註:翻訳文は百度百科の「田豊(元末将領)」の記載に基づく。一部、未翻訳、誤訳、表記不能文字などあり。
田豊(元末の将領)田豊(?~1362)、元末の山東の人、毛貴の死後に益都行省丞相(行中省書:元の地方統治の最高単位として設置した行政機関。丞相はその長官)に任命され、花馬王を称し、生年は不詳、至正二十二年(1362)十一月に死去した。 人物の生涯 田豊は、幼い頃は家が貧しく、自力で富み栄えて家の暮らしを整えた。元末は極悪非道な者が権力を握り、災禍が絶えなかった。家や故郷を守るために、田豊は遂に竿を掲げて蜂起し、初めは義兵万戸となって黄河を守り、その後、奔暗東明(悪事から足を洗う)して反元軍に加入し、一度山東を元の良将チャガン・テムルから計略で攻め取って回復し、元の功労者の滅亡を加速させた。しかし、その民族の大義と功績はすでに七百年近く冤罪を被って明らかになっておらず、今まさに真実をもって世に知らしめ、公道をもって花馬王に返すのである。
乱世の英雄は立ち上がり、紅巾軍は中原を駆け回り、毛貴は北伐を命じられ、至正十七年(1357年)春二月二十七日、水軍の指揮官は海州から海路で膠州を奇襲攻撃し、三月十二日(庚辰)に莱州を攻め落とし、二十六日(甲午)に軍事の要所益都を攻略し、すぐさま、般陽路を下り、二十九日に浜州を攻め落とし、四月に[くさかんむり+呂]州(きょしゅう)を攻め落とした。山東の反元の気勢は大いに振るい、毛貴は益都路平章に昇格した。 至正十七年(1357)七月十六日、田豊が部隊を率いて蜂起し、北伐する紅巾軍に加入し、東路北伐の山東反元軍の主力の一つとなった。領土を広げ、連戦連勝、田豊率いる蜂起部隊は第一に済寧路(今の巨野)を攻め落とし、元の義兵万戸孟本周が反攻して、田豊は一時済寧路から撤退し、済、濮一帯(今の済寧、[ケン]城、臨清)に転戦した。同年九月に東昌を攻撃し、元の太尉ヌドゥルガ(?)は城を閉ざして敢えて出ようとはしなかった。
至正十八年(1358年)一月、田豊は東平を攻略し、元朝の南北漕運の要衝を分断し、いずれも元朝の経済的生命線を断ち切るものだった。;同月大名、広平等の地を攻め落とし、その後また曹(今の[くさかんむり+河]沢(かたく))、濮(今の甄城)から転じて元の衛輝路(今の河南汲県)を攻撃した。義兵千戸の余宝は元の知枢密院事宝童を殺して蜂起し、毛貴に降り、余宝は棣州に据えられた。 同年末、田豊は元の順徳路(今の河北[ケイ]台)を攻め、毛貴と協力し合い、継続して北へ向かって進行し、この前、毛貴は王士誠の別部隊を派遣して、益都から出兵して関鐸、潘誠の中路軍に協力させ、懐慶路(今の河南沁陽)、晋寧路(今の山西臨汾)を占領した。毛貴の北伐は棗林に至り、元の枢密副使達国珍を斬り、進んで柳林(今の通州の西)を包囲し、大都へ間近に迫り、その後、補給不足で元将劉哈剌不花に柳林で敗れ、済南に退却した。 この前の至正十八年(1358)五月、劉福通は[ベン]京(開封)を回復した。靖康二年(1127)に金が[ベン]梁に侵入してから、二百三十年占領され、時に回復し、中原人民は喜ぶことができただろう。劉福通は旧皇城の中に宮殿を築いて、小明王韓林児を迎えて住まわせた。明王は劉福通を太保、毛貴、田豊を丞相、王士誠、楊城、陳[けものへん+柔]頭(ちんどうとう)、徐継祖を平章とした。 東路軍の北伐が挫折した後、毛貴は益都へ退いて守り、田豊は部隊を率いて山東を転戦し、東平に長期駐屯して守った。毛貴はかつて永義王趙均用の部将であった。至正十九年(1359年)四月、趙均用は南方で敗戦して失地し、淮安から山東義軍の毛貴に身を投じた。趙君用(趙均用)は権力を奪い合うことや、権力をもてあそぶことに慣れていた。今回は山東占領が企図され、毛貴殺害の陰謀が計画された。毛貴は不幸にも被害を受け(殺害され)、山東の紅巾軍の群龍無首(指導者がいなくて物事が進められない)を招き、最も有力な指導者を失い、紅巾軍内部に重大な分裂を引き起こし、[ベン]京はたちまち後方無援となった。 同年五月、元将チャガン・テムルが山東の内乱を聞き、山西へ軍を東出する機をうかがって、紅巾軍に反撃し、南東両面から、さらに大軍を水陸で包囲攻撃させて[ベン]京を脅かし、八月に[ベン]京が陥落し、劉福通や韓林児は東門を飛び出して、再び安豊へ退いた。元軍の反撃は凶暴残酷で、「土地を奪い、城を虐殺する」、無数の庶民が虐殺された。
まもなく、毛貴の部将徐継祖が毛貴の被害を聞き、七月に遼陽(今の遼寧省遼陽市)から益都へ帰還し、趙均用を殺して、毛貴の仇を討ち、毛貴の幼子を平章とし、その後趙部と互いに殺し合い、益都、済南一帯は様々な部隊編成の番号が異なる紅巾軍が互いに攻撃し合う混乱状態に陥った。この時、ただ田豊だけが慎重で落ち着いて、勢力も比較的完全に保たれていた。
至正二十一年(1361)夏六月、元の順帝は山東紅巾軍の内乱に乗じて、元将チャガン・テムルを派遣して五路軍を率いて山東を攻撃し、冠州(今の冠県)、東昌は相次いで陥落した。
ココ・テムルは父の職を世襲し、継続して益都を包囲攻撃した。
チャガン・テムルは、この時、元の柱将であり、文武両道に秀でており、後世の曽国藩(清の軍人、政治家。太平天国の乱の鎮圧に功績)のように、軍事的才能が際立っており、わずか十年間で、軍隊を率いて万里を縦横に走り、数百万人に及ぶ紅巾軍を破り、陝西から山東に到る一線より北の中国北部地区全域を、元朝の手中に取り戻し、元朝が狂乱を挽回した柱石と見なされ、蜂起した農民に血生臭い虐殺を行った死刑執行人でもある。
チャガン・テムルが刺殺された後、元朝は再起の希望を完全に失った。秦嶺、淮河より南の半分の河山は続々と全面的に失われ、日増しに悪化する情勢は元朝の上層統治集団を分裂させ、急速に滅亡した。
(2022/3/13)
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