学生の頃に取っていた新聞に連載されていた『翔べ麒麟』(著・辻原登)という小説に、阿倍仲麻呂が朝衡の名で重要人物として登場する。この小説は、「安史の乱」前後の唐を舞台に、遣唐使として唐を訪れた日本人たちが様々な事件に巻き込まれて活躍する物語だ。主人公は藤原広嗣の庶子という設定の架空の人物である藤原真幸。藤原清河や吉備真備が登場し、阿倍仲麻呂を日本へ連れ帰ろうとする。 この物語の阿倍仲麻呂は、唐の重臣で玄宗からの信頼が厚く、楊国忠と謀略戦を繰り広げる知恵者として描かれている。物語の後半では、楊一族に牛耳られて傾く唐を立て直そうと策を巡らしたり、漂流後は流れ着いた安南(ベトナム)から軍勢を率いて乱の真っ只中に現れたり、楊一族誅殺の場に立ち合ったり、安史の乱などに深く関わっている。 もちろん、『翔べ麒麟』で描かれた阿倍仲麻呂の人物像は、大部分が創作である。が、阿倍仲麻呂が玄宗に重用されていたのは間違いなく、そこから大胆に踏み込んで安史の乱という当時の大事件で日本人を活躍させるというのは、架空の設定ではあるが夢があっておもしろい。後に安南節度使となることを踏まえて安南の軍を率いさせるのも、史実と絡めた演出として上手くできている。 さて、史実の阿倍仲麻呂の重用ぶりとして、官位を基準に見てみると、20代半ばで下位の文官職に任官されてから30歳頃に左補闕(従七品上)に推挙されて玄宗の側近として仕え、儀王友(従五品下)となる。50代に入って帰国を図る頃には、秘書省長官である秘書監(従三品)となり、安史の乱以降は玄宗から粛宗、代宗と代替わりしているが、最終的に安南節度使(正三品)となっている。そして亡くなった後ではあるが、[シ路]州大都督(従二品)を与えられた。仲麻呂に対する信頼は玄宗個人に留まるものではなかったようだ。 唐で大出世を果たした阿倍仲麻呂であったが、帰国の宿願は遂に叶わなかった。帰国を願い出ては許されず、後年船出をしてみれば今度は自然がそれを許さない。仲麻呂の望郷の念は、ある意味運命によって阻まれたようなものだ。唐の時代、様々な人種が長安に集まっていた国際社会ではあったが、やはり現代ほど簡単に行き来ができるものではない。そのような時代背景の中、帰国が叶わない運命にあると知った仲麻呂の辛さは、想像以上のものだったであろう。 これは、仲麻呂とともに漂流した藤原清河も同様であった。清河は長安へ戻った後、名を河清と唐風に改めて唐に仕えて秘書監となり、そのまま唐の地で没した。しかし、藤原清河本人の帰国は果たされなかったが、唐の女性との間に儲けた娘が父に代わって遣唐使に同行して日本へ赴いたという。藤原清河本人ではないが、阿倍仲麻呂とは違う結末を迎えることとなった。 唐に渡ってそのまま帰国できずに亡くなった日本人として、もう1人忘れてはならない人物がいる。唐名を井真成(せい・しんせい)という。2004年に中国の西安(長安)で発見された墓誌に記されていた日本人留学生の名前である。発表された当時、阿倍仲麻呂以外にも唐で重用された留学生が存在したということで、かなりの衝撃を受けた記憶がある。確か、世間でも新聞の一面にトップ記事で大きく取り上げられていたように思う。世間一般でこの発見にどれだけ関心が集まったかはわからないが、『翔べ麒麟』を読んでそれほど時間が経っていない時期に目に留まったこともあって、特に強く印象に残った人物だった。 井真成の日本名は不明で、日本の姓と「井」を関連付けて「葛井(ふじい)氏」や「井上(いのへ)氏」とする説があったり、日本姓と関係なく皇帝から姓を授けられたためまったく不明であるとする説など様々ある。井真成は墓誌に刻まれた文章によると、優秀で正式な官僚として唐朝に仕え、急病で734年に36歳で亡くなったという。玄宗はその死を哀れんで、尚衣奉御の位を与えたとされる。尚衣奉御というのは皇族やそれに縁が深い人物に与えられる官職らしい。素直に解釈すれば、井真成は仲麻呂と同様に玄宗から重用されていたのだろうと考えられる。しかし、墓誌全体の内容などから考えると、生前の職歴などが書かれていなかったりして色々と謎(矛盾)が多く、結局のところ真相がわからないようだ。 それはともかく、年齢からいって阿倍仲麻呂と同世代であり、同時期に唐に渡ってその地で亡くなっているのは間違いないから、仲麻呂とも当然面識があったであろう。年も近くともに若かったから、様々な夢を語り合っていたのかもしれない。井真成の場合は、阿倍仲麻呂や藤原清河と違って若くして世を去ってしまったから、望郷の念が深くなる前、夢半ばで亡くなったのではないだろうか。 遣唐使として唐を訪れたこの3人は、三者三様の最期を異国の地で迎えた。3人とも英雄的な生き方をしたわけではないが、それぞれの人生を比較して色々と思いを馳せることができるのも、歴史のおもしろいところだろう。
(2016/12/19)
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