註:翻訳文は百度百科、維基百科の「馬拡」などの記載に基づいて編集。一部、未翻訳、誤訳、表記不能文字などあり。
馬拡(宋代の著名な外交家と将領)
馬拡(?−1152年1月31日)、字は子充、狄道(今の甘粛省臨[シ兆])の人。宋代の伝奇的な外交家で、宋、遼、金の各政権の間を渡り歩き、後に五馬山義軍の蜂起の指導者となり、失敗後は南の揚州に戻り、抗金活動に参加し続け、秦檜の政権になって退官した。1152年1月31日に世を去った。
馬拡は経験が広く、見識が広く、宋、遼、金の三王朝の君臣とも交際したことがある。
彼はかつて自分の度胸と弁舌に頼って、外交交渉のような困難な政治活動を経験したことがあり、武挙出身で高い武芸を備えているため、血を流した砂場のような悲惨な軍事戦闘を経験したことがある。
彼は北宋と金の重大な外交事件「海上の盟」を目撃し、実践し、「燕京回復」、「靖康の変」、「苗劉兵変」など一連の重大な歴史事件を自ら経験した。
彼は金国開国皇帝の完顔阿骨打の称賛と褒賞を受けたことがあり、遼国の領兵大将耶律大石(後の西遼王朝の創立者)と直接接触したこともあり、阿骨打の金軍と一緒に燕京を攻撃した。
その後金軍は南下し、河北義軍を率いて何度も金人と血戦したことがある。
痛ましい国破の変を経て、金人の捕虜として囚われ軟禁されたこともある。
金斉連合軍の大兵が国境を圧し、高宗朝廷に重用されたことで江防と海防に関与し、宋高宗に遠く離れた辺鄙な山地に貶斥(官職を下げられる)されたこともある。
金営や遼朝に出使しても、彼の苦労をいとわず、困難を恐れず、犠牲を恐れず、使命に恥じず、折冲樽俎(外交交渉を進めて相手側を制して勝ちを収める)の抗争精神は、宋の「弱国外交」の中で、珍しい強者の風貌を示していた。
金人に障害を受けても、本朝で冤罪に遭い、拘留されたり、官吏を落とされたりしても、彼は依然として奮闘し、身を顧みなかった。
<人物の生涯>
名家に生まれる
馬拡の父は馬政、母は田氏。政和八年(1118年)武挙に合格し、武挙上舎の出身を賜り、承節郎、京西北路武士教諭を授かる。遼国の馬植、変名して趙良嗣は北宋に潜入し、連金抗遼の策を献上した。宣和二年(1120年)九月、馬拡は父に随行して金国へ出使した。
金国へ出使する
馬拡が最初に父に従って金国へ出使していた間、金主完顔阿骨打はその技量の程度を探りたいと思って、一緒に狩りに行こうと誘い、獲物を見付けてもむやみに動いてはならない、と部下に警告し、「南使」の馬拡が先に射なければならなかった。
結果、「一頭のノロジカが躍起し、(馬拡が)馬を飛び跳ねて追いかけさせ、弓を引いて一発でこれを仕留めた。おのずから阿骨打以下すべて善と称した。この晩、粘罕が言った:「見た皇帝は、よく射った! 南使が射当てて、私の心は楽しかった、と言った」。……次の日、阿骨打はその弟韶瓦郎君を派遣して貂(てん)の毛皮、錦の衣、犀の帯など七つを与えた:「南使はよく馳せて射たので、皇帝は褒美を与えた。粘罕の父撤(王亥)相公という者(すなわち、完顔撤改)は言った:南使が射当てて、名は遠くに聞こえて、名を挙げることができ、今後は「也力麻立(射撃の名手)」と呼ぼう」。
北遼へ遊説する
馬拡は今度の出使で、宋金両国は海上の盟を結び、金は遼中京を攻撃し、宋は遼燕京を攻撃することを協議して、宋廷は童貫二十万軍を派遣して燕京を北伐し、童貫は戦わずに勝利しようとして、張宝、趙忠の二人を派遣して燕王(つまり北遼宣宗耶律淳)を遊説したが、燕王に殺された。また譚九殿直らを遣わして易州の土豪史成と語らい、兵を起こして易州城を献上させようとした。その結果、彼らは史成により燕京に送られ、斬首された。
童貫は遊説がだめだと知って、以前閤門宣賛舎人(官名)として頼った馬拡を募った。馬拡はこの旅にはまさに山に虎がいることを知っていながら、それでも言った:「私は不測の捕虜となっても、実際に国家の安否と存亡に関わるから、親愛を捧げる」
