唐の玄宗というと、やはり、楊貴妃の色香に惑わされて国を滅ぼしかけた暗君の姿がイメージされるだろう。しかし、在位45年に及んだ治世の前半は、紛れもなく名君であった。自ら率先して政策を推し進めるタイプではなく、有能な人材を見極めその意見によく耳を傾けて政治を正しい方向へ導くタイプだった。 この時に活躍した代表的な人物が姚崇と宋mだった。2人はいずれも則天武后に見出された人物である。政権が交代すると、前政権で重用された人物が遠ざけられるのが殆どであり、特に則天武后の時代は「武韋の禍」といわれる皇帝が権力を奪われて女性が独裁政治を布いた時代ということもあって、その頃に重用された人物が次政権で登用されるとは考えにくい。しかし玄宗は、その姚崇と宋mを登用して、唐代の最盛期を作り上げた。この治世が、唐の太宗(李世民)の治世「貞観の治」と並び称される「開元の治」である。
「十八史略」の中に、玄宗が名君であった(名君であろうとした)ことがうかがえる逸話がある。
これは「十八史略」の中で最も印象に残っている逸話だ。嘆息するところに後の姿が暗示されるが、自身がどうあるべきかをはっきりと自覚していたことがわかる。この言葉は、北宋の范仲淹の「先憂後楽」と共通する為政者の心構えだ。 治世の後半になって道を誤り、それまでに築き上げた繁栄を全て失う事態を招いてしまったのは残念でならないが、玄宗は民衆をいたわる心は忘れていなかったという。そのためなのか、安史の乱を引き起こしたにもかかわらず、その後もなお玄宗は民衆から慕われていたともいわれている。治世前半に繁栄をもたらした功績が、これで少しは報われたのではなかろうか。
(2016/12/4)
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