「田豊」つながりで取り上げることにした。「田豊」といえば、三国志に登場する袁紹の幕僚の田豊が有名。元の末期にも「田豊」という人物がいるのはずいぶん前に知ったが、その頃は特に調べようという気は起こらなかった。それが唐突にその気になって、勢いで一挙に翻訳を終わらせた。ちなみに、明代中期に田豊という士官がいたらしいが、こちらは倭寇との戦いで戦死した(1551)だけで、これといって取り上げることがない。 紅巾軍の田豊は、歴史の表舞台での活躍期間は1357年~1362年の6年と短期間である。このわずかな期間ですぐに頭角を現して、後に「花馬王」を自称した。花馬王の名前の由来は不明。王名というと地名から名付けるイメージがあるが(漢中王や陳留王など)、地名が由来ではないように思う。唐代に辺境に入った良馬を「三花馬」と呼んだり(馬に三花飛鳳の字が印刷されていたから)、馬のたてがみを三つ編みや五つ編みにして飾り立てて崇拝する者を「三花馬」や「五花馬」と呼んだりすることがあるらしく、この辺りが関係しているのかもしれない。 田豊が加わった紅巾軍は、白蓮教の教祖・韓山童が処刑された後、子の韓林児を劉福通らが擁立して挙兵した農民軍である。頭に赤い布を巻いていたから「紅巾軍」と呼ばれ、一連の反乱は「紅巾の乱」と呼ばれる。紅巾軍は単一の組織ではなく、いくつかに分かれているらしい。明の太祖・朱元璋も紅巾軍に加わっていたが、山東の紅巾軍とは別の紅巾軍だったようだ。山東の紅巾軍は国号を「宋」として、一時的に開封を占領して首都としていたが、元の名将チャガン・テムルの反撃で開封を奪われ、急速に勢力を失っていく。後に韓林児は朱元璋に保護される際に亡くなり(暗殺説がある)、朱元璋が白蓮教の禁教令を出したこともあって、紅巾の乱は終わった。 田豊はこの紅巾軍の将ということだったので、当初は粗野な人物を想像していた。ところが、調べてみると、貧民から自力で富を築いたり、毛貴死後の内乱では冷静に状況を見極めていたり、果てはチャガン・テムルを謀殺するなど、意外にも知謀に長けた人物だったことが判明。田豊が山東を占領していた頃は、軍民がそれに服していたようだから、人望や統治能力もある程度備わっていたのだろう。もちろん、軍を率いても各地で幾度となく勝利を収めているから、軍事の能力にも秀でている。1357年7月に紅巾軍に加わってから、1年と経たずに(1358年5月)韓林児から丞相(益都行省丞相と思われる)に任じられていることからも、その才覚や功績は目覚ましいものであったとうかがえる。
この田豊の前に立ち塞がったのが、チャガン・テムルである。チャガン・テムルは漢の文化に傾倒し、科挙を受けて挙人として合格した過去があり、その後は紅巾軍の討伐に大きな功績を挙げた文武に秀でた人物だ。チャガン・テムルはその武功によって官職と地位が次々に昇進、中書省平章政事、河南山東行枢密院事などを歴任した。死後には、忠襄王や潁川王を追封され、その父親も汝陽王(後に梁王)に封じられるほど元の朝廷から高く評価されていた。 田豊はチャガン・テムル、ココ・テムルの親子に敗れて降伏。この時、チャガン・テムルは田豊に山東行省平章事の職を授けて専権を許しているようだから、そのままの地位や権限を安堵したようなものと思われる。長年にわたって元朝に激しく反抗していた敵対勢力の頭領に対して、殺されないだけでも十分であろうに、ここまでするのは破格の待遇ではなかろうか。山東の軍民が田豊に服していてその統治に必要だったということもあるだろうし、田豊自身の能力も高く評価していたのだろうと思う。おそらくチャガン・テムルは、これだけ厚遇しているのだから、裏切られるなどとは想像すらしなかったのだろう。田豊が暗殺を企てて陣営に招いた時、疑いもせずに出向いて殺されてしまった。 翻訳した記事は、原文の著者の主観がかなり入っており、チャガン・テムルの暗殺を成功させた田豊について「元を滅ぼす歴史上でその功績は欠かせない」、「功徳の高さは後世の手本となる」と評している。しかし、降将を信頼しすぎたチャガン・テムルも迂闊で落ち度が全くないとはいえないが、殺されてもおかしくない立場からチャガン・テムルに厚遇されたというのに、それを騙し討ちにするというのは、恩を仇で返すようなものではないだろうか。ただ、反元の戦いの中で起死回生を狙う観点から、チャガン・テムルを排除しようと考えるのは、理解できなくもない。だから、チャガン・テムルの死が元の滅亡を加速させたという評価はわからなくもないが、「後世の手本」とまで評価するのは、さすがに違和感がある。 原文著者の評価は、「侵略者に対しては何をやっても許される」と考える中国人の気質に寄るところが大きいように思える。元朝は漢人にとってはただの侵略者だから、どのような手段であっても侵略者(チャガン・テムル)を葬ったというその一点ですべてが肯定される。こういった立場からの評価だろう。もちろん、原文著者の評価が中国で一般的なものであるとも限らないが、侵略者に抵抗したという点でで岳飛などの抗金の英雄も評価が高いとはいえ、紅巾の田豊はこれと同列に扱えるものではないと思う。 花馬王田豊が有能な人物であったのは疑いようがない。反元の志を貫くために、偽って降伏して機をうかがって反撃に転じようと考えたのも理解はできる。しかし、その手段が暗殺というのは、全肯定できないし、かといって全否定もできない。これが仮に、チャガン・テムルの暗殺後に田豊がココ・テムルも退けて、その後の反元の戦いで一定の戦果を挙げていたりしていたのであれば、田豊自身の戦歴としてチャガン・テムル暗殺の重要度が増して、肯定的に捉えやすくなったかもしれない。しかし、実際には戦況を覆すことができなかった挙げ句、ココ・テムルに報復されて、むごたらしく殺される羽目となった。だから暗殺は、田豊自身にとってあまり効果的なものではなかった。こうしたその後の展開が、暗殺の印象を左右しているのかもしれない。 それにしても田豊は、チャガン・テムルさえ葬れば、事態が好転すると考えていたのだろうか。どの程度先を見越しての暗殺計画だったのかは不明だが、チャガン・テムルに匹敵する名将がさらに立ち塞がるというのは、運がなかったというか見通しが甘かったというか。せっかく山東紅巾軍の内乱やチャガン・テムルとの戦いは冷静に乗り切ったというのに、最後にもったいないことをしてしまったものだ。
(2022/3/13)
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