馬拡は密かに遼国の漢児劉宗吉を受け入れた。遼廷では宋の出兵は金人の約束に応じたのではないことを明らかにし、天祚帝がまだ健在であり、耶律淳が皇帝と称するのは不当であるから、出兵して罪を問うのである。最後に、「馬(馬拡)には度胸があり、抗論を口にして屈服せず、燕王は恐れて、王介儒を(和平交渉に)派遣した」。
大石と舌戦する
しかし間もなく耶律淳が死去したため、北遼耶律淳の妻蕭徳妃が太后となり、蕭徳妃の兄蕭干は宋に対して不屈であることを力説し、蕭徳妃がこの策を決定するよう促し、蕭干は耶律大石(後の西遼徳宗)を馬拡の所に派遣して交渉した。
馬拡が自著した『茆斎自叙』はこの昔のことを回想している:四軍(蕭干を指す)は大石林牙(すなわち耶律大石)を会いに来させ、言った:「南北がよしみを通じて100年、何故兵を挙げて土地を略奪するのか?」。
私は答えた:「朝廷は女真に燕の地を返すように海から何度も使者を送ったが、温かい言葉で答えるたびに、信従しようとしなかった。最近またその文牒を得て、文書が言うにはすでに山後を占有して、南朝が燕地を必要としないならば、渠国が自ら取ると。朝廷は燕を救うために兵を送らなければならなかった」。
林牙は怒りに顔色を変えて言った:「河西家(すなわち西夏)は何度も上表し、兵を興して南朝を挟撃しようとしたが、本朝は印章を南朝に封じるたびに、利を見て義を忘れるような間諜のいうことを聞かなかった。貴朝は女真の一言を得ただけで、すぐに挙兵をするのか?」。
私は答えた:「夏国は不遜な言を重ねているといえども、数十年間、南朝の寸土を侵略したことはあるだろうか? 女真の言うことは、実際に当たったのであり、本朝はただ燕地を救うだけでなく、自ら国境を固めることも望んでいる」。
林牙はまた言った:「君は使者なのに、どうして劉宗吉と約を結ぶのか」。
私は言った:「貴朝諸公がかつて議論を深めたことで、私はただの「招納使」でしかない」。
林牙は言った:「両国の仲直りの時に、使者を留めることを望まず、食事が終わったら、童貫に伝言してくれ:和を望むなら依然として和、和を望まないなら出兵して陣を見よ」。
但し『三朝会盟北編』が引用した『茆斎自叙』は省略本であり、契丹国志にはさらに詳細がある:林牙は詰問した、両国は盟を結んでいるのに、何故軍を興すのか? 使者である以上、どうして劉宗吉と献城を結ぶのか?
馬拡は言った:「女真兵はすでに山後に至り、本朝は救燕の兵を派遣した。劉宗吉の投降を見て、どうして受け入れないことができようか。」
林牙は言った:「もともと宣賛を留めたいと望んだが、元来通和していたのだから、望むことができなかった。和を望むなら和、戦を望むなら戦、大暑で熱く、諸軍徒を苦しめるな」。話が終わると、馬に乗って去った。
[禾中]師道を説得する
馬拡は耶律大石の処から帰ってきて、[禾中]師道の大営を経過した、[禾中]師道は童貫の都統制を担当して随従し、馬拡は[禾中]師道が林木の近くに野営しているのを見て、急いで[禾中]師道の移営を説得して、さもなくば一旦遼軍が火で攻撃すれば、結果がどうなるか想像もつかない、[禾中]師道は最後に馬拡の勧告に従って移営した。
しかし今度は童貫統軍(官名)は北上して雄州に至り、軍事将領の意見を考慮しなかった。
[禾中]師道は軽率な用兵に異議を唱え、童貫は相手にしなかったが、楊可世が領する前軍は白溝橋で遼軍に降伏を求め、結果遼軍耶律大石と蕭干の挟撃を受け、「矢石は雨の如くで、我が軍は準備不足で、また頑なに指揮管轄している」。
宋軍は最終的に敗戦し、童貫は追及を逃れるため、上奏して[禾中]師道を弾劾し、[禾中]師道は引退を余儀なくされた。
金に随って燕を伐つ
童貫は再び伐燕の兵を起こし、劉延慶を主将として起用したが、最終的に遼軍は耶律大石の指揮の下で勝利を収め、童貫は大敗して帰ってきた。
童貫は金兵に燕京を代取してもらうことを乞うしかできず、趙良嗣と馬拡を金朝に派遣して、金太祖は馬拡を招待して南征燕京に随軍させ、趙良嗣を宋に帰して復命させ、天輔六年(1122年)十二月、金太祖は宗望、婁室などの部を率いて遼燕京に出発した。
