空想歴史文庫

馬拡


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雑感

 馬拡は、「宋史」に立伝されていない抗金英雄の一人である。武挙出身の武官でありながら、武功よりも外交家として功績を残した異色の人物だ。
 今回は考察記事を多数翻訳したので、詳しい話はそちらを参照。その他のところで気になるところをいくつか挙げる。

○馬拡の年齢
 父・馬政に従って海を渡り、金主・完顔阿骨打を始めとして多くの重臣たちが注視する中、獲物を一撃で射貫いて金人一同から称賛を浴びる姿は、颯爽とした若武者を思い起こさせる。中国の小説「金甌缺」でも、劉リ(1098〜1162)より年少の若武者として主人公・馬拡を描いているようだ。
 しかし、紹興十一年(1141年)に馬拡が「累乞宮観」したことに基づく考察は非常に説得力があり、死去した1152年に七十歳くらいだったとすれば、完顔阿骨打らの前で弓馬の技量を披露した頃(1120年)には、意外にも既に三十代後半くらいだったことになる。

○南宋時代
 馬拡は、「海上の盟」「燕京回復」「靖康の変」と北宋末期の主要な事件を経験し、南宋建国後も抗金活動を続けたらしい。しかし、当初調べた段階では北宋時代の事績ばかりで、南宋時代の行動は殆ど不明。ということで、多数の考察記事を翻訳してみたが、結局南宋時代のことは殆どわからなかった。馬拡の評価ポイントとしては、南宋時代よりも北宋時代の方が重視されるらしい。あるいは、南宋時代はこれといって目立った行動がなかったか。

○海上の盟
 馬拡の北宋時代の活動で最も重要なのは「海上の盟」で間違いない。しかし、どうやら本場中国では、「靖康の禍は海上の盟に始まる」というように、この「海上の盟」自体が歴史上の誤りと考える傾向があるようだ。おそらくこれは、約百年後に南宋がモンゴルと結んで金を滅ぼした後に結局モンゴルに滅ぼされたことと重ねているからだと思われる。
 「海上の盟」を元凶と考えるのが中国人の共通認識なのかはわからないが、連合しながら金がほぼ独力で遼を滅ぼした後、金は盟約を守って燕京を明け渡すなど、宋とは争わない方針を示していた。金が南侵を始めたのは、宋が盟約を反故にする対応を繰り返したことが原因と思うから、海上の盟自体を問題視するという考え方はちょっと意外。

○馬拡の功罪
 そういうわけで、海上の盟で直接的に交渉に当たった馬拡の功罪を考察する記事がいくつか見られるということは、「靖康の禍は海上の盟に始まる」の影響で、馬拡にまで罪を求める考えがそれなりにあるということなのだろう。海上の盟を始めとする馬拡の外交活動は、どれも功績として認識していたから、これもやはり意外だった。
 しかし、考察記事にあるとおり、罪を求めるならば立案者に対してだろうから、これで馬拡が靖康の禍の元凶の一人とされるのは、ただのとばっちりとしか思えない。

○宋金での評価
 金主・完顔阿骨打を始めとする金の要人たちから「也力麻立」と絶賛された馬拡は、それ以降、金人からかなり優遇されていると思われる。
 遼の燕京攻略に、完顔阿骨打は馬拡を名指しして随行を求めた。その間のやりとりは、馬拡を試すようでいて、爽快な回答を得て満足するといった様子が窺える。完顔阿骨打が周囲の宋伐の声を退けて海上の盟を堅守したのは、もしかしたら馬拡の人柄を信用した結果だったのかもしれない。
 完顔阿骨打の死後、金の宋伐が決定して、それを探るために馬拡は粘罕(完顔宗翰)と対面した。ここで、馬拡は粘罕に対して「庭参」するという屈辱を味わうが、その後に粘罕が宴を開いて「ここからは友から敵」とわざわざ宣言する。粘罕は、「庭参」の場では公の立場で接して宴では友として本音で接し、敵味方に分かれるならば潔く戦おうと尚武の金人らしく馬拡と相対した。馬拡がどうでもいい相手ならば、ここまですることはない。粘罕も馬拡を高く評価していたのは間違いない。
 馬拡は真定府で完顔宗望の捕虜となった。完顔宗望は馬拡に官職を与えて降伏を促すが、馬拡が拒否して酒場を開くことを望むと、わざわざ資金援助までして了承した。おそらく完顔宗望は旧友馬拡をどうしても生かしておきたかったということなのだろう。その後馬拡は隙を見て脱することになるが、ここまで来ると完顔宗望は馬拡が逃亡することまで織り込み済みだったのではないかと思えてくる。
 その後、揚州に移った馬拡に、金国使者の烏陵思謀が面会にやってきた。馬拡が最初に金に出使してから既に15年余りが経っていて、おそらくそれ以来会っていなかっただろう。それでも馬拡を頼ろうとしていたのだから、金人の中では時間が経ってもなお馬拡に対する評価が高かったことを伺わせる。
 これに対して、宋朝ではどうだっただろうか。
 金軍の南下に備えて真定府で兵を募っていたにもかかわらず金人と結託したと誣告されて投獄され、五馬山義軍を率いて戦い救援を求めたが得られず、「苗劉兵変」で「莫須有」の罪で左遷されたなど、理不尽な扱いを受けたことも度々見られる。
 高宗が馬拡を武挙で採用した逸材の実例として名を挙げるなど、一定の評価はされているものの、好待遇とまでは言い難い。江南に追いやられ、武官に厳しい宋朝では、これくらいが当たり前と捉えるべきか、功績に見合った評価が得られていないと捉えるべきか。

(2023/6/4)


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