空想歴史文庫

奥州藤原氏


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略伝

ふじわらのきよひら
藤原清衡
(1056〜1128)

 日本・平安時代後期の人物。奥州藤原氏の祖。
 藤原摂関家に所縁がある藤原経清と、陸奥の豪族安倍氏の娘との間に生まれる。
 幼少の頃、「前九年の役」で安倍氏と供に父・経清が討たれ、母が出羽の豪族・清原武貞の妻となったため、養子として迎えられて清原清衡を名乗った。継兄(清原武貞の正妻の子)に真衡、異父弟(清原武貞と母との子)に家衡がいる。
 真衡が清原氏の当主となると、真衡の方針に反発する家衡とともに挙兵して真衡を攻めたが、陸奥守・源義家の介入により敗れて降伏した。しかし、直後に真衡が急死したことで許され、奥六郡(真衡の領地)を家衡と二分する裁定が下された。
 これに不満を抱いた家衡が清衡の館を襲って妻子を殺害すると、難を逃れた清衡は源義家の協力を得て家衡ら清原一族と干戈を交えてこれらを討ち、清原氏を滅亡させた(後三年の役)。
 後に藤原姓に戻し、陸奥を手中に収めて拠点を平泉へ移し支配体制を確立させ、中尊寺の建立など文化事業にも力を注ぎ、奥州藤原氏100年の栄華の基礎を築き上げた。
 享年七十三。



ふじわらのもとひら
藤原基衡
(1105〜1157)

 日本・平安時代後期の人物。奥州藤原氏第二代当主。
 藤原清衡の次男として生まれた。剛腹な性格と評される。
 清衡の死後、その後継者とされる異母兄・藤原家清(小館惟常)を討って家督を奪い、第二代当主の座に就いた。
 基衡は国司を無視して陸奥を支配下に治めていたが、陸奥守に就任した藤原師綱が公田を検注しようとしたため、佐藤季春に命じて兵を出して拒否させたところ、誤って合戦となった。そこで季春が独断で行ったこととして自ら師綱に出頭したため、基衡は万を超える砂金を献上して助命を願ったが許されず、季春は処刑された。
 藤原師綱に代わって藤原基成が陸奥守に就くと、基衡は打って変わって基成と親交を結んで朝廷との繋がりを作るとともに、基成の娘を嫡子・秀衡の妻に迎えた。
 ある時、藤原頼長が摂関家所有の奥羽五箇庄の年貢の増徴を要求したが、基衡はこれを拒否して微増に留めて頼長に妥協させ、奥州における権威を示した。
 文化政策においては、父・清衡の中尊寺をも凌ぐ毛越寺を建立した。また、本尊の造立に際して仏師・運慶に対して金品を惜しまずに大盤振る舞いし、平泉の繁栄ぶりを京都に知らしめた。
 享年五十三。



ふじわらのひでひら
藤原秀衡
(1122〜1187)

 日本・平安時代後期の人物。奥州藤原氏第三代当主。
 藤原基衡の子。基衡の死去とともに家督を継いだ。
 平氏が朝廷を牛耳っていた頃、平清盛の働きかけにより、先代、先々代も為し得なかった鎮守府将軍に任じられ、名実ともに奥州の支配者としての地位に就いた。それから間もなくして、鞍馬寺から源義経を迎え入れ、源氏や平氏を牽制する勢力として目されるに至った。
 関東で源頼朝が挙兵すると、源義経の鎌倉行きを黙認した。その頃、各地では木曾義仲などの源氏の勢力が相次いで挙兵して平氏政権を脅かしており、秀衡が頼朝討伐の兵を挙げるとの噂が京へ伝わってきたため、平宗盛が秀衡を陸奥守に任じて懐柔を図った。秀衡はこれを受けて陸奥守に就任するが、兵を動かすことはなく、新たに木曾義仲と同盟するなどの外交を展開して、源平双方の牽制に努めた。
 頼朝が平氏を滅ぼすと、秀衡に対して貢馬・貢金を鎌倉経由で京に送るよう要求し、奥州と京の独自の繋がりを断とうと図ったが、これを了承して奥州討伐の口実を与えなかった。しかし、頼朝と対立した義経が奥州へ逃れてくると、これを匿って鎌倉と対立する方針を定めたが、間もなくすると病に倒れ、子の泰衡・国衡に対して義経を大将として結束するよう遺言し、世を去った(享年六十六)。
 その後、遺言は1年余りで破られて泰衡が義経を討ったが、頼朝は泰衡の恭順を認めず、奥州討伐の兵を起こした。これにより、奥州藤原氏百年の栄華が潰えた。


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