わたなべかよう
渡辺通
(1511〜1543)
日本・戦国時代中期の人物。毛利家家臣。
毛利家譜代の臣・渡辺勝の子。祖先は源頼光に仕えた頼光四天王の筆頭の豪傑・渡辺綱(わたなべのつな)といわれる。一族の伝統に従って一字名を名乗った。
父・勝が、毛利元就の弟・相合元綱の擁立を企てた一人として粛正された際に、難を逃れて備後の国人・山内直通の庇護を受けた。山内直通の元で元服し、偏諱を受けて「通」を名乗った。
山内直通が尼子氏と不仲となると、毛利元就が尼子氏に対抗するために山内直通に接近を図った。その際、山内直通が通の毛利家復帰と渡辺家再興を求めたところ、受け入れられたため、通は改めて毛利家の家臣となった。
尼子氏の軍勢が安芸国に侵攻して毛利氏の居城・吉田郡山城にて合戦に及ぶと、通は元就の策で誘い出された尼子の軍勢に奇襲を仕掛け、本城信濃守を討ち取る手柄を立てた。さらに、尼子誠久率いる一万の大軍が迫ると、伏兵となってこれに当たり、尼子軍撃退に貢献した。
大内氏の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)では、元就に従って参戦した。しかし、大内方からの離反者が相次いで敗色が濃厚となると、大内軍は毛利軍を殿軍として撤退を開始した。撤退戦を繰り帰した末に追い詰められると、通は自ら元就の鎧兜を身にまとって身代わりとなり、六騎を従えて囮として奮戦し、討ち死にした。後にこの地は「七騎坂」と名付けられた。
生還した元就は、通の忠義に対し子の長(はじめ)を重用して報い、その後も渡辺氏の重用は代々受け継がれていった。
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