田豊という人物は、正史『三国志』(魏書・袁紹伝)によると「生まれつきの傑物で、権謀奇略に富む」と評されるほど才気にあふれた人物とされ、東晋時代初期には、孫盛(歴史家)によって「田豊と沮授(袁紹の謀臣)の計略を観察すると、張良と陳平(前漢高祖・劉邦の謀臣)といえどもどうしてこれにまさることがあろうか」と絶賛されている(註:過去の英傑と比較してその人物を評価する例は多くあり、諸葛孔明も管仲や楽毅、太公望や張良に匹敵すると評される)。
しかし、皮肉なことに、田豊は主君・袁紹に進言しても度々退けられ、思う存分に才能を発揮することができなかった。それというのも、袁紹という人物は、優柔不断で物事を道理ではなく好悪(感情)で判断する傾向あり、讒言を真に受けたり田豊の進言で気分を害したりしたことによって、田豊を遠ざけるようになったためである。それでも、田豊は実直な性格であったから、袁紹の不興を買うことを恐れることなく献策し続けて衝突を繰り返した。当時、この主従関係は、荀ケ(曹操の謀臣)によって「田豊は剛直で上に逆らう」と評されている。 この評を文字通りに読むと、田豊は理由もなく目上の人間に反発する性格の持ち主と解釈される。しかし、田豊の進言は全て理にかなったものであり、主君(袁紹)の好みに迎合して意見を曲げることをしなかったに過ぎなかった。これは、田豊の忠節によるものだから、「上に逆らう」というような叛意とは全く異なる。むしろ、要求されるのは主君の器量であり、袁紹に田豊を用いるだけの器量がなかったことを表しているのだ。 田豊の最期もなかなか興味深い。袁紹が曹操討伐のために南進しようとした際、田豊は短期決戦を臨む袁紹に対して持久戦を強く主張して怒りを買い、投獄された。その後、田豊の予見通り袁紹が官渡の戦いで敗北すると、ある者が田豊に対して「(田豊の進言通りの結果となったので)あなたは必ず重用されるでしょう」と言った。田豊は「勝てば生命を全うできたが、負けたとなると殺されるだろう」と答え、間もなく袁紹の命で殺された。 田豊は、殺されることを悟りながらも、潔く死を受け入れた。おそらく、己の力が及ばなかったこと、あるいは、仕えるべき主君を見誤ったことを恥じてのことなのだろう。『三国志演義』では、袁紹の命が下ると「仕えるべき主君を見誤ったのだから、殺されても本望だ」と言って自決する場面が描かれているが、これは田豊の性格を上手く表現している。 狭量な主君の下で不遇な境遇に追いやられながらも、その死さえも自らの不明によるものだとする姿は、まさに忠臣である。その生き様は忠臣であるが故に実に不器用なものであったが、田豊が主君に恵まれていたとすれば、三国志の歴史も、田豊自身の生涯も大きく変わっていたに違いない。
(2009/7/21)
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