郭子儀は名と字が同一であるが、誤植ではない。何故同一なのかは不明である。安史の乱の功労者として真っ先に名が挙げられる人物の1人だ。郭子儀と並んで功労者として知られているのは、副将の李光弼である。戦術面では李光弼の方が活躍したともいわれているが、郭子儀は総大将であったし戦術面でも引けをとらない。この頃の唐軍は各地からの寄せ集めで指揮系統が統一されておらず、苦戦を強いられたが最終的には乱の平定を成し遂げている。唐朝を存亡の危機から救った大功があったが、宦官・魚朝恩の策謀によりたびたび失脚することがあった。しかし、唐朝が危機に瀕すると、そのたびに呼び戻されて見事に窮地を救い、絶大な信頼を得るに至った。
郭子儀は武功が優れているのはもちろんだが、特筆すべきは人格者としての姿だろう。郭子儀は功績が高くても驕慢にならず、兵権を掌握しても異心を抱かず、罰せられても恨み言をいわなかったとされ、寛容で温厚な人柄から、皇帝から唐の国民だけに留まらず、国外の異民族に至るまで皆に敬愛されたともいわれる。 しかしその一方で、大胆なところもある。僕固懐恩の乱で吐蕃やウイグルの軍が迫った時、郭子儀はわずか数十騎を伴ってウイグル陣営に赴いている。ウイグルと吐蕃に確執があることを見抜き、自身の名声が彼らにも届いていることを計算してのことだったが、多数の兵を随行させようとしたり、引き留めようとしたりする者たちを退けて強行した。ウイグル陣営に着くと、鎧兜を脱ぎ捨て、刀や槍も捨てて堂々と姿を現す。これにウイグルの酋長たちは疑念を捨て、馬を下りて郭子儀を歓迎し、説得に応じて協力して吐蕃を討つことを誓ったという。 このように国内外を問わず人望があり、天下を覆うほどの功績があっても主君は疑わず、位人臣を極めても民衆は妬まなかった。85歳で天寿を全うできたのは、終生謙虚に徹したその人柄によるものであるが、郭子儀流の処世術もあったのだろう。郭子儀は特に功績のあった安史の乱以降でも、玄宗、粛宗、代宗、徳宗と4代に亘って仕えたことになるが、これだけ功績が飛び抜けている人物が人柄だけで信頼され続けたというのも考えにくい。いずれにせよ、人柄だけで渡り歩いたのであれば、それはそれでとんでもない聖人であるし、そうでないとしても、ある意味軍才以上の人心掌握術を備えた知恵者であることは間違いなかろう。
さて最後に、晩年の郭子儀の少しおもしろい逸話を紹介しておこう。
(2016/12/23)
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