進軍途中に金太祖は宋軍の劉延慶の敗戦を知り、馬拡に言った:「契丹の国土を十に分けて我はその九を取ったが、ただ燕京は一分の土地しかない。私は人馬を三面に追い詰めて、あなたの家に取りに行かせたが、このように受けてどうしたらいいのだろうか? 最初に南軍はすでに瀘溝河に着いて、すでに燕に入っていると聞いて、私の心の下でも喜んで、南家の故郷は彼に引き取ってもらって、私は彼と境界を定めて、軍馬は帰国して、早く太平を見て、近くは都統劉延慶が一夜にしていなくなったと聞いて、どんな様子か?」
馬拡は回答した:「兵家の進退は常であり、恐らくまた負けたわけではなく、劉延慶を敗北させたのも、別の大軍が後ろにいたからだ」。
阿骨打は言った:「このように下人を統率し、軍国の大事を失ったように、あなたの家にはどんな賞罰があるのか?」
拡は言った:「将は兵が殺されて損害を受け、兵は将が殺されて損害を受け、延慶は敗れて退いたので、指揮官であっても、軍法が行われる」。
阿骨打は言った:「もし軍法が行われないなら、その後どのように兵を使うのか? 一両日に居庸関に着いたら、我らの兵が戦う勇気があるのを見せようか?」
最終的に金軍の前僕後継(前の者が倒れても後の者がそのしかばねを越えて行く,勇敢に戦い犠牲を恐れない)で、数時間で居庸関を手に入れ、馬拡は金軍の驍勇善戦、左企弓、虞仲文などを金に降伏させたところを自ら目撃した。
金太祖は燕京城に入り、役人たちの朝賀を受け、金兵は大勝利を収めた。
最後に宋朝は百万貫で燕京などの空城を請け負って帰った。
この戦いは宋兵の腐敗を深刻に暴露し、後の靖康の難に禍根を埋めた。
但し金太祖在世時は、親宋政策を実行し、馬拡の出使を通じて達成された海上盟約を固守し、息子の宗望や大臣たちは宋の戦闘力を軽視し、金太祖に宋伐を勧めたが、しかしそれを金太祖が阻止した。
諫言実らず
宣和五年(1123年)三月五日、馬拡は徽宗と面会して、本朝の軍事力が確立されてなく、朝廷の武備強化を要請し、金人の南下を厳重に防ぐことを面と向かって述べ、馬拡は特除武翼大夫、忠州刺史兼閤門宣賛舎となった。
六月、武功大夫、和州防御使に転任した。
馬拡は同時に童貫に陝西の精兵を徴用して河北に増援すべきだと注意するとともに、反乱の前科がある郭薬師の再犯にも注意しなければならないと注意した。
また、屯田、陝西山西の精兵募集を通じて燕山防御を充実させ、少なくとも一年かけて新防御線を構築した。
しかし、これらの提案は重視されていなかったり、実行時に大幅に割引されたりして、結局うやむやになってしまった。
粘罕との面会
1123年金太祖が世を去り、金太宗が位を継いだ後、政策を改変し、金朝君臣は相談して宋伐を決定した。
宣和七年(1125年)十一月、宣撫使は馬拡、辛興宗を副使として派遣し、軍書が粘罕軍に移る前に、蔚、応二州、及び粘罕に南侵の意思があるかを協議し、これは金人の南侵がすでに弓に矢をつがえている際の、馬拡の最後の金への使者であり、馬拡が粘罕(完顔宗翰)軍の前に到着した時、粘罕は傲慢な態度で馬拡一行を扱った。
馬拡は講和条約の履行を継続を希望すると表明した。
しかし粘罕はただ軽蔑して一笑し、宋朝が金朝の叛将張覚を招降させたことはすでに大罪だと主張した。
今応州と蔚州を引き渡せば、被害を受けた両州住民も大いに転居しなければならない。
まして宋も張覚を招降させた大罪のために土地を切って金に賠償しなければならなかった。
最後に今回の面会は気まずい思いで別れこととなり、馬拡が去る前に、金人は豪華な宴を用意した。
食事中も告知を忘れなかった:「これは我らが最後に酒を飲んで歓談したのであり、これからは双方が敵になる」
五馬山聚義(正義のために集まる)
馬拡が宋に戻った直後、金軍は南下し、馬拡は和州から北上して勤王し、真定府に到着して兵を募った。
結果真定府路安撫使劉[韋合]の息子劉子羽と矛盾が生じ、金人と結んで献城すると誣告されて監獄に入れられた。
九ヶ月後に金軍が城を破ってから、混乱を利用して見張りの老兵に頼んでこっそり牢屋を開けて逃走した。
