なし。中島豊後守は信長に城を明け渡した。
 この時、信長は降伏した中島豊後守をもてなした上、孫六兼元の業物の太刀を下賜したという。これ以降、中島豊後守は和田定利とともに信長群の将として仕えることとなる。
 小口城と黒田城が信長の傘下に入ったことで犬山城は裸同然となり、程なくして陥落。織田信清は甲斐へ逃亡した。
 信長軍に加わった中島豊後守は、この後、和田定利とともに大河内城の戦い(1569)や伊勢長島の戦い(1571、1574)に参加したらしいが、よくわからない。1574年の伊勢長島の戦いで和田定利が戦死。中島豊後守の生死は不明だが、この戦い以後は史料に名前が登場しない。やはり、和田定利と一緒に戦死したのだろうか。

 中島豊後守は、一見すると特別目立った活躍もなく、凡庸な人物にしか見えない。しかし、織田信清の家臣には中島豊後守と和田定利の他にこれといった人物がいなさそうだから、この2人が家中では最も有能な人材だったに違いない。和田定利はともかく、中島豊後守は信長軍と交戦して撃退した実績があるから、凡将でないことは間違いないだろう。
 さらに、信長に降った際、中島豊後守は信長お気に入りの岩室重休を討った人物だったにもかかわらず、信長から太刀を下賜されるほどの歓待を受けている。犬山城攻略を決定付ける状況だったこともあるが、重用した部下の仇に対してなかなかの歓迎ぶりだ。信長が中島豊後守という人材を高く評価していたことの現れではないだろうか。

 こうして深読みしてみると、中島豊後守には、有能な人物だったと想像を膨らませる余地が十二分に存在する。もちろん、歴史上の功績は殆どないに等しいが、これは、それなりの能力がありながら、秀吉や前田利家などのように信長の下でのし上がることができるほどの運や実力を持ち合わせていなかった、といえるかもしれない。
 ともかく、中島豊後守がまったくの凡夫であったならば、敢えて取り上げるようなことはしなかった。しかし、情報が少ないながらも(むしろ少ないからこそ)、有能だったかもしれないと色々想像できるところが、まさに地元のおもしろそうな無名武将にぴったりではないか。

(2022/1/27)


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