とくがわむねはる
徳川宗春
(1696〜1764)
日本・江戸時代中期の人物。第七代尾張藩主。
三代藩主綱誠の二十男として生まれた。四代藩主の兄・吉通にかわいがられて育ち、偏諱を受けて通春と名乗った。
十八歳で江戸へ移り住むと、やがて八代将軍・吉宗の目に留まって寵愛を受け、三十四歳の頃に梁川藩三万石を与えられて大名となった。その頃、飢饉により領民が苦しんでいたため、種もみ(御蔵米)を放出して餓死者を出すことなく領民を救った。
間もなくして、兄の尾張六代藩主・継友が病死したため、急遽その後を継いで尾張七代藩主となり、吉宗から偏諱を受けて宗春と名乗った。藩主となって初めて名古屋へ戻った際には、自ら漆黒馬に鼈甲製の唐人笠と金縁の黒装束の奇抜な衣装をまとい、随行の者らにも華麗な衣装を着せて、名古屋の民衆を驚喜させた。
当時、幕府の享保の改革で質素倹約が徹底されていたのに対し、規制緩和や開放政策を打ち出し、祭りの復興、芝居小屋や遊郭などの許可、夜間を明るくして女性の外出を可能とし、自らは派手な衣装で町に出るなど、民衆を楽しませ、喜ばせる政策を進めた。藩士に対しては、自著の「温知政要」を配布して自身の政治理念を説いた。こららにより、名古屋の町が活気づき、「名古屋の繁華に興(京)がさめた」といわれるほどの繁栄をもたらした。
幕政に相反する政策を進めたために幕臣からの反感を買い、幕府と朝廷との不和により勤王で知られる尾張藩が重視されるようになったため、老中松平乗邑が宗春の留守を狙って国元の家老竹腰正武らに働きかけ、尾張藩を宗春以前の政策に回帰させて藩士らを対立させるなどの混乱を誘発させた。これを口実として、遂に幕府から隠居謹慎を命じられ、わずか十年足らずで藩主の座を退いた。以後、名古屋からは急速に活気が失われた。
隠居謹慎後は外出を一切禁じられたが、気ままな余生を送った。後に菩提寺の建中寺への参拝が許可されると、謹慎から二十数年ぶりに名古屋の町へ姿を見せた宗春に対し、町民らが提灯を手にして出迎え建中寺までの道を照らしたという。その後、名誉が回復されたのは、没後七十五年が経ってからであった。
享年六十九。
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