靖康元年(1126年)金兵が真定府(現在の河北正定)に入った時、馬拡は西山和尚洞義軍の抗金に参加し、捕虜になったことがある。
金軍右副元帥完顔宗望はこれを赦し、官職を授けようとしたが、馬拡は堅持して受けなかった。
宗望は酒店を設置して生活することを許可した。
建炎二年(1128年)馬拡は五馬山寨(今の河北省賛皇県境内)に入り、河東、河北の各路の義軍の首領に推挙された。
宋徽宗の子・信王趙榛(一説には燕人趙恭昌充)を招聘して入山させ、抗金を呼びかけて、従う者は10万余りであった。
三月、信王によって兵を乞うために派遣された。
四月、東京に至って留守宗沢に会い、すぐに高宗に会いに行き、拱衛大夫、利州観察使、枢密院副都承旨、河外兵馬都元帥府馬歩軍都総管に破格の昇進をし、高宗に4つのことを上奏して、朝廷に人を疑うことなく用いることを請い、高宗はそれに従った。
金国は軍を派遣して五馬山を攻めた。
五月、烏合の兵を率いて北進し、一人一騎で渡河することを許可しない勅令が出され、金兵が南侵し、東京留守宗沢の指揮管轄を受けて、大名府に軍を駐屯させ、洛州、趙州と真定府を直接占領した。
七月、金軍の三路の大軍が五馬山寨を陥落させた。
十月、馬拡は清平(今の山東省臨清)へ転攻し、金の右副元帥完顔宗輔の大軍と城南において戦った。宋高宗に援助を求めたが、結果は得られなかった。金兵が砦を陥落させ、兵が敗れた後に揚州へ至り、上疏して処罰を待ち、詔により三官降格されて右武大夫、和州防御使とされ、軍職を解かれた。
南下して職に就く
(建炎)三年三月、拱衛大夫、利州観察使に復帰し、枢密都承旨兼知鎮江府事を務めた。
四月、苗劉の変でその間を行き来していたことを理由に、永州居住で停官された。
紹興元年(1131年)、右武大夫、和州防御使に降格され、思うままにすることを許された。
二年(1132年)、河南二広安撫使都統制参議官であったが、間もなく官を捨てて帰った。
三年(1133年)、江淮荊浙諸軍事都督府参議官となった。
四年(1134年)九月、都督川陝荊襄諸軍事趙鼎に推薦され、差川陝荊襄都督府詳議官を務めた。
十月、参殿して引見し上意にかなう回答をして、拱衛大夫、利州観察使、樞密副都承旨兼行宮留守司參議官に復帰した。
十二月、車駕に従って平江府に赴くよう命じられ、知枢密院事張浚の推薦で馬拡は江南西路沿江水軍制置副使とされ、鎮江府に駐屯し、後に武昌駐屯軍に改められた。
晩年は親衛大夫、利州観察使を歴官した。
七年(1137年)二月、知鼎州。
八年、荊湖南路馬歩軍副総管を務めた。
金人は烏陵思謀、石少卿を宋に遣わし、烏陵思謀(すなわち『金史』の烏林答賛謀)は馬拡が金朝へ出使した時の古くからの知り合いであり、「思謀が初めて入国した時、馬拡の所在を問い、その時馬拡はちょうどよく州上におり、急いで召集された。馬拡は入館し、思謀と面会して、海上での出会いの喜びを述べるため、多くの捕虜の頭領の小字を指折り数え、その安否を尋ね、思謀はすべてその諡の号を挙げてそれに答えて、恭しくて不安だ。その時馬拡は命によって使者として回復を望んで、思謀が小さいことを危惧した。
そこででたらめを言った:「馬某は昔国中を命を受けた使者として往来していたが、とても尊敬している。今日再び派遣されたら、必ず面会して留まることを恐れる」。
そこで派遣されないと確信した。
馬拡の最期
十一年(1141年)五月、宮観を乞う。
馬拡はその後秦檜が為政した後に罷免された。
馬拡は敵味方双方の旧友、金国が台頭した時の素朴な風習と家族の笑顔を「茅斎自叙」に書き、作品で自分の若い頃の険しい歳月と壮志未酬(志が実現しなかったこと)を回想するしかなかった。
紹興二十一年十二月二十三日己丑(1152年1月31日)馬拡は世を去った。
代表作品:『茅斎自叙』『続自叙』など
芸術作品:「茅盾文学賞」受賞作「金甌缺」の主人公。著者:徐興業
(2023/2/25)
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